はじめに
先日、風営法改正が施行されたみたいで
動画:改正風営法施行で「夜の経済」活性化へ (日本経済新聞)
「1:朝まで踊れるようになるから、2:カウンターカルチャーが発生し、3:経済にも寄与する」
みたいなストーリーを狙っているらしい。
狙いは素晴らしいと思うし、”1:朝まで” → “3:経済” は良いのだが、
“1:朝まで” → “2:カウンターカルチャー” → “3:経済”
という間にクソ面倒臭いアレw を入れてしまう事で繋がりが非常に悪くなってしまい、狙いを達成するどころか、カルチャーとしては、より終わらせる事になると思う。
既に散々 “クラブの役割は既にクラブには無い” 的な見解を書いてきているが
改めて現在の見解をメモしておこう。
進んでいた90年代は非合法だった
Zeebra:「90年代はアジアの中では日本のクラブシーンが最も進んでいた」(1:18)
との指摘には同意だし、アジアどころか世界的に注目だったのがTOKYOだと思う。
しかしその進んでいた90年代日本のクラブは非合法であったw
進んでいた90年代は実は大企業が絡んでた
Zeebra:「(非合法では)大企業が参入しずらかった」(1:59)
という指摘は、”スポンサー” はそうだろうが、むしろ逆の側面がコアにあって「バブル崩壊だからサブカル投資だ!メセナだ!」 という流れで、90年代は税金対策も含めて実は裏に大企業が絡んでいたケースが多々ある。
税金対策だから余計な口出しも無かった ので、創造が加速した要因もあると思う。
大企業が参加する影響
プロモーションとしての参加
現代の利己的なジャイアン企業が “プロモーション” として絡んできた所で、メセナ的概念が無い訳だから、短期的なマネタイズには寄与しても、カルチャーは発生しないのではないか。
結果、恵まれた(設備etc.)クラブ環境が整った所で、新木場の大箱に見られるように “千葉県民のナンパ場所” というオチは既に立証済み である。
ガールズなんちゃらみたいなイベントが深夜クラブパーティとして実施され、化粧品メーカー等からスポンサーマネーが入る事で “経済として成功” と捉える事は可能だが、既に顕在化されているコンテンツを軸にした活動はマネタイズの段階であって、かろうじてカルチャーかもしれないが、カウンターカルチャーではない と思う。
商品サンプリングされて、アンケートさせられるような、マーケティングの臭いどころか、”そのもの” の場に、”カウンターカルチャー” は発生するだろうか? ・・・「大企業ウザい」 というカウンターには繋がるかw
四半期決算で動く大企業では、煙たがられるのは明らかだと思うな。
一時期タバコメーカーがクラブの現場でサンプリングするのが流行ってたが、「こんなブース設置するぐらいなら、快適なおしゃべりの場を作って欲しい」 と思ったしな。
アニメ業界における企業関与の仕方
公になってない事なんで具体的には書けないが、アニメ業界には10年後ないしの長期視点で投資を行っている企業が存在している。AZZLO自身が仕事でちょっと絡んだので噂じゃなくて事実だ。
「まず良い作品作って! 人気が落ち着いてから儲けさせて頂きます」
というスタンスを感じた。
クラブに関心を持つ企業は、そぉいう長期的なスタンスを持てるだろうか?
企業主導のクラブ
CCレモンホール(渋谷公会堂)に倣って “クラブCCレモン” とかが出来た場合w CCレモンを使ったカクテルなんかが飲めて、着ぐるみがお立ち台で踊って盛り上げてたりするのだろう。
オリジナルソングに振り付けが施され
「みんなもクラブCCレモンで踊ろう♪ FACEBOOKページに “いいね!” をすると、エントランス¥500 OFF!」
みたいな告知が行われるのだろうw
しかし、そんな場所からカウンターカルチャーは発生するのだろうか?
自主性を担保する為に、こういったルール化出来ない要素も踏まえないと、都市コミュニティは成り立たないと思う。四半期決算でバタバタしている大企業に出来るだろうか?
短期的なマネタイズに盲目になるのでは?
最初から “直接的な貨幣” という肥料を撒くと、近視眼なマーケティングロジックを優先し、脆弱なアウトプットにしかならないのではないか?
ダニエル・ピンクも言っている。
「スポンサーが付かないから良いパーティーに出来ない」
「企業の上が通らないからクラブが作れない」
という言い訳が成立しそうである。更に
「企業クラブに良い物件を抑えられてしまった」
という形で、企業が関わっていないエリアまで影響があるだろう。マララの弊害と同様だな。
なんでもかんでも、短期的な貨幣経済に昇華する必要はないし、社会には余白が必要だと思う。それにマネタイズとは最終段階に起きる事なんで、熟成させればもっと儲かるのに、創造が加速する前に枯れさせる事にもなると思う。
逆に
「クラブはもうカルチャーとしては終わってるのでマネタイズの段階です。よってクラブという “スタイル” で金儲け(水商売)します♪」(カルチャーって何ソレ食べれるの?)
