はじめに
アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界 / 堂目 卓生
2014年4月頃の読書。
YOUTUBEでは削除されてしまったみたいだが、堤清二が
- 「日本の偉い人はアダム・スミスを都合よく解釈しているのではないか?」
と言っていたラジオ対談を聴いたので、AMAZONでレビューも多く新書だから安いコレをポチッた。
AZZLOがココでよく書く偉いおっさんへの疑問のファイナルアンサーが書いてあり、速報的に感想文を書いたのだが
何故AZZLOは偉いおっさんに疑問を感じるのか? (偉いおっさんは徳が無い)
読書後少し時間が経った今、AZZLOはどう感じるだろうか?
付箋付けた箇所+感想
1:人間は自分の利益を考える存在であるが、それだけではない。人間本性の中には別の原理もある。それは何かというと、他人にも関心をもつということである。人間は、自分の利害に関係なくても、他人の運不運、あるいは境遇に関心をもち、それを観察することによって、自分も何らかの感情を引き出す存在なのである。この仮説が 『道徳感情論』 の出発点である。
⇒いわゆる今のSNSの利用モチベーションってコレが強いもんな。そしてAZZLO的尺度の出発点は、人はより良いSEXしたい為だけに生きてる でありw その可能性を高められる・高い事を実感 (勘違い) 出来るSNSには時間を費やすもんだからな。
要は 「あぁオレは周りと比較して少しはマシのようだ」 という自尊心の担保だらけだと思うw
AZZLOも、ココの記事の大半は、
- 「糞面倒臭い本読んで、超絶面倒臭い書き起こしをして、それにコメントも付けるという努力をしているから、きっと誰かよりはマシだろう」
という自尊心担保の側面もゼロではないからなw
※基本的モチベーションは、AZZLOのライフログの為である。
2:私たちは、自分の感情や行為が他人の目にさらされていることを意識し、他人から是認されたい、あるいは他人から否認されたくないと願うようになる。スミスは、この願望は人類共通のものであり、しかも個人の中で最大級の重要性をもつものだと考える。
⇒故に
「素敵ぃ!」って言われそうな日記を書く。言われなさそうな日記は書かない。そのネタが無い場合は同情を誘えそうな日記は書く。
訳だからな。「素敵ぃ!」 の範囲がそれぞれ若干幅があるが、全投稿、このフィルターに引っかからないものは無いだろうな。
ちなみに先日公開した
に対するfacebokのコメントは友人から
- 「wwwwぶっちゃけすぎでんがな!(^◇^;)」
というコメントを貰ったw おそらく
- “エロ動画を見まくっている、しかも編集までして管理しているのは、相当なスケベ野郎であり、その手の男子を女子は通常は肯定的に捉えない。すなわちモテない”
からだろう。しかしAZZLOの目論見は
- 「エロ動画見まくっているという事は、色々なセックスを知っているのね? どんなエロい事があるのか知ってみたい!AZZLOさんとヤりたい!」
という導線の種蒔きとして書いているのだw
※正直そこまで考えて書いた訳ではないが・・・w
3:私たちは、他人から是認されることを願う結果、自分の感情や行為を他人が是認できるものに合わせようとする。では、私たちは、誰の是認を基準にして自分の感情や行為を調整するのであろうか。スミスは、次のように述べる。
われわれは、この世に生まれ出ると、他人を喜ばせたいという自然的欲求から、交際するすべての人にとって、つまり自分の親、教師、仲間にとって、どんなふるまいが快適であるかを考慮するように自分を習慣づける。われわれは、進んで他人に話かけ、しばらくの間は喜んで、あらゆる人の好意と是認とを得るという不可能で道理に合わないもくろみを追求する。しかしながら、われわれは、まもなく経験によって、この明確な是認が普遍的にまったく獲得できないものであることを知る。他人との間に処理すべきもっと重要な利害関係をもつようになると、われわれは、一人の人を喜ばせることによって、ほとんど間違いなく別の人を怒らせるということ、そして、場合によっては、一人の人の機嫌をとることによって、他の人のすべての人をいらだたせるかもしれないということを知る。
⇒AZZLOが在籍する組織が、かなりこの状態になっているな。ある意味 “悟ってる” とかいうヤツかもしれない。テレホンショッキング冒頭的になっているし・・・。
4:他人の一方的な判断から自分自身を守るために、われわれはまもなく、自分と自分が一緒に生活する人びととの間に裁判官を心の中に設け、彼の前で行為していると思うようになる。彼は、非常に公平で公正な人物であり、自分に対しても、自分の行動によって利害を受ける他の人びとに対しても、特別な関係を何ももたない人物である。彼は、彼らにとっても自分にとっても、父でも兄弟でも友人でもなく、単に人間一般、中立的な観察者であり、われわれの行動を、われわれが他の人びとの行動を見る場合と同じように、利害関係なしに考察する存在である。
⇒あ、AZZLOはこの “公正な人物” の育成の為に、このブログを書いてる節があるな。勢いで書いた上で見直すと、単純に誤字脱字に気付くし、「ちょっとAZZLOクン贔屓じゃない?」 という尺度が出てくるんだよな。
- 「贔屓はしてないにせよ、お前書き過ぎwww」
という声が聞こえてくるがw 面倒なAZZLOクンと公正なAZZLOさんによる共著がこのブログと言えるな。更に時間が絶つと公正なハズのAZZLOさんも赤面する記事もあるのでw 繰り返して公正なAZZLOさんも成長しているんだな。(余計悪化しているとも言えるがw)
5:スミスによれば、私たちが自分の感情や行為の適切性を図る基準として求めるのは、利害関係のない、「公平な観察者」 (impartial spectator) の是認である。私たちは、自分の感情表現や行為について、親や友人など、親しい人から、「あなたは正しい」 と言われるならば、嬉しく思うだろう。しかしながら、同時に、、そのように言ってもらえるのは、その人が私に対して特別な愛着や好意をもっているせいであるかもしれないと思うであろう。反対に、自分に対して明らかな敵意をもつ人から、「あなたは間違っている」 と言われた場合、私たちは、そのときはショックを受けるかもしれないが、冷静になれば、そのような非難は公平さを欠いたものであり、問題にする必要はないと思うであろう。いずれの場合も、私たちが自分の感情や行為の適切性について確信を持つことができる基準を与えてはくれない。それを与えてくれるのは、私と利害関係にない、そして私に対して特別な行為や敵意をもたない公平な観察者たちだけである。
⇒AZZLOが偉いおっさん等に疑問を感じるのは
- “それぞれの公平な観察者を育ててないんじゃないか?”
という事とも言えるな。”公平な観察者を育てざるを得ない” というのも “見えざる手” な感じするし。
ドラクエ3で言うところの賢者は通常プレイしていれば、誰しもが通過する過程 (見えざる手)な訳で、その賢者としての共通性が “公平な観察者” のスキルな感じするんだよな。
ま、ドラクエ3で言うならば、遊び人じゃないと賢者になれない訳だが (悟りの書がない限りは)
6:実際に有害な行為を意図しただけで、有害な結果をもたらした場合と同じ非難や処罰が与えられる社会は、苛酷な社会になるであろう。そのような社会では、諸個人が互いに心の中を探り合い、警察に密告し合うことになるだろう。個人は、自分の心の中を他人に知られないよう、最新の注意を払って生活しなければならないであろう。実際、人類は、異端審問や思想検閲、あるいは言論弾圧の歴史を通じて、そのような社会が、幸福な社会からはほど遠い社会であることを学んだはずである。
7:スミスは、実際の観察者、すなわち世間を、裁判における第一審にたとえ、各個人の胸中にある公平な観察者を第二審にたとえた。私たちは、自分の行為について、まず第一審、すなわち世間の評価を仰ぐ。しかし、世間の評価が適切でないと感じるとき、第二審、すなわち胸中の公平な観察者に訴え、最終的な判決を求める。
では、私たちは、つねに第二審の判決を第一審の判決よりも優先させるだろうか。第一審は、実際の称賛 (報償) や非難 (処罰) を私たちに与える。これに対し、第二審は、私たちの行為が本当は称賛 (報償) に値するものなのか否か、あるいは非難 (処罰) に値するものなのか否かを私たちの心の中で告げる。したがって、第一審の判決を優先するのか、それとも第二審の判決を優先するのかということは、称賛や非難自体を重視するのか、それとも称賛に値すること、非難に値することを重視するのかということである。スミスは、行為者が 「賢人」 (wise man) であるのか、「弱い人」 (weak man) であるのかに応じて、重視する判決が異なると考える。
⇒AZZLOは最近、この7番が影響しているのか?
