-読書感想- ビジネスは「非言語」で動く 合理主義思考が見落としたもの / 博報堂ブランドデザイン

ビジネスは「非言語」で動く 合理主義思考が見落としたもの / 博報堂ブランドデザイン

2012/8/10発売。2012年10月頃の読書。

テクノやクラブはほとんどが非言語アウトプットで、ダンスフロアは、非言語コミュンケーションだと思う。そんなAZZLOの過去の経験をビジネスに繋げる良い材料かと思い、手に取った。


1:我々広告界の人間は 「こういう商品があって、ここがいいところなので、それをぜひ知ってほしい」 という企業の 「考える」 世界を受けて、彼らの顧客に伝わるように 「感じる」 世界に翻訳する。

⇒「感じる」 へ変換すると抽象的になるだけで、”知って欲しいことが何なのか分からない” という広告になっている場合が多いな。

ノエビアぐらい何が訴求したいのか分からないと 「感じる」 感じになってくると思うのだが・・・。

まず、企業の 「考える」 をオリエン書による言語で捉えていて、本質的に企業が伝えたい・・・というか生活者との欲しい関係を考えてない代理店が多いと思う。

大概、オリエンをしっかり守ると、競合プレで負けるのだから、いい加減違うやり方もやったらいいのにと思う。金が欲しい欲求と行動が伴ってないように思う。

オリエンを守らない方が良いという事ではない。オリエンは守りつつも、オリエン書に書いてある表面的な事を重視するのではなく、”何故このオリエン書になったか?” を考察する必要があると思う。そしたら大分違ってくると思う。

2:チームをマネジメントする場合なら、チームとして達成すべき目標や問題意識などが、表面的ではなく、深いレベルで理解、共有されなければ、理想的なパフォーマンスを発揮する組織にはなりにくい。

企画開発業務もそうだ。よくゴールイメージと言うが、解決すべき課題や実現しようとする対象が、箇条書きではなく、イメージとしてつかめてはじめて自由な発想ができるようになる。

「アーロンチェアに座りたいから○○○円を達成しよう!!!」 的なお誘い

「嫁とセックスしてないから、キャバクラでお姉ちゃんと遊びたい!!!その為にはお金が必要!!!僕も頑張るけど、君たちとも飲みたいから一緒に仕事ガンバロ♪」 的なお誘い 

だとイメージ沸くよな。

3:あらかじめ調査して、当人から要望を聞いているのだから、ニーズから外れることはないはず、当然、商品は順調に売れて・・・というシナリオを描いているわけだが、前述したような非言語の観点からこのプロセスを問いなおしてみると、「生活者の声」 は、本当に彼らが感じていることと一致しているとは限らないことがわかる。要望どおりにしたからといって、お約束どおりに売れるものでもないのだ。

⇒ヘンリー・フォードの名言と同じだ。

要望を聴くまでもなく、確実に言えるのは 「知らない事を知りたい(知らない感覚を自覚したい)」 という要望は普遍的だと思う。

一時段階は恐いかもしれないが、その結果得られるものは多い。逆に苦労も増えたりするがw 無知は思考の項目が少なくて楽なハズだからな。

4:人間が自分の意識について、明確に認知している部分はかなり少ない。そのわずかな部分だけを頼りにして、商品を開発したり、マーケティングのプランニングをしたりするのだから、やはりアウトプットが芯を食ったものにならないというリスクは当然ある。

生活者のことを深く理解しなければいけない企業が、乱暴に言えば、生活者の意識の5%しかとらえられていないのだ。これでは本質をつかんでいるとは言いづらい。

そう、非言語領域を大切にするということは、人間を本質的なところからとらえようとすることなのである。もちろんそれを言語で象徴する必要はあるだろうし、すべての情報を拾い切れるわけではないだろうが、それでも95%を最初から無視するのか、そうではないのかでは大きな違いが出てくる。

⇒オリエン書の内容を昼間のビジネス感覚で言葉通りに踏まえると、手段の羅列だけで、ロジックが破綻している企画になりやすいもんな。

“女装してアナルオナニーしながら脱糞してる様を露出して、国民栄誉賞が欲しい”