であるならば大賛成だ。
世界が注目した日本のクラブコンテンツ
Zeebra氏も指摘しているように、地球規模、日本としても95.6年がクラブカルチャーの頂点だと思うが、その時期に日本への関心を高めたのがこのMV。
AZZLOはこの時期にフランス(パリ)に住んでいたので、「ケニシ~」 とフランス人が騒いでいたのをよく覚えている。その後実施されるジャパン・エキスポの種となったコンテンツだと思う。
日本の普通の大企業が絡んだら
「殺しちゃダメ!」 「流血ダメ!」 「チカチカダメ!」 「気持ち悪い!」
と言うだろうw
極端な例だが、こぉいうのも日本の大企業は絶対絡めないしなw
そして
おそらく顕在化しているスタンダードコンテンツしか四半期決算大企業は扱えないと思うが、アナーキストの将来性は、どう担保するのだろうか?
“音楽 = ジジババのノスタルジー”
となりはしないだろうか?
カウンターカルチャー
カウンターカルチャーを推奨されても・・・
長谷部 健(渋谷区長):「カウンターカルチャーが生まれやすいのは深夜」(2:40)
は、むちゃくちゃ同意なのだが、カウンターを推奨されるという事は、カウンターの元になる素材が無くなるのでカウンティング出来ないw 更に
Zeebra:「このチャンスとポテンシャルを最大限に活かしていきましょう」(0:18)
等と 促された上での行動はカウンターしてない 訳で、むしろ 「カウンターしませんよ」 がカウンターになるw
自主的に学ぶ人に対して 「宿題しなさい」 と言ってもシラケるだけだと思う。
カウンターするには何かしら制約ないし憤りが必要なハズだし
カウンターするタイプの方々は、こぉいう思惑に敏感でw
ニコ動も熱を失ったという事実があるのだが・・・。
そもそもマイノリティーな人種だからカウンターとなる訳なんで、推奨されると “自主性” が無くなるんだよな。要はゲリラの存在じゃないと熱を帯びないと思う。
カルチャーの為に必要な事は “推奨” ではなく、90年代と同様に “黙認” だったと思う。
今後のクラブは何にカウンターしていくのだろうか?
90年代、AZZLOが体感した事を振り返ると
- バンドと違って一人でも出来る
- 自宅で作れる
- 言語(歌詞)は関係ない
- 視覚ではなく聴覚だけで盛り上がる(ロックバンドと違って身体での煽りが必要ない)
- ファッションスノッブは服が汚れる・臭くなるから来ない
- メジャーのCDタイトルと違って、週二回CISCOに通わないと成り立たないw
- TR-808、TR-909、TB-303 という言語に置き換わるツールを生んだ国としての誇り
- YMOという大先輩が居る
こういった、カウンターを強め、ナルシズム・使命を加速させる要素があったように思う。
これからのクラブは、何を材料とするのだろうか?
近年もグレーながら朝までやってたけど?
近年のクラブは、日本在住の人の創造活性化に寄与していただろうか? “上野公園のパンダを見に行く” に似たモチベーションで、外人DJを拝む現実しか起きていない ように見えるのだが。
ジャズもロックも同じ様に終焉している訳で、箱の営業時間が課題ではない。
2000年以降は、カルチャーはむしろIT業界にあったと感じるが、今や Yahoo! JAPANも単体で5000人強、連結で1万人弱の組織になっているし、既に終わっている。
要は カルチャーのプラットフォームというのは必ず移り変わる もんだと思うんだが。
音楽という括りであれば、初音ミクの経緯と同様の事象を、クラブはこの20年起こせてない訳で、合法化された所で、”カルチャー” は特に生まれる訳ではないと思う。
今更だが、クラブはサロン的な機能を失い、より “爆音酒場” になるだけ と思う。
共犯意識が必要
“不倫や社内恋愛は盛り上がる”
“秘密基地にエロ本格納するから楽しい”
というロジックと、カウンターカルチャーの熱は近いものがあると思うw
如何わしさ・後ろめたさとの葛藤と、後ろ指刺される事による苛立ちによって、正義がブラッシュアップされ、仲間を助け助けられる。故に熱を帯びるんだけどな。
クラブで不良ぶってればカウンターカルチャーという訳ではない
今回の事象によって、カウンターカルチャーの定義が変化してしまうのかもしれない。
コレが非常に危険な影響で、過去のカウンターカルチャーな先輩方に失礼だし、より日本人の無思考化が促進される可能性を秘めてると思う。
そもそもカウンターカルチャーって?