- 「人それぞれの正解・正義を持つ事が必要。仮に周りから見て痛いヤツでも、その 正解・正義に沿って生きる方が、死ぬ時にはずっと納得感があって死ぬ事が出来る だろう」
みたいな事を言い出しているw
その点では、AZZLOが疑問に感じる偉いおっさん等は、AZZLOとは違う正解・正義があるのかもしれないが、AZZLOから見ると正解・正義を持ってないから、おかしな発言・行動になってる感じがするんだよな。
「AZZLOは育ちが悪い」 という偉いおっさん は会話の前半では否定していた事を、後半では肯定し始めるし、さっき聞いて意味を教えてもらったばかりの横文字を、あたかも自分が考えていた事のように喋るしw
8:自分が称賛に値する行為を行ったにもかかわらず、偶然の理由によって、世間から称賛を得られなかった場合、賢人は、称賛されないことを意に介さない。一方、弱い人は、称賛を得られなかったことを残念に思う。
⇒プレで負けたが自分を出しきった4億案件 は、全く後悔もなく清々しい気分だったもんなぁ♪
反面、自分が称賛に値すると思っていない企画を営業に強要され、実際称賛 (勝てない) されない
が一番最悪だよな。
最近よく言うのが
- 「”楽しい” か “儲かる” か、どっちかは担保してよ!」
であるw 当然両立がベストだ。
9:ある人の就職を世話しようとして成功しなかった場合、賢人であれば、世話をした相手に対して申し訳ないと思うことはあっても、世間の称賛を得られないことを気にすることはないであろう。これに対し、弱い人は、就職を決めれなかったことが原因で、自分に対する世間の評価が下がり、「頼りにならない人」 という烙印を押されるのではないかと心配する。
⇒だから行動もしなくなるから、どっちみち 「頼りにならない人」 というイメージは定着するよなw AZZLOは人に頼られるような偉い立場じゃないから、評価下げる事はないので良かったなぁ♪
あ、でも勘違いした某大学生が
- 「友人がAZZLOさん所に入社したいって言ってるんです。図らいお願いします」
っていうのあったなぁw
- 「君だったらまだしも、会った事もない君の友人を、図らいが出来る立場だったとしてもやらんわ!!!」
って言ったなぁw
あ、就職・雇用といえば 「良い人紹介してくれ!」 って言われたから紹介したのに、その後何の連絡もしない組織 だったな。既に1年半経っている。
そして、放置と言えば 「AZZLOの家族構成を調べたのであれば教えて欲しい」件 は、2年半経ってるな。
彼らの尺度では、いわゆる “暖めている” ってやつかな。
10:非難に値する行為を行ったにもかかわらず、世間に知られることなく非難を免れる場合、賢人は、すべてを知る胸中の公平な観察者が発する非難を苦にする。これは、「良心の呵責」 と呼ばれる心の作用である。
⇒AZZLOが疑問に思う人は、ボロ出すのにビクビクしてるからなぁ。その人の胸中には公平な観察者は居なくても、”世の中には公平な観察者が居るらしい” ぐらいは知ってるんだろうな。
11:賢人であれば、自分が犯した罪を世間に告白するであろう。一方、弱い人は、自分の悪行が世間に知られなかったことを喜び、これから先も知られないよう願う。しかし、いくら平静を装っても、胸中の公平な観察者は、世間にかわって、あるいは悪行の犠牲になった人にかわって、生涯、行為者を非難し続ける。弱い人は、過去の悪行が世間に知られはしないかと恐れ続けるとともに、胸中の公平な観察者の非難の声に悩まされる。スミスは、他人を殺害した人の枕元に立つ亡霊の正体は、その人の胸中にいる公平な観察者の非難であると論じる。
⇒故に弱い人は “上にゴマする” 等で、現実の立場ぐらいはキープしようと必死になるんだろうな。
ちなみにAZZLOは自分の間違いも振り返る為に、会話を録音してたりする事もあるのだが、AZZLOの記憶と録音内容 (事実) が違う事があった。
これは録音内容も共有した上で謝罪したんだよな。
・・・とは言え、今、起きた事象 (リンク先)を読んで思うのだが、上司が部下である当事者に
- 「お前とは長くはやれなさそうだな」
言うのはおかしいよなwww
今のAZZLOだったら
- 「はぁ・・・。それ僕に言われてもどうにもヘルプ出来ませんよ。貴方の上司と話し合うべき事じゃないですか?」
だな。
12:このように、第一審と第二審の判決が異なる場合に、賢人と弱い人がとる態度は正反対である。しかし、両者が一致する場合がひとつだけある。それは、非難に値しないにもかかわらず、世間から非難される場合である。典型的な例として冤罪が考えられる。この場合、弱い人は、もちろん世間の非難を苦にするであろう。では、賢人は胸中の公平な観察者の声、「あなたは無罪である」 という声にしたがって平静でいられるかというと、そうではない。
スミスによれば、賢人といえども、根拠のない非難に対しては動揺する。根拠のない称賛は無視できても、根拠のない非難は無視できないのである。
⇒貨幣的な成功や歴史を刻んだ的な人達に育てられたAZZLOが、パチンコジャンキーの父親に育てられた人に 「お前は育ちが悪い」 言われる事象 は、”根拠のない非難” って感じだよな。
少々感情的になってしまったがw とにもかくにも、AZZLOをしょぼいというのは別に構わないが、AZZLOを形成する周りの人達を含めて批判するのは絶ぇぇっっっっっ対に許さないんだからね!!!!!!!!!
ってな感じで、事実平静ではなくなったもんな。今でもこの先輩を見かけるだけでその晩、蕁麻疹が出るもんな。AZZLOだけでなく、この先輩と仕事してた人は体壊したもんな。
13:人間は利害関心、気まぐれ、熱狂などのために、胸中の公平な観察者の声を無視し、自己欺瞞によって、自分の欲望や意向を正当化しようとすることがある。人間は、一方で胸中の公平な観察者の声にしたがおうとしながら、他方で、それを無視しようとする矛盾した存在なのである。
⇒AZZLOももっと生産的な事でやりたい事があるのに、エロ動画編集してる からなぁ・・・w
そして、決定的なAZZLOの間違いとしては、組織の人達と千葉に遊びに行った際 に
- 「あんた達本社社員が○△□・・・」
と、組織批判を個人批判にも受け取れる会話をしてしまった事だ。言われた側は仮に冷静であっても
- 「そうかもしんないけど、それ俺が決めた事じゃないし!!!別に企んでもないし!!!(俺だって少なからずその被害受けてるし!!!)」
なんだよな。当時としてはヒエラルキーを尊重したからこその会話のつもりだったのだが、彼らはマネージャー層以上ではなく、半分はAZZLOよか歳下であったw 要らんヒエラルキー尊重だったと思う・・・。これはマジでAZZLOダメ過ぎる。せっかく個としての休日の時間だったのに。その後話す機会があった一人には謝罪した。
14:一般的諸規則は、観察者として他人の行為を判断するときに用いられるだけでなく、あるべき行為を考える場合にも用いられる。スミスは、自分の行為の基準として一般的諸規則を顧慮しなければならないと思う感覚を、「義務の感覚」 (sense of duty) と呼び、「人間生活において最大の重要性をもつ原理であり、人類のうちの多数がそれによって自分の行為を方向づけることができる唯一の原則」 (『道徳感情論』三部五章) であると考えた。
⇒13番のAZZLOの反省は、”一般的諸規則” を踏まえるとおかしいから反省するんだもんな。仮に当時のAZZLO贔屓しても、”少なくてもその休日の場ではダメ” だもんな。
更にAZZLOをフォローするとw “ゴミ社員 糞社員だからしょうがない” とも言えるがw ・・・故に偉いおっさんの不可思議な言動には疑問を持つんだよなぁ。AZZLOと同じヒエラルキーポジションだったら、まぁ分かるんだがw
15:誕生日のプレゼント、結婚のお祝い、旅行に行った人からのおみやげ、何かのお礼など、日常的な行為についても、私たちは、それらが義務感からではなく、純粋な愛情や友情、あるいは感謝からなされることを望む。慈恵的に見える行為が、単に義務感や社会的な慣習にしたがってなされたにすぎないとわかった場合、私たちはいくらか失望し、その行為に対する評価を下げるであろう。このように、私たちは、他人の行為であれ、自分の行為であれ、慈恵的な行為については、一般的諸規則に厳密にしたがうべきだとは考えない。むしろ、私たちは、行為を駆り立てる快い諸感情が一般的諸規則を超えて自発的に発揮されることを望むのである。
⇒AZZLOは自分のも他人のも誕生日のお祝い事が嫌いだし、海外旅行のお土産でよくある体に悪そうなお菓子とかも非常に困るw
誕生日だから集まるとか、プレゼントだとかよりも、ボノボの前を通ると 「たかあきぃ!!!」 とバカでかい声をかけてくるチエちゃんの方がw ずっと承認されてる感じするんだよな。ま、彼女からすれば客引き行為なのだがw
16:正義とは、行為を受ける人の憤慨の対象になるような有害な行為を差し控えようとすることであるとともに、有害な行為がなされた場合、行為をした人に対して何からの処罰を与え、行為を受けた人の憤慨を鎮めようとすることである。したがって、正義の背後にある感情は憤慨であるといえる。
⇒AZZLOが所属する組織において、憤慨な出来事が多発するからこそ、AZZLOは正義を自覚・ブラッシュアップしてこれたもんなぁ。
17:スミスは、社会を支える土台は正義であって慈恵ではないと考える。もちろん、慈恵的な社会は、そうでない社会よりも快適な社会である。しかし、社会を維持し、存続させるために不可欠なのは、慈恵ではなく正義なのである。社会の構成員が、他人の利益を増進しようとしなくても、他人の生命、身体、財産、名誉を傷つけないことをしっかりと守りさえすれば、社会は存続する。逆に、たとえ少数の人が非常に慈恵的であったとしても、社会の構成員の多くが正義を軽視するならば、社会は崩壊するであろう。したがって、慈恵は望ましいものとして勧められれば十分であるが、正義は守るべきものとして強制されなければならない。
⇒慈恵だと時にはやらされてる感あるかもな。
18:私たちは、社会秩序にとって正義が不可欠であると考えて法を定めるわけではない。正義を駆り立てる憤慨を本質的に嫌うために、法によって憤慨を制御しようとするにすぎない。また、私たちが法にしたがうのは、自分が非難に値する者になりたくないと思うからである。しかしながら、私たちが、このような動機から法を定め、それを遵守することによって、私たちは平和で安全な生活を営むことができるのである。
⇒法がないと憤慨が止まらないとも言えるのが、なんとも悲しい事実だよな・・・w そして憤慨は無くなったとしても、楽しみも無くなったら微妙だよな。
法と言えば、大麻とかドラッグとかそぉいうのの規制がある。酒はいくらでも買えるし飲めると同時に、アル中も誘発する訳なので、節度ある楽しみ方が出来るか否かは、大麻・ドラッグも同じだと思う。
もちろん特にドラッグに関しては、”やり過ぎて死ぬ” 的な事象が比較的起こりやすいのでw
- “クラブだけで一晩一個だけ買える”(医師の耐性検査の上で)
とかだったら健全な楽しみ方になるし、売上げアップで税金アップじゃないかなぁ?w
最近事故とかで話題になっている脱法ハーブみたいに “どこでやってるか分からない” よりは “ドラッグはクラブの中だけ” と明確化しとけば良いんじゃないかな。
その上でバキバキな状態で朝のファミレスは良いにしても、始発で帰られても迷惑なのでw ちゃんとチルアウトタイムも営業すれば良いんじゃないかな。”ドラッグやった人は昼まで帰れません” みたいなw