みたいな、前半はお手伝い出来るにしてもw 後半を得るには通常は前半を諦めて頂かないと無理なオリエンが多いんだよな。

前半はいわゆる “変態趣味” であり、後半は “格式的評価欲求” と言える。

大概、前半の変態趣味を確実にサポートする企画を出すから、オリエン主から 「ま、それ好きなんだけども、それで国民栄誉賞貰えるとは思えない」 という返答でプレで負けるw 代理店からすると 「最高のアナルバイブを開発したのになんだよっ!!!」 となるwww

5:もともと論理的思考や合理的判断は、人が言葉や数字を使って、この 「複雑なものになんらかの筋道を立てて、皆で足並を揃える」 ためのツールなのである。論理や合理性は、各自の意見を超えて公平なものであり、世の中や物事をそれなりに正しく代弁できるものであると信じられているからこそ、皆がこのツールを使おうと試みる。(中略)

いくらオペレーション上の都合がいいからとはいえ、非言語領域を無視したまま物事を進めると無理が出てくるということだ。

⇒書類・プレゼンは論理があった方が良いが、企画段階から論理だけでは、眠たい企画になるよな。

6:「なんで勉強しなければいけないの?」 と聞かれれば、勉強することによるメリットや、しないことによるデメリットから話はじめる人が多いだろう。上司に 「どうしてこれが必要なんだ?」 と聞かれれば、それが必要であることを裏づけるデータや前例に関する資料を集めに走る。

しかし、理由を説明したり、データを集めたりすれば相手が動いてくれるのかというと、必ずしもそうとは言えない。むしろ、理屈っぽくなればなるほど、相手はかたくなに動かなくなることさえある。

なぜか。それは 「なんで?」 の多くは、単に 「私はやりたくない」 あるいは 「私はそれをするのが怖い」 という感情の言い換えだからである。

⇒とは言え、論理的な企画書はあった方が、感覚が遠い人とも通じ合えるきっかけにはなるハズなので、論理に出来る部分は した方が良いと思う。 いつでも出来るスキルはあった方が良いと思う。

AZZLOのライフログ (ビッグデータ) の企画の様に、論理で理解が進めば進むほど、より恐くなって動かなくなる場合もあるが・・・w

AZZLOがプレゼンを受ける場合、大概、媒体社やプロダクションさんからの営業であるのだが、”メニューのご紹介” だったり “何でもないコーポレートサイトの事例” の羅列の上で、「企画段階から入らせて頂きます!是非お声がけ下さい」 みたいな営業は絶対にお付き合いは始まらない。

「御社のサイト見れば分かるじゃん?なんでわざわざ来たの?」

な、営業は単純に値切られるカモにしからない。


AZZLOは誰がプレゼンしても同じような企画は提案したくないし、プロダクションを値切りたくもない。むしろ付加価値的な事を発見して、より高い金額で発注したい変な代理店の人であるw

「○○○円で○△□ぐらいはしたい。無理だったら言ってね?」

という発注の仕方がAZZLOは多いのだが、ある人は、緩~~~いオリエンをして、プロダクションの企画と見積りに対して、「こんなやる必要ないし予算もないよ・・・」 と返して、プロダクションさんのやる気を削いでいたりする・・・w

案件によっては “金ハメるだけの処理案件” というのもあるが、そういう案件を相談する処理プロダクションは既に数社お付き合いがあるw そして処理案件的なミッションはAZZLOにはもう相談が来なくなっているので、新たに探す必要は少なくても現状は無い。

より価値を高めて代理店の営業が自信を持って、高い見積りを出せる様になる、プロダクションさんとか外部パートナーが欲しい。

※成功案件チームのプロダクションさんや4億のプレをやったプロダクションさん等、素晴らしいパートナーは既に居る。しかしより開拓していきたいとは思う。

7:このところ、オフィスの個人ブースをやめて、フラットに周囲を見渡せる大部屋化をはかる企業が目立つのにも納得がいくだろう。

逆に、ほとんど指摘されていないことだが、組織のメンバーが顔を合わさなくなるような極端なフレックスタイム制や在宅勤務には、「互いの非言語領域を共有できない」 というかなり重大なデメリットがあると言えるかもしれない。