AZZLOの考察としては
ユートピアへ (ユートピアと) の奮闘
だと思う。
これらの曲のようにジメジメして暗い世界であってw 四半期決算営利組織の思惑の場で促される行為と “奮闘” はかけ離れているのではないか?
どうも ユートピアとワンダーランドを勘違いしているケースが多い 気がする。
批判精神も必要だが?
カウンターならば “バネ” として批判精神が欠かせないハズだが?
そして、批判精神の固まりみたいなフランス人は、フランス革命を起こした連中だがw
政治家はカウンターカルチャーを恐れるもの
ヒッピーは露骨に貨幣経済に貢献しなくなるしw 更に音楽、クラブ的空間というのは
このような効果があるので、カウンターが政治家に向かった場合、非常に面倒臭いし、過去のカウンターカルチャーからして、そもそもそぉいうものなハズなんだがw
よって 公認・推奨する事で、そもそもカウンティング出来なくしてしまうという政治家の思惑にまんまとハメられた 感じがする。
そして、分岐点の判断が非常に難しいのだが 「キミのカウンター精神は正しい。けどキミの国では管理下に置かれちゃったね! 故に世界を相手に僕らとカウンターしよう♪」 的なテロ組織の誘いが効きやすくなる懸念が生まれる。
パーリーピーポー(ただの飲兵衛)からカウンターカルチャーは発生しない
クラブカルチャーの中だけでも、HIPHOP、HOUSE、TECHNOは黒人特有の背景があって
開かれている = 物理的にはクラブには誰でも入れる
閉鎖条件 = “傷の舐め合い”(助け合う) をする “傷” の有無
という、傷というか、コンプレックス、憤り、といった暗い背景が必要だと思う。
フォーク・演歌、hide、米津玄師からしても、“暗い人 (傷がある人) が夜に行う現実逃避” 的な要素がないと、成り立たない 事は証明されていると思うw
ダンス軸からしても、抑圧ないしの憤りがないと始まらない。
要は “夜に音楽があってダンスしても良い” という条件では何も起きない という事だ。
そして、近代渋谷の起源は
ココだと思うので “パーリーピーポー”(ただの飲兵衛) ではカルチャーは生まないと思うんだよなw
現在のカラオケと同様の “発散会場” にならないだろうか? (既になってると思うが)
経済効果とカルチャーの関係
EDMを事例としてカルチャーを狙っても繋がらない
Zeebra:「世界ではクラブカルチャーが経済効果を産んでいる」(2:05)
の指摘には、ちょっと摩り替えを感じていて、正確には
“海外ではとある爆音コンテンツがかなり儲かっている”
であると思う。
おそらく貨幣面で成果を上げているように見えるEDMの事象を指摘しているのだと思うが
長期的で不確かなカルチャーではなく、短期的マネタイズを目指して設計されたビジネスだと思うんだよな。明確に営利組織主導なのがEDMだし。
そして
EDMを事例としてカルチャーを狙っても繋がらないと思うw
創造と経済の紐付き
この循環が日本でも起きたら素晴らしいと思うが “今のお金持ちは先輩お金持ちにサポートを頂いてきたから” という前提があるから成り立つ事 で、自分の出身大学に寄付をしない利己的なモチベーションで成り立っている日本には、残念ながら適応し辛い と思う。
日銀総裁が指摘する合理性の罠
“朝まで合法” “企業資本投入” という合理性が担保された所で、カルチャーは起きないと思うし、カウンターカルチャーはより無理だと思う。
外国人観光客の娯楽という側面
“外国人の夜の遊び場が無い”
という指摘には、確かにAZZLOもジレンマを感じるが、“外国人は夜にダンシングしている” という偏見がある ように思うw
外国人が全体の半分以上の日もあったりする原宿ボノボでは、多くの外国人が畳の上でゴロゴロしている現実もあるw
どこの都市にもあるようなイベント箱や、ナンパ箱は東京には存在しているので、ハード面は一応担保出来てるんじゃないかな。グレーながら一応朝までやってた訳だし。
イビサは何か生み出しただろうか?
経済軸で出てくるワードは大概 “イビサ” であるがw イビサは “観光業としてのコンテンツ運営” であって、カルチャーは無い気がするのだが。
イビサ在住アーティスト・レーベルって聞いた事ないし、DJも客も大陸から移動してきてるだけじゃないかな?