19:社会秩序は、人間がそれを意図しないにもかかわらず、人間の諸感情の作用によって形成される。しかし、人間の中にある 「弱さ」 のため、「自然」 が意図する完全な社会秩序は、これまでのところ実現したことがない。
⇒これも “見えざる手” とも言えるなw
20:スミスは、第二審の裁判官 (胸中の公平な観察者) も、時として、第一審の裁判官 (世間) の声に影響されて、不公正な判決を下すことがあることを認める。この場合、失意と苦難の中に置かれた人間は、第三審、つまり神の裁きを求め、来世において自分が救われることを願う。このように、スミスは、宗教の起源を、世間と胸中の公平な観察者の判決に対する人間の不満に見る。
⇒死後の世界の存在を肯定すると、なんでも諦められるという感じだな。
AZZLOも最近はあまり言わなく・考え無くなったが
- 「ま、あいつは今はよくても、地獄行きだから、好きにやらせておけw」
とか言ってたなぁ。今は
- 「どうせ、あいつの葬式誰も出ないだろw それで家族が恥かくんだよw」
という、現世に近い考え方になったなw
21:スミスは、身近な人に対する愛情が過度になることを禁ずるストア哲学に対して、「そういう場合にはストア的無感動は、決して快適なものではなく、それを支えている刑事上学的詭弁は、[中略] 何の目的にもめったに役だちえない」 と批判している。ストア派が描く賢人と違って、スミスが描く賢人は、自分への根拠のない非難を避けようとするとともに、他人のためには多くを感じようとする人だといえる。
⇒この指摘は表裏一体なのかな。AZZLOは “身近な人に対する愛情が過度になる” と愛国心になり戦争になると思うので、ストア哲学はよく知らないが悪く無いと思う。
だと思うな。
愛 (と勘違いしている依存) と誇りが整理出来てないと、糞面倒な事になりそうだな。
22:集団生活を営むようになると、私たちは、生活にとって必要な水準以上の富、そして社会的地位を求めるようになる。私たちが富と地位への 「野心」(ambition) をもつのは、富や地位の便利さ、快適さのためだけではなく、それらを手にすることによって得られる他人からの同感や称賛、あるいは尊敬や感嘆のためである。スミスは、このような心の動機を 「虚栄」 (vanity) と呼ぶ。虚栄とは、自分の本当の値うち、すなわち胸中の公平な観察者が自分に与える評価よりも高い評価を世間に求めることである。私たちは、自分が富や地位に値する人物になるよりも前に、それらを獲得することを欲するのである。富と地位に値することよりも、それらに与えられる世間からの称賛を優先させるといってもよい。
⇒ “富と地位に値すること” が分からない、すなわち自分の正解を持ってないと、周りから正解と言われる事でなんとなく安堵感を得たくなるんだろうな。高学歴を目指す本質が無い習慣なんかがその代表だと思うw
「お前は何者でもない。だから最低限学歴ぐらいは無いとダメだ」
的な流れは、最初から親が “富と地位に値すること” を子孫が獲得する事を排除している、もしくは親も分かってないからと言えるな。なんとも寂しい話だ・・・。
23:個人のこのような行動は、かぎられた富と地位の獲得をめぐって、個人間で競争を生じさせるであろう。競争は、人間が孤立して生活するならばもたなかった野心—–虚栄心—–を集団生活の中でもつことによって引き起こされる。社会秩序の基礎と同様、野心と競争の起源は、他人の目を意識するという人間の本性にあるといえる。
⇒堤清二の
- 「日本の偉い人はアダム・スミスを都合よく解釈しているのではないか?」
という発言は、コレに対する指摘なんかな? 社内で競争させれば、虚栄心によって成長するという事だろうか。
ま、ある程度は目論見は達成出来る感じはするが、一定の段階を超えると、足の引っ張り合いになったりするからかなw そして成功したとしても、バレないようにビクビクして生きる事になるwww
24:では、私たちは競争に勝って、大きな富や高い地位を獲得すれば幸せになれるのだろうか。逆に競争に負けて、それらを獲得できなければ不幸になるのだろうか。もしも、それが本当ならば、競争社会の人間の大半は、不幸な人生を送らなければならないであろう。
⇒故に名称は違ったり無かったりするが、ある程度セーフティネット的な作用は起きるよな。特に昭和の日本では。
AZZLOが良く言う 「高度成長期まではそれで良かったが」 はコレだな。
25:貧乏な人の息子は、周囲を見回しはじめたとき、裕福な人びとの状態に感嘆する。彼は、自分の父の小屋が安住の場所としては小さすぎると思い、大邸宅でもっと気楽に暮らすことを空想する。彼は、歩いたり馬に乗る疲労に耐えなければならなかったりすることを不快に思う。彼は、自分よりも身分の高い人びとが乗物で往来するのを見て、それらの乗物のどれかに乗って自分がもっと便利に旅行できたらと想像する。彼は、自分が生まれつきの怠惰で、自分のことにできるだけ自分の手を使いたくない人間だと感じる。そして、無数の召使いからなる従者団があれば、彼らは自分を多くの面倒から開放してくれるだろうと思う。彼は、もし自分がこれらのすべてを達成したならば、満足して静坐していることができるだろうし、自分の境遇の幸福と平静を思って楽しく心穏やかにしていることができるだろうと考える。彼は、この至福についてのおぼろげな幻想に、うっとりとする。彼の空想の中で、それは、優れた身分の人びとの生活であるように見える。そして、それに到達するために、彼は富と地位の追求に永遠に自己を捧げるのである。
これらのものが提供する便利さを獲得するために、彼は、その努力の最初の一年、否、最初のひと月は、これらのものがないことによって自分が生涯にわたって被っただろうよりも大きな肉体の疲労と精神の不安を甘んじて受ける。彼は、何かの骨の折れる職業において、自己をきわだたせようと苦心する。たゆまぬ勤勉さをもって、彼は、自分のすべての競争者に優る才能を獲得するために日夜働く。
次に彼は、それらの才能を公共の目に触れるようにするために努力し、等しい熱意をもって、あらゆる就職の機会を求める。この目的のために、彼は、すべての人びとに対して機嫌をとる。彼は自分が憎悪する人びとに奉仕し、自分が軽蔑する人びとにへつらう。彼の全生涯にわたって、彼は、自分が決して到達しないかもしれない人為的で優雅な憩いの幻想を追求し、そのために彼は、いつでも力のおよぶ範囲にある真実の平静を犠牲にするのである。
そして、彼は、もし彼が老齢のきわみにおいて、その幻想に到達するとしても、彼がそのかわりに放棄した、あのささやかな安全と満足に、いかなる点でも優っていないことを知るだろう。そのとき、すなわち、生涯も最後の数年になって、彼の肉体が苦労と病気で衰弱し、彼の精神が、自分の敵たちの不正あるいは自分の味方たちの背信と忘恩によって受けてきたと想像される無数の侵害と失望の記憶のためにいらだち怒っているとき、彼はついに、自分の富と地位が取るに足りない効用をもつ愛玩物にすぎず、肉体の安楽と精神の平静を保つためには、玩具の愛好者がもつ小間物箱以上に適してはいないこと、そしてまたそれらの小間物箱と同様に、身につけて持ち運ぶ人にとっては、それらが彼に提供しうるすべての利点の便利さを超えて、煩わしいものであることを悟りはじめるのである。(『道徳感情論』四部一章)
⇒www
AZZLOのプライベートな友人には、いわゆる資本主義的な成功に、少なくても今は達している人が少なくないが
的な事言われるしな。ま、この手の発言する人は “頑張ってたらたまたま偉くなっちゃった” というケースで、偉くなる事が目的ではなかったと思うが。
26:それでは、真の幸福とは何であろうか。スミスは、幸福を次のように定義する。
幸福は平静 [tranquility] と享楽 [enjoyment] にある。平静なしには享楽はありえないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。(『道徳感情論』 三部三章)
スミスにとって幸福とは心が平静なことである。貧乏な人の息子は、富と地位を獲得するために、「いつでも力のおよぶ範囲にある真実の平静」 を犠牲にした。また、いつまでも政界に返り咲くことを願う失脚した政治家も、心の平静を犠牲にして生きている。いずれも、心の平静を保つためには何が必要十分であるかを知らないために、富や地位を求めすぎているのである。
⇒禅な感じだな。そして平静を犠牲にすると、いわゆる 「必死だなwww」 と笑われる事態になるもんな。
享楽からパチンコの京楽を思い出したが、”公務員やってたまにパチンコする人生でOK” という基準であれば、それはそれでその人は幸福だからな。パチンコでもなんでも、”嗜む” 範囲であれば良いと思う。
27:実は、経済を発展させるのは 「弱い人」、あるいは私たちの中にある 「弱さ」 である。「弱い人」 は、最低水準の富をもっていても、より多くの富を獲得して、より幸福な人生を送ろうと考える。そのような野心は幻想でしかなく、個人の幸福の程度は、富の増加の後と前で、ほとんど変わらないので、「弱い人」 は、だまされることになる。しかしながら、スミスは、そのような 「欺瞞」 が経済を発展させ、社会を文明化する原動力になると考える。
⇒浮気とか不倫もこの中の話って感じするな。
男女問わずよくヤル人って何か欠落してるから
- “全裸になってイイコトしてくれる人がいる自分は少なくても失格ではない”
↓
“あの人ともヤったら、更に失格ではない”
という感覚で、ヤリまくる感じするからな。
の見解とか、「まずちゃんと底辺まで行ってこい!」 という促しだったりするし。
あ、ちなみに 社内営業に必死 で、全スタッフから 「あの営業外してくれ」 と言われ、入社後50万上がったAZZLOに 「150万しか上がってねぇよ・・・」 と愚痴る営業 は、嫁が居て子供も先日出来たのだが、組織のデスクにて後輩に
- 「やべぇ!定例検査 (性病検査) 行ってくるわ!こないだのあの娘ヤバイかもしんない (´・ω;`)」
と嘆きビクビクして生きてるしなw
要は “自分の合格の基準 (正義)” が無いと、何か欠落している危機感を設定し、その穴埋めに必死なままで、生涯終える感じがする。
ビジネスを放棄して、労働履歴収集に走る行動も同様な感じだな。
28:「財産への道」 は 「弱い人」 が選ぶ道であり、「徳への道」 は 「賢人」 が選ぶ道である。「弱い人」 は、つねに世間の評価を気にする人、称賛を欲し、非難を恐れる人であり、「賢人」 は胸中の観察者の評価を重視する人、称賛に値することを欲し、非難に値することを恐れる人だからである。(中略)
普通の人間には、「弱い人」 の部分と 「賢人」 の部分の両方があるのだから、普通の人は、「財産への道」 と 「徳への道」 を同時に進もうとする。しかしながら、「人類のうちの大半は、富と地位の感嘆者であり崇拝者」 (『道徳感情論』 一部三編三章) である。世間は、見えやすい富と地位にもとづいて個人を評価する。そして、私たちは、自分の中にある虚栄心—–自分を本当の値うち以上に見せようとする心—–を完全に拭い去ることはできない。したがって、ほとんどの人は、「徳への道」 の重要性を認めつつも 「財産への道」 を進むことを優先させる。
⇒AZZLOは少なくても今の組織にいる分には、昇進 (いわゆる出世) とか目指せないから、迷いがなくて良かったな。あ、何故長くこの組織に居るのかは、この “迷いが無い” も大きな理由だな。
そしてAZZLOの偉いおっさん、それもグレート、凄く、かなり偉いおっさんへの疑問は