⇒とは言え、デスクが振動しているのでは仕事し難いしw 逆に大部屋的なオープンオフィスの弊害を指摘している記事もある。

仕切りのないオフィスは生産性を下げて健康や精神に悪影響を与えることが判明

オープンオフィスの欠点を克服:マッキャンエリクソン本社の豪華な内装

人数や業務内容によると思うが、とりあえず現在AZZLOが昼間所属している組織においては、組織内スタッフ同士で絡む機会、更に他セクションスタッフならまだしも、近隣のスタッフと絡む事は非常に少ないので、弊害の方が大きいと思う。

8:かつてある高名な経済学者から、「日本人がつくるカワイイは、外国人にはなかなか真似できないらしい。文化的な裏付けが異なるせいか、表現されたものをカワイイと感じることはできても、自分で再現するところまではいかない」 という話を聞いたことがあるが、もしそれが本当だとすれば、アップル製品やイタリア車同様に、追随が容易ではない日本のお家芸になる可能性を大いに秘めた分野とも言えるかもしれない。

⇒カワイイの起源は、ハローキティだろうか?ドラえもんも初期は3.5頭身ぐらいだったのが、2頭身に変化したし、何故か日本人は “短足頭でっかち” が好きだよな。

9:いつの時代も、イノベーションを起こしたとされる製品やサービスは、生活者の目の前に差し出されてはじめて 「こういうものが欲しかった」 と言われるものだ。まだだれも想像したことがない、だが手にすると途端に当たり前のように浸透するもの。いわば、生活者の半歩先を行く商品である。

じつは非言語領域には、このイノベーションの手がかりがある。

まだ表面化していない生活者の意識が非言語領域には隠されている。それを読み解くことができれば、秘められた生活者の真のニーズを知ることができるのである。

⇒これもヘンリー・フォードの名言と同じだよな。

広告業界においては、企業の要望は 「より多くの人に買ってもらいたい」 なのだが、その途中にある 「好きになってもらう」 が欠けていて、手段として横行している “存在を知ってもらえるだけの手段(広告)” を活用している。その上で、なるべく好きの確立を高めたいが故にCRの重要性がある。

そら、知ってもらえば、中には好きになってくれる人もいるかもしれないが、そもそも広い告知であるから、単純な乱れ打ちなだけで、ちゃんと対象者を選定していない。

“合コンの盛り上げ役ではあれど、結局1人で帰る事になる・・・”

良くてもそんな事が多い。

10:家事が減ると主婦の存在意義は薄れ、場合によっては家族から 「手を抜いている」 「怠け者」 と見られる可能性もある。主婦の立場が脅かされるのだ。

つまり、主婦の手間が要らない商品は 「あんたなんて必要ないですよ」 と告げてくるようなものであり、いくら機能が優れていても心のどこかで受け入れがたく、認めるわけにいかないのである。

自分なんていなくても成立してしまう、そんな商品をわざわざ買うわけにはいかない。

「それじゃぁ俺ら要らなくなっちゃうじゃん!」 はまさしくコレだな。

“俺らが要らなくなるという事は、他店も要らなくなる。よって電通も要らなくなる。僕らが生き残る為には電通にさえ消えてもらわなければならない”

だと思うんだけどな。

更に競合は代理店だけではなくなっているのが今だ。電通を脅かす存在がネット系ベンチャーから出てくる可能性は全然ある。彼らが力を付けたら、マス媒体社も彼らにも販売を始めるだろう。中途半端な政治では止めれない現実もあるのだ。

現在の代理店は、まだ馬による運送屋に対する馬問屋だろう。理屈的には車の市販は可能な状態にある。車が販売されたら馬の運送屋を車の運転手に転職する事を止める事は出来るだろうか?