当時の日本におけるイタロハウス・ユーロビートみたいな状況と似てる気がする。
“アジアのイビサ” を経済、都市設計として目指すのであれば、それはそれで共感するが、そぉいうのは “爆音酒場” であってカルチャーは無い と思う。
運営側の課題
今の東京の良いクラブを日本人すら知らなかった
原宿のボノボ入口で飲んでいたら
女子:「私、札幌のプレシャスにいつも居るんですけど、東京に良いクラブは無いんですか?」
と、”東京に着いてそのままボノボに来た” という20代前半の女子が質問してきた事があった。「東京の良いクラブはどこですか?」 ではないのが致命的 だ。 東京のダメさ加減を表している事象だと思う。
AZZLO:「”設備が良いクラブ” はあるだろうけどね」
とだけ返すと
女子:「マニアックラブっていう名前は聞いた事あるんだけど・・・もう無いんですよね?」
と言っていたw いつまで語り継がれているんだろうか・・・w
当たり前のメンツばかりのブッキング
この様な懸念があるようだが
“欧米の有名DJは、途上国に出張授業をしに行っている。日本はもう自立しているから大丈夫”
と考えられないだろうか?
“当たり前のメンツ” の代表格であるジェフが嘆いている訳でw 世界的な課題だ。
都市としては、むしろコッチ側に思考を向けるべきだと思う。90年代はそうだったしな。
ちょっと古い材料だとは思うが、NYにおけるジュニア・ヴァスケスみたいな、箱だけじゃなくて人の存在、郷土人も必要だと思う。
“郷土人による郷土音楽”
が、クラブカルチャーの要素の一つだよな。そして外国人の解釈によって
君が代と同様に地域の個性が強まっていくのだと思うし、グローバル・コミュニケーションとは、こぉいう事だと思う。
※ CO-FUSION = DJ WADA、HEIGO TANIによる日本人ユニット。Funk D’ Void = スコットランドのアーティスト。
そもそも既に市民権を得ているプラットフォームから何か生み出せるのか?
クラブも既に “お茶の間” の存在である気がする。
コミュニティの背景
薬物が促進してきたという事実
シラフでも可能だが、クラブ等の音楽コミュニティが達成した事の背景には、特にLSDという薬物の功績があるのは事実w カウンターカルチャーならより明確な事実w
合法化と引き換えに “シラフだけのコミュニティ” を担保しなければならないハズだ。そのチャレンジであれば非常に面白い と思うが。
しかし要因として紐付くかは不明だが、法的にクリーンになってきた近年のクラブからカルチャーが発生したようには見えないジレンマは克服出来るのだろうか?
ダメな人は必要悪
マナーないし、ダメな人は存在して頂いた方が良いと思うw その上で
「あれは、ダサいわ・・・。あぁはなりたくないわ」
↓
「あ! 自分もダサかったな・・・w」
という気付きを得る事が、一つの教育であり、自調自考に繋がるものだと思う。
こぉいう事が、クラブないしコミュニティーのコア要素なので、”ダメな人も含めた多様性” が、昔の歌舞伎町の様に都市コミュニティーには必須の条件だと思う。
「合法なら警察に連絡出来る」 との事だが、法律に依存するのは、「だって先生が言ってたもん」 と同様の無思考化に繋がる し、規律を考察しなくなってしまう。
クラブのような 都市コミュニティーは “成人の教育機関” でもあるハズ なのだが・・・。
もちろん、学びを必要としない人も居るし “周辺住民への配慮” は当然の事だが
“酔いどれが散らかすから渋々掃除する”
という様なスタンスでは、掃除した人が、他のどこかで散らかす導線を生むので
“学びに夢中な方は夢中なだけに落とし物も多い。サポートして差し上げる”
的なスタンスを持って頂きたいと思う。
コミュニティの寿命
誰の為の改正なのか?
署名はあるにせよ、若年層ではない方々が今回の件で動いている様に見えるが、”てめぇらの食い口維持” と見る事も出来てしまう。
もちろん育った場所を愛する、継続する、更に
後輩への配慮、といった面では共感するのだが、愛着と依存は表裏一体 である為、利己的な危機感の可能性も想像しやすい。
海外EDMにおける “DJの年収数億円” に対する、収入コンプレックスも臭う。事実あちこちで聞く議題だ。
コミュニティーのスタイルは変化する
特に都市コミュニティーは、こぉいう事であって、キャンティも今や “マジョリティーの背伸び” ”当時の方々のノスタルジー” という形で、文化としては役割を終えている。
ガチなクラブとしては
明確な経済的功績も起きた訳で、既に十分機能したと思う。
クラブ以降の新たなプラットフォームとして、日本ではニコ動が生まれたりしたが、”大人の介入” と細分化という要因から、”置き換わる” には達さない現代故、クラブへの期待が消えないのも停滞する要因だとは思う・・・。
コミュニティに必要な要素
もう “リアルの深夜” とは限らないのではないか?