- 「とりえあずその組織での財産への道は “ある程度達した” んだから、(与沢翼ほどではないにせよ、狙った事を達成したのは立派だ) そろそろ徳の道も気にならない?」
と言えるな。
であって
にならないのが不思議なんだよな。
29:人類は、富と地位だけでなく、徳と英知に対しても普遍的な尊敬の念をもっており、徳と英知をもつ人が大きな富と地位にふさわしいと考える。私たちは、悪徳と愚行を繰り返す人にではなく、徳と英知をもつ人に、富と地位の機会と便宜を与えようとする。こうして、「財産への道」 を歩むことと 「徳への道」 を歩むことが一致する。スミスは、この一致は、中流階級と下層階級の人びとについてはあてはまると考える。
⇒そぉいえば、自分で言うのもなんだが
- 「AZZLOは、こんな所に居る人じゃないんだ。ホントは年収2千万ぐらいは簡単な人なんだよ」
と、年齢タメの営業が後輩に説いていたなw なんで持ち上げられたのか全く意図が分からないのだがw
ま、今の時代 “金ない方が徳と英知がありそうな感じがする” というのはあるかもしれないなw
30:上流の人びとが、より大きな富、より高い地位を求めることは、「徳への道」 からの堕落を招く可能性が高い。
⇒あ、それ組織の偉いおっさん達の事だよなw
31:王侯たちの宮廷において、また、地位ある人びとの応接室において、成功と昇進とは、理解力があり豊富な知識をもった同等者たちの評価にではなく、無知高慢で自惚れが強い上位者たちの気まぐれでばかげた行為に依存するのだ。そこでは、へつらいと偽りが、あまりにもしばしば真の長所と能力に優る。上流社会では、喜ばせる能力の方が、仕事の能力よりも尊重される。(『道徳感情論』 一部三編三章)
⇒コレだ。中国共産党だw
テレホンショッキング冒頭” 的コミュニケーション は虚偽の前兆って感じするな。
32:この羨望される境遇に到達するために、財産への志願者たちはあまりにもしばしば、徳への道を放棄する。なぜなら、不幸なことに、一方に通じる道と他方に通じる道とは、ときどき正反対の方向にあるからである。。(『道徳感情論』 一部三編三章)
⇒四半期決算を重視するがあまり、成功事例のパクリに追われ、疲弊し、結果的に儲からないわ、退社する人続出だわ、的な事もそうだな。
という発言に現れるように、楽して儲けたい言うのにあえて疲弊してるw
33:野心的な人は、次のように考えて自惚れる。すなわち輝かしい境遇に到達しさえすれば、その中で、自分は人類の尊敬と感嘆をわがものにするための非常に多くの手段を持つであろうし、また、非常に優れた適宜性と品位をもって行為することができるであろうから、自分の将来の行動の輝きが、その高みに達するまでに用いた諸手段の愚劣さを完全に覆い隠し目立たなくするだろうと思うのである。
⇒多くの政治家がその為にいわゆる汚職とか献金とかやっちゃうよなw 個人的にはその上でちゃんと良い働き (その個人や家系だけじゃなく、いわゆる国民も何かしら潤う) してくれれば一次的には別に良いと思うが。
例えば バーニー・エクレストン と マックス・モズレー とか、良い働きをした訳だからな。見えない犠牲者が居そうだがw
富や地位に野心的な人の代表みたいな二人だがw その結果、様々な人が潤っている側面もある。もちろん個人的野心も達成したんだろうけど。
34:富と地位への志願者たちは、「財産への道」 を歩む中で、道徳的腐敗を起こさなければ、より大きな富や、より高い地位を獲得できない状況に立つことがある。このとき、多くの人間が 「徳への道」 を踏みはずす。実際、富と地位への志願者たちは、しばしば、虚偽、陰謀、結託、贈賄、暗殺などを企て、彼らの出世のじゃまになる人間を排除しようとする。多くの場合、これらの企ては失敗に終わり、本人自身の人生を台無しにする。しかしながら、これらの企てに成功した者は、富と権力によって自分の過去の犯罪を隠蔽することができる。このようにして、富と地位への志願者たちによって、正義が侵犯される恐れがある。
⇒多少我侭でも成功してちゃんと偉くなるなら、与沢翼の様に別に良いが、周りが成功するのを邪魔する・足引っ張る だけの現状維持は誰も特しないよな。そぉいうのは
- “船が大きく揺れたら焦って周りの仲間を蹴り落とした。そしたら船を進める人も落としちゃっていた・・・。漂流して死ぬ事になった”
ってな感じする。この手の人は
- 「いやいや!ちゃんと人選してるから大丈夫♪」
と言うのだろうが、本当に沈没の危機になった時は、まず最初に蹴り落とされるんだよなw
35:富と名誉と出世をめざす競争において、彼はすべての競争者を追い抜くために、できるかぎり力走していいし、あらゆる神経、あらゆる筋肉を緊張させていい。しかし、彼がもし、彼らのうちの誰かを押しのけるか、投げ倒すかするならば、観察者たちの寛容は完全に終了する。それは、フェア・プレイの侵犯であって、観察者たちが許しえないことなのである。
⇒AZZLOがココでよく書くのは、彼らがフェア・プレイじゃない事の明記だし、その上で、彼らが自滅している事象を面白がっているんだよなw
本人にその意図があるか微妙な事象だが、“デスクに居られなくさせる” というのも、普通の尺度では、”デスクに居られない→仕事出来ない” となり、AZZLOは良い結果が出し難くなるもんな。
36:私たちが、他人よりも大きな富をもつ、あるいは他人よりも高い地位につくためには、二つの方法がある。第一の方法は、自分が努力し、勤勉に働き、能力や技術を高め、収入を節約し、その他の英知や徳を高めることである。それは、自己規制と自己研鑽によって、他人よりも秀でた位置に立つという方法である。第二の方法は、他人の足を引っ張ることである。他人の状態を悪くすることによって、自分の状態を相対的に優位にするという方法である。この方法においては、手段として、虚偽、陰謀、結託、贈賄、暗殺などが用いられる。
⇒そぉいえば組織のグレート偉いおっさんは、グレートになる前に、当時のグレート偉いおっさんを追放した上で、グレートになったらしい。
当時のグレート偉いおっさんが悪だとしたら、現グレート偉いおっさんは正義 (ヒーロー) だが、AZZLOの知る限り、売上げ・利益は落ちたw 時代的に同業他社も落ちているんだが、組織は落ちっぷりがでかいw
37:私たちの中の 「賢明さ」 は、胸中の公平な観察者の称賛を求め、非難を避けようとする。しかしながら、私たちの中の 「弱さ」 は、胸中の観察者の評価よりも世間の評価を重視し、また、自己欺瞞によて、胸中の公平な観察者の非難を無視しようとする。そこで、私たちの中の 「賢明さ」 は、胸中の観察者の非難を避け称賛を求めるように行動することを一般的諸規則として設定する。こうして、私たちは、一般的諸規則にしたがう義務の感覚を養う。
⇒この一般的諸規則って更新出来るよな。「天皇の為の戦争・・・行くけども嫌だし・・・」 ってのは義務だしな。
- “クリスマスは異性と過ごさなければならない”
ってのも義務だしなw
ある意味、広告業界でよく言う “コミュニケーション設計” は、この義務を無理なく能動的に捉えてもらえるように投げかけるという事と言えるな。
“義務” っていうと “強制的にやらされる” 的な事が大半だが、本来は “規律” とか “正義” じゃないかな。生活者にどう正義として組み込んで頂けるか?が大事な気がする。
反原発運動なんかは、そうじゃない人もいるのは分かっているが、震災で気付いた上で、正義に組み込んだ人達の集いと言えるよな。政府や東電の対応という憤慨する事象があったから正義が醸成されたのだw
ここで “カウンターカルチャー” という言葉を使うとデニーさんに怒られるかもしれないがw ま、近しい感覚はあると思うな。
38:「財産への道」 は 「徳への道」 と矛盾することがある。このとき、私たちが 「徳への道」 を優先させ、フェア・プレイのルールにしたがえば、社会の秩序は維持され、社会は繁栄する。反対に、私たちが、あくまでも 「財産への道」 を優先させ、フェア・プレイのルールを侵犯すれば、社会の秩序は乱れ、社会の繁栄も実現しない。社会の秩序と繁栄をもたらすものは、「徳への道」 の追求と矛盾しない 「財産への道」 の追求、言い換えれば、正義の感覚によって制御された野心と競争だけである。
⇒”財産への道” を優先させている場合は、先日のゼンショーの様なオチに辿り着くもんな。韓国の沈没事故とかもそうだし、挙げたらキリがないが。
39:「賢明さ」 には社会の秩序をもたらす役割が、「弱さ」 には社会の繁栄をもたらす役割が与えられている。特に、「弱さ」 は一見すると悪徳なのであるが、そのような 「弱さ」 も、「見えざる手」 に導かれて、繁栄という目的の実現に貢献するのである。しかしながら、「見えざる手」 が十分機能するためには、「弱さ」 は放任されるのではなく、「賢明さ」 によって制御されなければならない。
⇒浮気・不倫・出会い系もろもろ、異性コミュニケーションへのモチベーションと、付随するサービスが、すべてこんな感じで言えるなw
40:将来、彼が本当の熟達者になることはないだろうと絶望してはならない。教育の大きな秘密は、虚栄を適切な対象に向けることである。彼がつまらない業績について自分を高く評価するのを決して許してはならない。しかし、本当に重要な業績について彼が詐称することを必ずしもつねにくじくべきではない。もし彼が、それらを所有したいと真剣に欲しなかったならば、彼はそれらを詐称しなかっただろう。この欲求を奨励せよ。獲得を用意にするすべての手段を彼に提供せよ。そして、彼がときには、それを取得してしまったかのように装うとしても、あまりそれに腹を立ててはならない (『道徳感情論』 六部三編)
⇒ “バカは手のひらで転がせ” ってな事だな。
41:スミスは、徳を 「卓越し称賛に値する人格、尊敬と名誉と明確な是認の自然的対象となる人格を形成する、気質と行動の傾向」 (『道徳感情論』 七部一編) と定義する。
⇒ “称賛に値する人格” はそれぞれで、偉いおっさんはそれぞれ目指している、達成しているのかもしれない。要は “オレが達成してると思えばそれでOK” とも言える。
しかし、「オレは昔は凄かった」 は、結局周りに同意を求めている、ヒエラルキーを利用して強制している訳で、徳がないと思うんだよな。
- 「昔凄かったんなら、今も凄くいて下さい!」
42:マンディヴィルは述べる。
「人間に生まれつき備わっている優しい性質や温情も、彼が理性や自己抑制によって獲得できる真の美徳も、社会の基礎ではなくて、道徳的にせよ自然的にせよ、いわゆるこの世で悪と呼ばれるものこそ、われわれを社会的な動物にしてくれる大原則であり、例外なくすべての商売や職業の堅固な土台、生命、支柱である」
⇒破壊が主目的の兵器も、”防衛” って事になると必要なもんになるしな。
43:スミスは、慣習を次のように定義する。
二つの対象が、しばしば一緒に見られてきた場合、想像力は一方から他方へ容易に移るという慣習を獲得する。第一のものが現れれば、われわれは、第二のものが続くことを期待する。二つの対象は、ひとりでに、われわれに対して一方から他方を思い起こさせるのであり、われわれの注意は、容易に、その組み合わせにそって進んでいく。その組み合わせに真の美しさがあるわけではないのに、慣習がそれらを一緒に結びつけてしまったときには、われわれは、それらが分離されていることに不適切性を感じるのである。
⇒ “特に好きでもないのに、たまたま同じ部屋に居たら、やってしまった” のは
- “男女が個室にいると行う事は大概セックスなので、ここはやるべきなのではないか?”