馬屋に拘るならば、平和な農場でのマネタイズになるだろう。ちなみに 東京ムツゴロウ王国 は閉園している。

一家に一台ある冷蔵庫の為の氷ではなく、BARに納品する製氷屋みたいな存在になるハズ。

タッチポイント創出の広告 (媒体出稿・メディアプラン)は、もう人を介さなくても買えるのだ。まだ代理店が購買代理してるが、おいおい必要なくなる。

11:ホットケーキミックスは、当初の狙いと逆行するようだが、卵を入れなければつくれないように商品を設計しなおした。その結果、急に売れるようになったという。

技術的には省略することができるにもかかわらず、「卵を用意して加える」 というひと手間をわざわざ増やしたことで、それが主婦には料理に関与した充足感を与え、怠けているわけではないという自分自身への言い訳を成り立たせたのである。

⇒全て “自尊心の担保サービス” に繋がるな。

12:広告を用いて効果的に生活者にアプローチしようと思うなら、訴えかけたい相手の頭のなかにある記憶という非言語情報を、あらかじめ十分に把握しておく必要があるのだ。

⇒今後広告の代わりに記憶を得る・売るサービスが出てくると思う。広告収入でマネタイズしている媒体は、広告を配信しない代わりに、錠剤なのか?なんなのかで記憶を得てもらうのだ。

“商品を買ったら良いかもしれない?”

という想起ではなく

“商品を買ったら凄く良かった”

という記憶を買ってないのに記憶を先に得て頂く。その方が手っ取り早いハズ。生活者を把握する事なく、最初から把握している事を無料か何かの引き換えに得てもらうのだ。



途中段階の近年としては、いわゆるリアルプロモーションで、燃費悪い記憶作りをしたり、WEBコンテンツによる 疑似体験 劣化体験のニーズが高まっていたと思う。しかしリーチ換算では普通の広告と比較して燃費悪い事実は既に確認が出来たと思う。

複数の手段を組み合わせたストーリー性ある施策である場合は、リアルプロモもWEBコンテンツも機能するが、施策単体のリーチ指標では燃費悪いのだ。

広報とWEB(主に社内サイト運営担当)が、別れていたり、繋げて組み合わせた方が良いのに、いわゆる縦割り組織では、複数の手段を組み合わせられる予算やオリエン内容がそもそも発生しない。

そこで、企業が代理店に求めるのは、やはりリーチ媒体に原点回帰してきた感じがするな。ある意味正しいと思う。

広告が売りに繋がらないというのは

・元々繋がってない。多くを求めすぎ。
・CRが予定調和。企業の自慢メッセージしかない。
・そもそもマスの存在が薄まった。(媒体・情報が増えた)

という事で、その穴埋めはいわゆるリアルプロモーションでリーチ指標では補える訳がないと思う。

13:高等テクニックとしては、反応はしてもらえるが、でも少し不足気味の情報を届けるくらいがちょうどいい。そうすれば、不足部分は受け手が自分から補ってくれ、自発性を持たせることができるからだ。

⇒12番に書いた記憶配信は、その不足気味具合も調整して、”自分が決定した” という能動的な行動に変換するだろう。

14:相手に 『してほしいこと』 は、全部言い切ってはいけない。言い切られてしまうと、人というものはそれに反発したくなる。だから少し不足しているくらいにしておいて、最後の一歩は相手に踏み出してもらう。自ら踏み出したことならば、きっとやってくれるだろうから

⇒”操られてる感” を少しでも感じると、反発したくなるからな。促しとおせっかいの違いみたいなもんだと思う。

15:そもそもブランドとは、ロゴや名称のことではない。その企業や商品にまつわるあらゆる活動や発信情報を通じて構築されるもので、目に見えるかたちで 「これがブランドだ」 と呼べるものが存在するわけではないのだ。

さまざまなコミュニケーションを通じて、受けて一人ひとりの意識のなかに構築されるイメージこそがブランドである。それだけに、ブランドをつくるブランディングは、非言語領域を抜きに語ることはできない。

⇒生き様・姿勢、だと思う。

16:たとえば、職人の世界には、弟子として師匠に学ぶ際の姿勢を諭した 「師ではなく、師の見ているものを見よ」 という言葉がある。教わるとなれば、ともすると 「技術を教わる」 と思いがちだが、本当に師匠から学ぶべきは、その価値観であり、思想であり、ものの考え方であり、経験であり、精神である。ということをこの言葉は教えている。

それと同じこと、と言うと大げさかもしれないが、近い役割がOJTにはあるのだ。

単にマニュアルで学ぶだけでは、手法をただ言語的に知るだけにとどまり、どうしても付け焼き刃の域を出ない。要するに、体得できないのである。そのせいで、ほんのわずかの状況の変化に対応できなかったり、ふとしたところで対応が的外れであったりといったことが起こりやすい。