既にネットコミュニティの利便性があり、初音ミクの様な事例もある。
価値認定はそれぞれだが、若年層はLINEないしで、何かコミュニケーションを図っているし、LINEスタンプの提供・活用の方が、現状のクラブに纏わる事象よりも活発なんじゃないだろうか?
スマホを通して様々な事が起きている現代において “貨幣経済” と “カルチャー” をクラブは促進・誘発出来るのだろうか?
“リアルで深夜” という条件が当てはまらない事象も起きている事は踏まえる必要があると思う。
箱だけでなく切磋琢磨を促進する要素が必要
90年代クラブトラックは、主に “サンプラー” という技術革新をベースとし、PC完結(ソフトシンセetc.)という流れがあった。
2000年に入り、DJプレイにおいては、PCDJ、ファイナルスクラッチという手法の多様化も起きた。
要はハードではなく、ソフト面からイノベーター層の関心を煽る要素を伴っていたのがクラブというプラットフォームだったと思う。
そして、NI TRAKTOR等のPCDJ環境は、既にニンゲンの身体でやるには機能多過ぎ、可能性が高過ぎであるし、フロアからは、何やってるのか視覚的に分からないのもありw ソフト面での革新は、クラブは既に行き過ぎたのではないか? StemsファイルでのDJ とか、もう “やらされてる” 感じがするしw
初音ミクにおいても、”声を滑らかにする技術競争” とかが熱を加速させていた訳だしな。
ハード面としては、今だにミラーボールが回っているという現実には、新しい体験を提供出来ているとは到底思えない。“無重力のダンスフロアー” ぐらいの提案が必要 だと思う。
よって、”朝まで合法化されたからカルチャーが発生する” 訳ではまったくないと思う。
ファシリテーターが必要
原宿ボノボ入口で、ラブダブの五十嵐さんと、お互いにマスタリングにハマっている会話をしてたら
セイさん(マネージャー):「じゃぁ、同じ楽曲でマスタリングした曲の比較視聴パーティーしよう♪」
という投げかけがあった。
同様の関心・活動をしている人を繋げ、モチベーションを上げるのが、コミュニティーの機能であり、箱の存在だけでなく、ファシリテーションする人が必要であると思う。
「だったらウチでやる? ◯△□したらどうかな? あの人も呼んでみよう♪」
的な事を、誰かがやる必要がある。
結果として
様々な検証から、考察を生み、また新たな検証を続けるのが、クラブないしのコミュニティーだと思う。
そして、金無さそうな子にはドリンクチケット上げたりとか、フリーで入れてあげたりとか、そぉいう事が可能な権限と配慮があってこそ、コミュニティであって、”公演” を実施するだけの箱ではカルチャーは起きないと思う。
バースタッフとかも、自販機のようにドリンクを出し続けるだけではダメだ。
愛される場は、主役以外もコンテンツとなる場だと思う。
まとめ
懸念が無駄であれば良いのだが
“カルチャーは発生しない”
を何度書いたかという感じだがw
“観光業として爆音コンテンツ採用による貨幣経済促進(イビサ化)はアリだが、カウンターカルチャーは伴わない”
であり、カウンターカルチャー発生も狙うのであれば
- カウンターの元ネタ(暗い背景・ベトナム戦争ないしの社会情勢etc.)
- 切磋琢磨が必要なトレンド(イノベーターの関心)
- ファシリテーターの存在
こぉいう要素も必要だと思う。
“社会の余白” とも言える カウンターカルチャーすら短期的貨幣経済視点でマーケティングするのは、道徳レベルでマズい んだよな・・・w 少なくても誰が何をやってるかはシークレットにしないとならない領域なハズ だ。
「じゃぁオマエはクラブで踊れなくて良いのかよ?」
という見解もありそうだが、ダンスとカウンターカルチャーを天秤にかけたら、絶対にカウンターカルチャーの方が重要だと思う。
AZZLOが知らない所で、ジャイアンスタンスではない大企業が既に動いてるならば、まだマシなんだがな・・・。
この懸念が無駄であれば良いのだが、終わる事によって次のプラットフォームに進む良いきっかけとなる期待も強まるな。
次のプラットフォーム
「その次のプラットフォームって何なんだよ!」 と言われそうなんで、embedしておくが
次のプラットフォームとは・・・
こぉいう事だと思う。
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