と、第一の “個室で男女” が現れた上で “セックスする” が続く事を期待しちゃうんだろうな。何故か自分自身を強制させてしまう というか・・・。
ま、”好きだからセックスする” というのも慣習含まれるなw その結果 “ヤッたから好きなハズ・・・あれ?そうでもないような?” みたいな事が起きる感じするなw
44:スミスは、未開社会においては諸情念の抑制が美徳とされる傾向にあるのに対し、文明社会では諸情念の解放が美徳とされる傾向にあると考える。飢餓と危険に満ちた未開社会においては、自分の快楽や他人への愛情を避ける必要性から、諸情念の抑制が奨励され、慣習化されているのに対し、豊で安全な文明社会では、快楽や愛着を避ける必要性が弱まるため、諸情念の解放が許され、奨励され、そして慣習化される。文明社会の人々から見るならば、未開社会の人間は無感動、無感情な人間に見えるであろう。反対に、未開社会の人びとから見るならば、文明社会の人間は軟弱で、ふしだらな人間に見えるであろう。このように、どのような性格や行為 「よい」 または 「美しい」 とされるのかについては、社会の慣習、そして、慣習に影響を与える文明化の度合いに依存するといえる。
⇒特に女性の性や生き方については、時代によってかなり変化あるよな。
つい数十年前までは “女性は子供産んでナンボ” で、女性社員というのは、男性社員の嫁候補であると、明確に組織も言っていた時代があった。
バブル期はアッシー君やらメッシー君とか、女性が強い時代があり、今は “女性も社員として男性と同等に働くべき” 価値観がある。
女性の敏感な感覚故の対応なのか?仕込まれた感覚なのか?ま、その両方だと思うが、女性の捉え方に紐付いて男性も追従して社会が成り立っているのは、どの時代も同じだと思うなw いつでも男は女の尻追っかけてるw
ちなみに、AZZLOは “男女平等” みたいな事は、むしろ女性が苦しむ事になるので “男女共存” が良いと思っている。
昨今の “女性の雇用拡充” みたいな事は、必要な側面もあるし、女性の方が上手い業種もあるのだが、男性と同等の “平日は家に帰らない” 的な事とかを女性が受け入れなければならないので、多くの場合むしろ女性が苦しむと思う。
- “特性を踏まえた上での共存こそが平等”
と言えると思う。どの点を特性として捉えるかによって 「それ特性の尊重じゃなくて差別です!」 みたいな事になるから、凄く難しいのだが・・・。
例えばAZZLOが元気良く下ネタ言ったら 「それはセクハラです!」 と男性には言われない事を言われる可能性あるしなw
その点、卑弥呼とかの女性の王による統治の方が、うまく周る感じするな。
今は男性上位時代なので、今AZZLOが考えられる検討項目からすると “男性の方が適任” と言える項目が多いが、女性上位時代であれば、逆の事象だしな。
ま、結局 “嫁の為に働いてる” という現代も、女性上位と捉える事は十分可能だがw
45:古代ギリシャでは、親の事情によって、子どもを育てるのに都合が悪くなった場合には、何の避難や処罰も受けることなく、子どもを遺棄することができた。プラトンやアリストテレスなどの賢人たちでさえ、この慣行を糾弾するよりも、むしろ社会全体の幸福を維持するために必要なものとして支持したのであった。。(『道徳感情論』 五部二章)
⇒日本も昭和初期ぐらい、要は90年前までは “七つまでは神のうち” として子供殺してた しな。
46:スミスは、人間は、全人類の幸福を願い、自分の幸福よりも全人類の幸福をつねに優先させること、つまり 「普遍的仁愛」(universal benevolence) をもつことはできないと考える。
⇒気持ち的には全員平和で不満がない状態を普通は望んでるが、何故そうならないのだろう?「人には欲があるから」 とか普通に思いつくが、そもそものコミュニケーションがまだまだ不完全な可能性もあると思う。要は今の言語はまだ不完全なんじゃないかな?
今後、より優れた “地球語” という言語が出来る可能性はあるな。現状は米語がそんな感じではあるが。
そもそも言語によるコミュニケーションというのが、古臭くなるかもしれないな。ソロバンみたいなもんで。いわゆるテレパシーぐらいは出来るようになるのは間違いないだろう。
テレパシーほどではないにせよ、「あの人はコレを欲しがっています」 というデータが、FACEBOOKの誕生日が近い人のデータで表示されるのは時間の問題だw
多くの人はこのAZZLOの妄想に 「んなアホな!」 「それはSFの話だ!」 と思うだろうが、そんな事が今の常識になってる事は多々ある。
47:人間は、まず自分自身の幸福を願い、その次に自分の家族、そして自分の友人や知り合いの幸福を願う。スミスは、このような序列をもつ幸福の願望を「愛着」(affection)と呼び、それが 「慣行的同感」(habitual sympathy)によって生まれると考える。私たちは、日常生活において、特定の人びとと繰り返し同感し合うことによって、その人たちに対して愛着をもつようになり、彼らや彼女らの幸福を、他の人びとの幸福よりも優先的に願うようになる。この願望は、実際に同感し合う頻度が低くなればなるほど希薄になる。ふつう、私たちは、自分自身を除けば、まず、同感の頻度が最も高い家族に愛着をもち、次に友人や隣人、そして知り合いなどに愛着をもつ。さらに、私たちは、愛着の強さに応じて、その人の幸福のために自分自身の幸福を犠牲にしてもよいと思う。あるいは、その人の幸福を増進することが自分自身の幸福であると思う。
スミスによれば、このような慣行的同感によって導かれる個人の愛着が「祖国への愛」(love of our own country)を基礎づける。
⇒AZZLOはいわゆる家族がないんだよなw 育ての親である祖父母は亡くなってるし、母はロンドンだし、種付けの父は何処にいるかも知らないしw
そら顔を知っていると、より愛着も沸くし憎しみも増すが、AZZLOにはあまり適応出来ない話な感じする。AZZLOに限らず物理的な距離の依存度はネット普及によって薄まっているし。
故にいわゆる愛国心はAZZLOには無いかな。元々は日本、東京大好きだったが、2000年に入ってからはずっと幻滅してる し。
- “志が同じ・近い者が文化の状態にあった街。東京が好きだった”
という点では愛国心・愛国街は強いが、単純な物理的距離の近さでは同感にはならないな。
AZZLOはこんな感じだ。
48:国家は、元来、非常に強く、われわれにゆだねられている。われわれ自身だけでなく、われわれの最も強い愛着のすべての対象、すなわち、われわれの子どもたち、親たち、親族たち、友人たち、恩人たち、われわれが自然に最も愛し最も敬う人びとは、同じ国家の中に含まれるのが普通である。彼らの繁栄と安全は、ある程度、国家の繁栄と安全に依存する。したがって、国家は、元来、すべての利己的な意向によってだけでなく、すべての私的な仁愛的意向によっても、われわれにとって愛すべきものとされるのである。このようにして、われわれが国家と結びつくため、国家の繁栄と栄光は、われわれ自身に、ある種の名誉をもたらすように思われる。(『道徳感情論』 六部二編二章)
⇒確かにフランスに居ると、日本人という事だけで、無条件にチヤホヤされたりするからな。更にAZZLOはDJでテクノだったので、KEN ISHII / EXTRA の衝撃によって、よりチヤホヤされたし。そしてAZZLO自身も 「Je suis Japonais!」 言うのは誇りだったからな。
故に、AZZLOが在籍する組織のダサさ具合とかw
こぉいう事象には憤り感じるんだよな。
49:祖国への愛は、人類全体に対する愛—–普遍的仁愛—–から導かれるものではない。日本人が日本に愛着をもつのは、日本が地球の一部であるからではない。また、日本人が日本人であることに愛着をもつのは、日本人が人類の一部であるからではない。日本という国の中に、あるいは日本人という集団の中に、自分と家族、そして自分が愛する人びとのほとんどが含まれるからであり、自分たちの安全と繁栄が、日本の安全と繁栄に依存すると思うからである。そして、自分の行為が実際に影響しうる最大の社会が日本社会であるからである。このように、祖国への愛は、普遍的仁愛からではなく、私的な愛着から導かれる。
⇒地理的な事を前提とするならば
- “日本を愛しているフランス人を愛するのがAZZLO”
という感じで、AZZLOはやや多層的かもしれないなw フランス人を裏切りたくはないからな。(嫌なフランス人も居るけども)
そして祖国という地理的な事は、KEN ISHIIによって助長された部分あるが、そもそもテクノは国家・地理・言語が関係ないもんだなと今気付いた。
ボブ・マーリーは言語分かんないと、なんだか分かんないがw
デトロイト・テクノは、非言語で、大体世界中同じ解釈してるからな。そらアンダーグラウンド・レジスタンスじゃないとやれないわなw 顔バレも避けるよなw