⇒これも、生き様・姿勢だな。

17:一般的に言って、賢さと非言語領域は自動的には結びつかないだろう。たとえば一般的に言う賢さは、記憶力であることがまず多い。広く物事を知って記憶していることは、博覧強記という言葉に代表されるように、賢さと結びつきやすい印象がある。

しかし記憶力は、正確であればいいというものでもない。たとえば鳥などはかなり正確な記憶力を持っているといわれるが、記憶が正確すぎて応用が効かないこともあるという。
加えて記憶力は、便利な道具が発展することによって以前ほどの重要性を失いつつある。その代表例として、インターネットが挙げられる。情報自体にアクセスできる状態ならば、それを頭のなかに貯めこむよりも、適切に引っ張ってこられる能力があることのほうが大切だ。

⇒AZZLOがココで起きた事象と、感情・解釈を残すのは、この “引っ張ってこられる” 為だ。ちょいちょい同じ事を書いていてクドイがw そのクドさとは、AZZLOの拘りや関心の強さなんだろう。

そして、実際記憶力は落ちている・・・w

18:仏教では、怒りや恐れといったネガティブな感情の取り扱い方として、現在の瞬間に集中すること、つまり、怒りや恐れといった感情そのものを見つめることを勧めている。意識すべきは、怒りや恐れの対象ではなく、怒りや恐れというネガティブな感情を抱いてしまった自分自身なのだ。

⇒AZZLOの怒りと言える怒りは、“AZZLOの先輩も含めてdisられた” とか、AZZLOの周辺に危害を与える行為ぐらいかな?他はほぼ疑問なだけだ。

“怒りに昇華する事も出来る疑問” をココでよく書いているAZZLOだがw 仏教の勧めと同様、AZZLO自身を見つめる行為である。”とりあえず吐き出さないと・・・” という1人新橋飲み的意味もあるがw 過去の記事とのリンクとかで、事象と感情の繋がりが見えてきたりするのが面白い。

ま、組織への疑問は、AZZLOだけの疑問ではなく、多くの人の疑問であって特別なものではないハズだがw 多くの人はいわゆる会社員であり、会社員の人達に行動をしてもらうしかけを作るのが、広告代理店の企画である。(そういう場合もある)

より効果的な企画を作る上で、人であるAZZLO自身、更に多くの人と同様の会社員であるAZZLO自身を可視化し、繋がりを見てみるという行為は、マーケッターとして良い材料作りであると、改めて思うな。

恐れは、”遅かれ早かれ死ぬ” だろうかな?

現在は、誰か死んでも社会そのものが止まる訳ではないシステムになっている。セーフティーネットが制度になっているからだ。

これは損失軽減の為に変化したセーフティーネットを義務化したシステムなのだろうが、その分、自発的なセーフティーネットが無くなり “自分が生きている意味 (人の為に機能している自覚。すなわち自尊心)” をそれぞれ感じ難いシステムでもある。

よって、物質的豊かさが担保されても、コミュニケーションの豊かさが減る事で、病む人は病む事に繋がっていると思う。つくづく自尊心の担保が必要だと思う。

AZZLOはこの点、非言語領域を言語でコミュニケーションも取れる友人に多く恵まれていると思うので、死以外は恐さはないかな。コミュニティは失ったとしてもまた新たに発生するものだし。むしろ新たな発生が楽しみで仕方がない。出来れば既存を失わずに拡大していくのが理想だが、失うが故に新たに自然発生する事も多々ある。


とりあえず、企画する労働をしているAZZLOは、非言語的な事をクラブで学んでいるので、まぁ悪くない素地はあるという事が分かるなw 逆に媒体問屋としては全く向いてないのも明らかであるがw

そして、会社員を目指す際に、新橋という街に非常に関心・憧れ?があったのだがw 現在は新橋で飲んだりする事もあり、新鮮で面白い。彼らの愚痴飲みを横目で見ながら、組織の先輩の愚痴を聞いたり、もちろんAZZLO発の愚痴もある。資本主義の歪の集大成が新橋という街にはあると思うw

その歪を直視し、隙間を見極める(非言語領域の確認)のが、企画に必要な材料だと思うな♪

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