50:自分の生命を、社会の安全のために—–あるいは社会の虚栄のためであっても—–投げ出す愛国者は、最も厳密な適切性をもって行為するように見える。彼は自分自身を、中立的な観察者が自然かつ必然的に彼を眺める見方で眺めているように見える。すなわち、彼は自分自身を、公正な裁判官の目に映る大勢の中の一人にすぎず、その中の他の誰よりも重要ではなく、多数を占める人びとの安全に、便宜に、そして栄光にさえ、いつでも自分を犠牲にし、捧げるべきものとして眺めているように見える。
しかし、この犠牲が完全に正当で適切であるように見えたとしても、それを行うのがいかに困難であるか、そして、いかにわずかな人しかそれを行えないかを、われわれは知っている。だから、彼の行動は、われわれの全面的な是認だけでなく、われわれの最高の驚異と感嘆をかきたて、最も英雄的な徳に対して正当に与えうるあらゆる喝采の値うちがあるように思われるのである。(『道徳感情論』 六部二編二章)
⇒難しい文章だが、アンパンマンの事だな。ま、アンパンマンはすぐ復元出来るから可能な行動なのだがw
このベジータの最後とかは、”喝采の値うち” として感じるよな。確かこの戦いの直前にピッコロから 「お前は少々悪さが過ぎたので死んでも生き返る事は出来ない・・・」 と宣告された上での戦いだったんだよな。
ま、ベジータって根本凄く愛があって正義があって努力している、凄いイイ奴なんだよなw
51:国際法—–独立諸国家が相互の取り扱いにおいて守る義務があると考えていると公言し装うルール—–の尊重は、実際のところ、単なる偽装と公言にすぎないことが多い。取るに足りない利害のために、また、取るに足りない挑発のために、それらのルールが毎日、恥も良心の呵責もなく、すりぬけられたり、審判されたりするのを、われわれは見ている。各国民は、隣国の強化や勢力拡大の中に、自国が征服されることを予見するか、あるいはそのように想像する。この国民的偏見というくだらない原理は、しばしば、祖国への愛という高貴な原理の上に築かれている。(『道徳感情論』 六部二編二章)
⇒日本と韓国のこじれ具合は、こぉいう “征服” の尺度が入っているよな。元ネタが戦争ってのもあるんだが。
AZZLOの “日本を愛しているフランス人を愛する” 的な愛国心?というか “志を持つ者同士の誇り” のつもりなのだが、”他者が侵害してくる脅威” は多分全く無いな。「フランスが韓国を称賛し始めてるぅヽ(゚○゚ ;ヽ)」 とか思わないもんな。仮にそぉいう事実があったら 「 “良い” の判断がフェアなフランス人だから、韓国もイイんだろう」 って思うかな。
ただし、「AZZLOは育ちが悪い」 といった指摘は、AZZLO単体の征服ではなく、AZZLOと同じ志を持つ者も否定しているので、絶対に許さないが。
52:フランスとイギリスは、それぞれ、相手国の軍事力が増大することを恐れてもよいであろう。しかし、両国のいずれにとっても、相手国の幸福と繁栄、すなわち、土地の耕作、製造業の発展、商業の増大、港湾施設の安全性と数、すべての学芸と科学における進歩に対する嫉妬は、間違いなく、そのような二大国民の尊厳にふさわしくないものである。(『道徳感情論』 六部二編二章)
⇒ユーロスターが開通した時とか、結構衝撃だったもんなぁ。当時フランス人が言ってたのは
「フランスとイギリスからトンネル掘ってったんだけど、結果的に2cmのズレしか起きなかった!技術も凄いけど僕らの気持ちもズレがないって事だ!」
みたいな事言ってたなぁ。
53:個人と個人の間であれば、たとえ特定の相手に対して何かの偏見をもっていたとしても、多数の中立的な観察者が近くにいるために、私たちは、特定の相手に対する自分の行為を、中立的な観察者が是認する範囲に抑制しようとする。しかしながら、国と国との間には、中立的な観察者が近くにいるわけではない。
⇒国の場合は今だと国連がそんな役割なのかな。
AZZLOがココで書く組織への批評 (ほぼ批判) は、読書等を踏まえた上で、”本書いた人を中立的な観察者” として扱っているな。AZZLOさんは 「社会不適合者」 とか言われるAZZLOクンを疑っているのでw 何か材料が必要なのだ。AZZLOクンもAZZLOさんに対して 「世間で言われてる程悪くないっす!」 と言えないとダメだからな。
そしてAZZLOを批判する人の “中立的な観察者” が、見当たらないのが不思議なんだよな。
人なのでそら感情的なバイアスで批評が批判になってしまうタイミングはある。よって、その根拠を提示して欲しいと思う。いわゆる “前段” であるw
“パチンコジャンキーの親に育てられた者” という前段によって、AZZLOの育ちを悪いと言えるという論理 は、やはり全く理解出来ないんだよな。
54:国民的偏見は、諸個人が実際に他国の人びとと交際し、同感し合うことを繰り返すことによって弱めることができるであろう。他国の人びととの交際を進め、同感し合うことによって、異なった慣習や文化を理解するとともに、生命、身体、財産、名誉が侵害されること、つまり正義については、他国の人びとも自分たちとほとんど同じ感覚をもっていることを知ることができるからである。
⇒フランスに居た頃、韓国人や中国人ともコミュニケーションがあったが、別に普通だったもんなぁw
ま、間違いなく言えるのは、どの国にもダサい人は居るし、素敵な人も居るという事だと思う。
55:各人は、自分の生産物だけで自分の生活を支えることはできないので、市場において、自分の生産物を他人の生産物と交換する。一見すると、分業が交換を促す原因であるかのように見える。しかしながら、スミスによれば因果関係は逆である。もともと人間の中に、他人と物を交換しようとする性向があるために、そして、その性向にもとづいて実際に交換の場が形成されるために、人びとは、単一の生産物の生産に特化することを決心できるのである。人間は、交換の場があるかないかわからなかれば、単一の生産物に特化するリスクを負うことはないであろう。分業が進むためには、それに先立って交換の場が形成されており、より多くの生産物を交換の場に持ち込んでも買い手を見つけることができるという確信がなければならない。
⇒組織の “チームビルディング” が課題だったりするのは、その市場のレートが不透明過ぎるからと言えるな。
- 「得するかもしれないが、市場に行くと大概奪われるだけで終わるので、もう自分だけでやっていきます」
という傾向の人が多いと思う。AZZLOは、この理由ではなく
- 「市場に行っても誰もいないから取引にならない・・・」(何かしら言い訳して仕事をしない人が多い)
と言える。本来は尊重しあえる取引がしたい。
56:人間社会のすべての構成員は、相互の援助を必要としているし、同様に相互の侵害にさらされている。必要な援助が、愛情から、感謝から、そして友情と尊敬から、相互に提供される場合は、その社会は繁栄し、そして幸福である。[中略] しかし、必要な援助が、そのように寛容で私心のない動機から提供されることがないとしても、また、その社会構成員の間に相互の愛情や愛着がないとしても、その社会は、幸福さと快適さにおいて劣るとはいえ、必然的に解体することはないであろう。
⇒ “今のところのAZZLOが在籍する組織” がコレか・・・。
57:人びととの間に、貨幣を富と思いこむという錯覚 (貨幣錯覚) を引き起こすことになった。人びとは金や銀を称賛し、金や銀を求めるようになり、自分が所有する貨幣の名目額が増えれば、自分が豊かになったと思うようになった。称賛に値するのは、つまり、本当に価値があるのは貨幣ではなく、それと交換される必需品や便益品である。それにもかかわらず、人びととは、金や銀自体が真の価値をもつものであるかのように思うのようになった。
⇒コレだなw
ま、そら貨幣があった方が、自由度が高い分野もあるが、その “自由度が高い分野を維持しなければならない束縛” が同時に出てくるからなwww
58:(最低水準の富すら獲得出来ない人に対して) 最低水準の富を手にするだけでなく、世間の軽蔑や無視からも自由にならなければならない。彼らは富とともに独立心をも獲得しなければならないのだ。したがって、彼らに与えられるべきものは、「施し」 ではなく、「仕事」 である。そして、この目的を達成することができるのは政府ではなく資本家である。資本家が資本を蓄積することによって労働需要が増大し、仕事のない人に仕事が与えられるようになるからである。スミスは、このように考えて経済成長を重視したと思われる。
⇒その結果
という事もあり得る点が表裏一体だよな。
あ、堤清二の言う 「日本の偉い人はアダム・スミスを都合よく解釈しているのではないか?」 は、コレにも適応出来るかな。
- “彼らに与えられるべきものは、「施し」 ではなく、「仕事」 である”
は、いわゆるブラック企業の社訓とも言えそうだw
59:資本家が貯蓄するかぎり、資本、雇用、および生産は成長し、資本家の貯蓄が大きくなれば大きいほど、それらの成長は速いということである。このことは、資本家の消費が小さければ小さいほど成長が速いことを意味する。資本家の消費は自己消費と不生産的労働の雇用からなる。自己消費は資本家が生きていくために不可欠であるとするならば、不生産的労働の雇用を減らすことによって成長を高めることができる。解雇された不生産的労働者は、増加した資本によって生産的労働者として雇用される。要するに、資本蓄積とは不生産的労働を生産的労働に切り替えることを意味する。
⇒これは “麦が多く取れて貯蓄出来たら、次の年に麦を担保により多くの労働者を雇える” という話に対するものなのだが、麦が無限にあってもOKな場合に成立する話だよな。
現代だとどちらかというと、”消費して貨幣を回していかないと!” 的尺度もあるが、逆にソフトバンクのペッパーのように、「開発に200億かけて赤字で販売する。その上でプラットフォームが出来上がれば、巡り巡って回収出来る」 的な事は、貯蓄があってこそ成立するんだよな。ま、貯蓄じゃなくて株だったりする場合も多々あると思うが。
ま、今はキックスターター的なしくみもあるっちゃあるが。
この “初動を促す生活の担保とサポート” ってAZZLOが小さな頃から興味ある分野なんだよな。銀行が金出して・・・とか、そぉいう導線もあるみたいだが。
この興味は、やはり祖父である水谷暢宏の影響なんだが
- “何故か戦争前にヴァイオリンを持っていた・・・どころか演奏出来た”(故に戦争の時は、音楽で負傷者を癒やす係をやっていた)
という事からなんだよな。特にウチの家系が数代続く金持ちという話は聞いてないのだが、当時のヴァイオリンなんて糞高かっただろうし、音符読めるようになる学びが出来る環境も非常に少なかっただろう。
じいちゃんのキャリアを作った誰かは誰なんだろうという興味だな。
60:[地主階級・資本家階級・労働者階級の] 三つの階級の中で、地主階級だけは、収入が労働も気苦労もなしに、いわばひとりでに、彼ら自身の企図とは無関係に入ってくる。境遇が安楽で安定していることの自然な結果として、地主は怠慢になり、そのため、彼らは単に無知であるだけでなく、公的に定める規則の結果を予測し理解するために必要とされる知性の活用もできないことが多い。(『国富論』 一編十一章)
⇒今の時代で言う地主は、そうでもない傾向があるかもしれないと思う。てめぇの豊かさを優先する理由が比較的少ない場合も多いので、周りの人への配慮が強まる事もあるよな。
税制によって、意外とのんびり出来ない要素も今あるんだろうしw
ま、これは数代続く地主とかになるのかもしれないな。1代目は盲目的な金の奴隷として達成した立場なのかもしれない。
61:資本家階級には致命的な欠点がある。それは、地主階級と比べて公共精神に乏しく、時として、自分自身の利益のために公共の利益を犠牲にすることがあるということである。実際、当時のイギリスにおいて、一部の大商人や親方製造業者は、政治的支配階級、すなわち地主 (郷士) に働きかけて、自分たちが利益を独占できる既成や制度—–競争を制限する規則や制度—–を作らせていた。特権的な商人や親方製造業者に対するスミスの批判は厳しい。
⇒資本家は放っておいたら資産が減っちゃうという地主とは明確な違いがあるもんな。”地主は税制によっては資産が減る” とは言え、よりシビアなのが資本家かな。
更に、今は土地も金で手に入れられる資本だもんな。結構境目が無くなってるよな。
62:スミスは、高い賃金は富の増大の結果だけでなく原因であると考えた。つまり、賃金が高くなれば、労働者の能力と意欲が増し、その結果、労働生産性が上がると考えた。スミスは述べる。「労働に対する気前のいい報酬は、一般民衆の人口を増大させるとともに、その勤労を増進させる。労働の賃金は勤勉への推奨であり、勤勉は、人間のすべての資質と同様、受ける奨励に比例して増大する。豊かな生計は労働者の体力を増すし、また生活状態を改良し安楽で豊かな晩年を迎えられるだろうという楽しい希望は、労働者を活気づけ、彼の体力を最大限に行使させる」
⇒ “弱い人” は特にそうだよな。富裕層ビジネスとか、そぉいう人達の自尊心担保サービスだしな。
63:『道徳感情論』 において、スミスは、中流および下流の人びとは、上流階級の人びとの地位、富、生活に憧れ、彼らを高貴な存在と見なすと論じる。そして、「富裕な人びと、および有力な人びとのすべての情念についていくという、人類のこの性向の上に、諸身分の区別と社会の秩序が築かれる」 (『道徳感情論』 一部三編二章) と述べる。
⇒現代における “上流” ってのがどの辺りなのか、よく分からないが、とりあえず上流の人は、存在が不明で見え難くなっているので、憧れる事も、高貴な存在と見なす事も、やや難しいかもしれないな。
憧れはしても、高貴な存在とは見なさない事は、現代強まってるかもな。
“与沢翼的な豪遊は一度はしてみたいとは思えど高貴とは思わない”
みたいな事だからな。ま、高貴に感じる人も絶対数では、それなりな数居そうだがw
64:スミスの議論の基礎には、人間は悲哀に対してよりも歓喜に対して同感したいと思うという仮定がある。
⇒そして悲哀によって “『自分はそこまで酷くはない』 という安堵感を得る” って感じかな。ワイドショーのネタとか、そんなんばっかな感じするからなw
65:植民地が完成し、本国の関心を引くほど重要なものになったとき、植民地に対して本国が行った最初の規制は、つねに、植民地貿易を本国が独占すること、植民地の市場を制限して、その犠牲の上に本国の市場を拡大すること、したがって植民地の繁栄を速め、促進するよりは、むしろ遅らせ、阻止することをめざすものであった。(『国富論』 四編七章二節)
⇒ “心の友に対するジャイアンの行動” って感じだよなw
66:本国は、独占貿易のための諸規制によって絶対的利益を犠牲にしたといえる。では、そのような犠牲を払って本国が引き出そうとした利益は何であろうか。スミスによれば、それは相対的利益である。独占貿易の目的は、自国がどれだけ絶対的に豊かになるかということではなく、他国と比べてどれだけ豊かになるかということであった。
⇒あ、そうそう。故にAZZLOは彼らの豊かさを担保する為に、ゴミ社員のAZZLO・・・いやいや糞社員だった! という事をわざわざ言うのだw そして 「ギャラ上げろ!」 に類する事は一切言っていない。
広い意味でのチームワークだと思っていて、その分、業務については前向きに取り組むチームになりたいのだ。そうじゃないとビジネスにならんので。
ヒエラルキーとか、無味無臭本社社員か、AZZLOみたいな子会社在籍の糞社員かは、演劇の配役みたいなもんで、タグみたいなもんだと思う。
彼らの自尊心の担保の為に、あえて下から目線やっていると言えるな。余計なお世話かw 不可抗力的な事もあるが、あえてやってるのもあるという事だw
そして、AZZLOがココでよく書く事は 「それで君が大好きな金は増えるのか?」 という点がコアとも言えるな。
67:各国の政府は、国民の勤勉と節約を奨励するとともに、他国のじゃまをすることによって競争に勝とうとした。各国がとった方法は、貿易に、さまざまな規制を設けることによって貿易の利益を独占することであった。こうして、ヒュームが指摘したように、貿易は国家の生き残り戦略の中に組み入れられ、他国の貿易の繁栄は嫉妬の対象になった。スミスは、それを 「不和と敵意の源泉」 と言い直したのであった。
⇒アベノミクスの円安施策も、相当各国から言われたもんな。
68:不和と敵意が支配する状況において、ヨーロッパ諸国で広がりつつあった 「祖国への愛」 は、隣国に対する国民的偏見を生んだ。むしろ、隣国に対する国民的偏見が祖国への愛をエスカレートさせたといった方がよいかもしれない。国民的偏見、あるいはエスカレートした祖国への愛は、ヨーロッパにおける戦争を、ヨーロッパ全体の秩序にとってはもちろん、当事国の利益から見ても不合理なほど大規模で長期的なものにした。各国は、勝利によって得られる利益をはるかに上回る費用をかけて戦争をした。
⇒中国の “日本車破壊行動” とか、既に愛国心とかでもなくて、”ストレス発散” “お祭り” みたいな感じに見えるよなw
ま、多分中国政府への批判モチベーションを 「いやぁ・・・日本があぁだからウチらもうまくやれなくてさ・・・。日本ってやーね!」 みたいな摩り替えをする事で、「元凶は日本か!?日本大嫌いだぁ!!!!」 ってなってる感じかな。
フランスは、こういった政治も人形劇で笑にしてたりするな。日本でもあってもいいと思うけどな。フランス人って “英語喋らないお高いフランス人さま” みたいな感じでフランス自体もネタにするからなw 彼らはホント批評好きだからなぁw
ま、批評出来るのは、ある程度はネタ元、要は知識がないと出来ないので、少なくても努力してないと出来ない事と言えるな。そして知識だけでなく、”自分の見解” を模索する事も必要だと思う。
日本の教育はこの “自分の見解” を出すトレーニングが無い、むしろ出す事を排除するトレーニングだと思うな!
69:社会の繁栄も人間が社会的存在であることによって説明される。人間は他人の歓喜に対しては進んで同感しようとするが、悲哀に対しては同感することを躊躇する。そして、富や高い地位は、見る者に歓喜をイメージさせ、貧困や低い地位は悲哀をイメージさせる。人間は、他人から関心をもたれ、同感されることを望む存在であるので、見る者に歓喜をイメージさせる富や高い地位を求め、悲哀をイメージさせる貧困や低い地位を避けようとする。ここに財産形成の野心の起源がある。諸個人における財産形成の野望によって、市場は拡大し、資本は増大し、その結果、社会が繁栄する。
⇒現代は富や高い地位は “汚れてる人” という見方もあるな。
歓喜への同意はどうかな。社内営業に必死 で、全スタッフから 「あの営業外してくれ」 と言われ、入社後50万上がったAZZLOに 「150万しか上がってねぇよ・・・」 と愚痴る営業 がある時
「こないだAV女優と飲んで帰り送ってった (方向真逆) んだけど、家上がらせてもらってヤッたんだけど、凄い家住んでたよぉ!」
という、おそらく彼にとっての歓喜に対して、AZZLOは 「はぁ・・・」 しか言えなかったんだよな。
そしてAZZLOの ケーブル変えたら音良くなった! 的な事は多くの人にとっては 「はぁ・・・」 だろうしなw
むしろ悲観・愚痴的な事に対しては、相手の立場を考えて、同質な感情を踏まえた会話を心がける感じはするな。
70:他人の目を意識することによって、無人島で一人で暮らしていたならばもたなかったような強い野心をもつのである。人間が社会的存在であるということは、人間の 「賢明さ」 の原因であるとともに、「弱さ」 の原因でもあるのだ。
⇒本人に元々なかったとしても、視線には意味があるからなぁ。野心ではなく生命の維持的にも必要な能力かもしれない。だが虚栄は別に要らないよな。虚栄の維持は大変な割にすぐバレるしw
71:人間本性の仕組みからいって、苦悩は決して永遠のものではありえない。もし人が苦悩の発作に耐えて生き続けるならば、彼はまもなく、何の努力もなしに通常の平静さを享受するようになる。木の義足をつけた人は、疑いもなく苦しむし、自分が生涯、非常に大きな不便を被り続けなければならないことを予見する。しかしながら、彼はまもなく、その不便を公平な観察者たちがそれを見るのとまったく同じように見るようになる。すなわち、彼は、そのような不便を背負っても、一人でいるときに得られる普通の喜び、そして仲間といるときに得られる普通の喜びを、ともに享受できると考えるようになる。彼は、まもなく自分自身を胸中の理想的な観察者と同一視し、彼自身が自分の境遇についての公平な観察者となる。弱い人がはじめのうちはそうすることがあるのと違って、彼は、もはや鳴かないし、嘆かないし、悲観にくれない。公平な観察者の見方が完全に習慣的なものとなるため、彼は、何の努力もなしに、自分の悲運を、公平な観察者以外の見方で見ようとはしなくなるのである。。(『道徳感情論』 三部三章)
⇒ “ハンデがあると公平な観察者が育つ” ってな事かな。この指摘と同様に肉体的ハンデであれば、乙武洋匡とかえらい平静でフェアな感じするよな。
黒子のバスケ脅迫事件犯人の作文が話題になっているが、AZZLOも読んでみた所、的得ているし、文章も上手いと感じるもんな。
AZZLOは肉体的障害は今のところ無いが、どうやら “育ちが悪い” というハンデがあるらしい ので、公平な観察者を育てているしな。
72:人間生活の不幸と混乱の大きな原因は、ひとつの永続的境遇と他の永続的境遇の違いを過大評価することから生じるように思われる。貪欲は貧困と富裕の違いを、野心は私的な地位と公的な地位の違いを、虚栄は無名と広範な名声の違いを過大評価する。それらの過度な情念のうちのどれかの影響にある人は、個人の状態として不幸であるだけでなく、しばしば、彼がそのように愚かにも感嘆する境遇に到達するために社会の平和を乱そうとする。(『道徳感情論』 三部三章)
⇒いじめとかも “何かしらの違い” がいつも発端だもんな。
73:エビルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普通の境遇にあるすべての人びとにあてはまるだろう。王は、その寵臣に対して、自分が行なおうと企てていたすべての征服を順序だてて話した。王が最後の征服計画について話し終えたとき、寵臣は言った。
「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」。王は言った。「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽しく語り合うということだ」。寵臣はたずねた。「陛下が今そうなさることを、何が妨げているのでしょうか」。(『道徳感情論』 三部三章)
⇒www
昇進したい人、金のプライオリティーが高い人に思うのは
- 「それを達成したらどうしたいの?(何のために目指すの?)」
だからな。明確に 「竹田和平みたいな規模の城を建てたい!何故ならば・・・」 とあれば、まぁ分かるが。
74:空想の中の最も輝かしく最も高貴な境遇において、われわれが真の幸福を引き出しうると期待する快楽は、現実のつつましい境遇において、われわれがいつも手近にもっていて自由になる快楽と、ほとんどの場合、同じなのである。虚栄と優越感というつまらぬ快楽を除けば、最も高い地位が提供するあらゆる快楽は、最もつつましい地位においてさえ、人身の自由さえあれば、見つけることができるものである。そして虚栄と優越感の快楽は、真実で満足のゆく享楽の原理であり基礎である完全な平静さと、めったに両立しない。真実で満足のゆく快楽は、われわれが憧れる輝かしい境遇においては、われわれが熱心に捨て去ろうとする現実のつつましい境遇においてと同じ確実さをもって獲得されるとは限らないのである。(『道徳感情論』 三部三章)
⇒ 偉いおっさんの “オレは昔は凄かった” 話 も、本来の充足は
- 偉いおっさんの当時の仲間:「貴方のお陰で良い経験が出来ましたよ!」
偉いおっさん:「いや~。そんな事ないですよ!むしろ貴方あってこそですよ!」
偉いおっさんの当時の仲間:「あの頃は揉めたりもしましたなw」
偉いおっさん:「そうでしたっけ?ま、乾杯!!!」
こういう事で担保されるのであって、当時の現場知らない後輩が聞かされても、「ふ~ん・・・」 なんだよな。
75:歴史の記録を検討し、あなた自身の経験の範囲内で何が起こったかを思い出してみるがいい。そして、あなたが読んだか聞いたことがある、あるいは覚えている、公私いずれかの生活で非常に不幸な結末を迎えた人びとの行動が、いかなるものであったかを注意深く考察するといい。そうすると、あなたは、圧倒的大部分の人びとの不幸は、いつ彼らがよい状態にあったのか、いつ彼らが静坐し満足しているべきであったかを、彼らが知らなかったことから生じたものだということを知るだろう。(『道徳感情論』 三部三章)
⇒ギャンブルで負けた人が常に葛藤する事だなw
- 「あの段階で止めときゃよかったんだよな・・・。・・・だから、その時点までは勝ってたのよ!!!」
ってみんな言ってるからなw ま、若い頃の適度なギャンブルは良い学びと言えるな。林修先生も若い頃、競馬で1000万借金作った訳だし。
金ちょろまかして夜逃げしたり捕まったりw 軽率な発言が過ぎて嫁さんを自殺に追い込んだりした人もいるしな。
76:多くの人間が陥る本当の不幸は、真の幸福を実現するための手段が手近にあることを忘れ、遠くにある富や地位や名誉に心奪われ、静坐し満足しているべきときに動くことにある。そのような時宜を得ない行動は、本人を不幸にするだけでなく、時として社会の平和を乱すことがある。富や地位や名誉は求められてもよい。そして、個人がそれらを求めることによって社会は繁栄する。しかし、富や地位や名誉は、手近にある幸福の手段を犠牲にしてまで追求される価値はない。私たちは、社会的成功の大志を抱きつつも、自分の心の平静にとって本当は何があれば足りるのかを心の奥底で知っていなければならない。
⇒AZZLOが Native InstrumentのKomplate を買わないのは、この指摘に沿ってたりするなw
コレ持ってたらずっとプリセットからの選択だけで生涯終えられるのだw
今でも機材は多過ぎると言えるしな。
77:諸個人の間に分配される幸運と不運は、人間の力の及ぶ事柄ではない。私たちは、受けるに値しない幸運と受けるに値しない不運を受け取るしかない存在なのだ。そうであるならば、私たちは、幸運の中で傲慢になることなく、また不運の中で絶望することなく、自分を平静な状態に引き戻してくれる強さが自分の中にあることを信じて生きていかなければならない。私は、スミスが到達したこのような境地こそ、現代の私たちひとりひとりに遺された最も貴重な財産であると思う。
⇒おぉぉ。そうだな。先輩ありがとぉ!
確かに人を羨んだりした上では、尊敬ではなく嫉妬になって、卑屈になって、生産的な成長じゃない攻撃的な事になる事が大半だもんなぁ。
ちなみにAZZLOのココで書いている組織批評 (ほぼ批判) は、まず彼らが攻撃するから、「そうかな?不条理じゃね?」 という事の延長であり、防衛だと思っている。ま、彼らは 「AZZLOが先に攻撃したから!!!」 と思っているかもしれないのが、この手の面倒臭い話だがw もしそうであるならば証拠出して欲しいな。時間軸踏まえると、ちゃんとログがないと検証出来ないが・・・。
AZZLO自身は証拠も自分自身で録音データや写真等を持っているので、勘違いだった等が明確な時は反省するし。
まとめ
近年AZZLOが言い続けている事と似てる指摘が多かったので、引用もろもろ、この読書感想エントリーを作るのは、更に大変だった・・・w
しっかしアダム・スミスはAZZLO並、以上に性格悪いなぁw そして、国富論は制度が当時と今とでは多少違うので適応出来ない箇所もあるが、道徳感情論は250年経っても変わんない感じだよな。
71番から最後までは、アダム・スミスが道徳感情論の第六版に付け加えた、死の前年に書かれたものとの事だが、特に納得感高いな。
“経済論のパパ” 的なのがアダム・スミスらしいが、大学では “経済学部” とか、そぉいうのあるし、AZZLOが知っている限り “経済学部” ってメジャーな感じする。すなわち偉いおっさんは経済学部卒の人は少なくないだろうから、アダム・スミスを知っている可能性は非常に高いと思われる。
にも関わらず、思いっきりアダム・スミスによるところの 「弱い人」 通り! 経営・マネジメント論のパパである、ドラッカーと真逆! という事象は、ホントいったいなんなんだろうと思うw
知ってたら・読んだら体得される訳でもなく、当然AZZLOも弱い側面もある訳だが、彼らの弱さっぷりは徹底してると感じるなw
ま、AZZLO自身、アダム・スミス読む前から、“高学歴ほど負のループにハマってるからしょうがない” 的な事書いてるから、答えは分かってるんだがw
間違いなく言えるのは
- “AZZLOクンが組織に疑問を感じるのも無理はない”
とAZZLOさん的には言えるな。
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