2014/4/3発売。2014年9月頃の読書。
AZZLOの最近の読書には “教養” というワードが増えてきているし、ちょっと前にAZZLOがよく使っていたワードである “品格” はほぼ同じような気がしているので、ここらで一度がっつり教養とやらを知ってみようと、この本を手に取った。
1:誰もが大学に行く時代になると重視されるのは 「すぐに使える」 実学的な教科になりました。大学のカリキュラムも教養科目を削り、専門科目を増やしていきました。初等中等教育でも、「実用」 が重視され、「教養」 の要素が落ちていきました。
教養は、「すぐに役に立たない、どうでもいい学問」 という扱いになったのです。
- 「○○の知識や経験を積んだ上で、将来はこんな事がしたいから行く」
があるべきだと思うのだが
- 「とりあえず就職に有利っつぅか無いと話にならないから」
という対象で学問でもなんでもない、“金がかかるスタンプラリー” なので、スタンプとして機能しない科目は無駄 なんだろう。
企業の人事採用が手抜き発想なのが根源かな。
直近の4半期決算では今の人事採用フローで良いのだろうが、解雇し難い今の法律では、10年後にはお荷物になりそう。
2:慶應義塾大学の中興の祖といわれ、今上天皇にご進講した小泉信三は、かつて学問についてこんな言葉を残しています。
「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」
⇒更に今となっては知識は必要な時にググれば良い訳だしな。(何をググる必要かを気付くのは過去の知識とセンスだが)
3:東工大の学生はみな真面目です。いい意味でも悪い意味でも。向学心があり好奇心があり、与えられた問いを熱心に解こうとする。一方で、与えられた前提を素直にそのまま受け入れてしまうところがある。問題そのものに疑問を抱かず、問題の最適解を求めることに没頭してしまう。
⇒これが “言いなり従業員” だよな。やはりそのトレーニングが日本の教育機関で行われている事という事だな。
4:実社会に出てビジネスをしている方ならご存知でしょう。
実社会には、そもそも 「正答がある問題」 そのものがほとんど存在しません。何が 「問い」 なのかさえ判然としないことが珍しくないのです。学校のように、問題があって正答を答えられたら合格、ということはあり得ません。
向き合っている世界の中から、自ら問題を発見し、自ら答えを見つけてくる。狭い専門分野に収まっているだけではできないこと。それが実社会で生きる、ということです。
⇒ “大卒者の負のループ” にハマったら、問題発見を自らする事はないからなぁ。
広告業界では、”この商品を必要としている生活者のモチベーション傾向と、必要になる瞬間の状況” とか何も考えないで、すぐ “コピー×タレントキャスティング” + “商品サンプリングとかの手段プロモーション” になる。
典型的な “正答を出したつもり労働” だと思うな。そんなんだから “業者扱い” されるのだ。
5:人間世界の 「ルール」 や 「条件」 は全て、かつて誰かがつくったものです。人がつくったルールが永遠にそのまま続くことはないのです。
自分の専門外のことに疎く、仕事や興味の範囲でしか生きてないと、これまで当たり前だと思っていたルールや制度が簡単に変わってしまうことに気づきにくくなります。
ビジネスの世界では、ルールや制度はあっという間に変わっていきます。
⇒ “メーカー直販サイト” とか過去ではご法度な領域だったが、今はあって当然だからな。
ガチな流通業もかなり問屋省いて流通コスト下げたしなぁ。
ジャイアンコンサートで例えるならば、「お前らもステージに上がってこいよ!」 的な事が起きてるしな。
アフリカ・バンバータの2004年メタモルフォーゼのステージの様子だが、ビジネス上にも、似たような事が起きてるよな。
6:ルールを守るばかりでなく、ルールを創る側に回る。そのときに必要となるのが教養です。フレームワークや、所与の条件や、ルールそのものを疑ってかかる想像力。教養はそんな力を養ってくれます。すると、あらゆる変化が 「想定外」 ではなくなります。
⇒ “ルールを創る側に回る” が偉いおっさんたちに無いんだよなぁ。
今年取り組んでた “営業なしで新規でアポ取って提案するプロジェクト” は結局
- 「営業なしで提案は会社のルール上出来ない」
「担当になった営業は今期の売り上げが悪くて目の前の事で追われてる」
「提案すら出来ない。金にならない。」
という事象になってるからな。過去のルール、大概行動を規制するルールが横行しているが、守れば守るほど金生まないんだよなw 教養以前に 「儲かりたくないの?」 という疑問を強く感じる。
もちろん動かなければ損失を生む事はないが、そもそもの人件費とショバ代があるのを忘れがちだと思うw
何もしない方が良いなら、”出社・労働免除” にして欲しいんだよな~w
7:はっきり変化したのは、1990年代。日本の大学は、教養科目を削減して専門科目を増やしました。企業も 「即戦力」 を学生に求め、すぐに仕事に使えそうなコンピュータ・リテラシーや英語の能力を重視しました。
その結果、どうなったでしょう?90年代後半から多くの日本企業の多くがどんどん元気をなくしていきました。
⇒いわゆる文部科学省認定の学校は、それでも良いとは思う。教養的な事はプライベートの家族・友人から遊びなどで得られる方が強いし、教科書通しの記憶継承ではなくライブで体感するものだと思う。
そぉいう大学では足りない領域がある事を気付くセンスがそもそも大学入学以前から無いと、どっちみち話にならないと思う。
問題は大学ではなく、それ以前の体験にある気がする。
8:堤さん (堤清二) が関西で 「つかしんショッピングセンター」 を開発したときのことです。当初現場で整然とした機能的な街を設計したところ、堤さんはダメ出しをしたそうです。
「路地裏のようなところがないとダメです。人間は、ごみごみとした路地裏や下町のようなところが好きなのだから」
目先の 「合理主義」 で考えたら、新しい街をゼロからつくるときに路地裏や下町のようなゾーンは、単なる汚い余分な場所に過ぎません。わざわざ作ろうという人はなかなかいないでしょう。~中略~
目先の合理主義だけでできた街の計画にないものは、「教養」 です。人間は合理主義だけで動く機械ではありません。何を愛し、何を憎み、何を好いて、何に興味があるのか。人間に対する洞察力すなわち教養がなければ、魅力的な街を計画的につくることはできないのです。
⇒坂とかカーブとか必要だしな。村田大造さんは 「ナンパスペースを作っておく事が人気クラブの秘訣」 とも言ってるし。
渋谷のvisionとか、行った事ないけど見取り図見ると、そぉいうナンパスペースになりそうな隙間がいっぱいあるように感じるもんな。
9:私が考えるに、1970年代にこうした教養のあり方が崩壊します。説はいろいろありますが、私は、大学の庶民化があるだろう、と考えています。かつて大学はごく一部のエリートが通う場所でした。それが誰もが大学に通う時代になって大学生はエリートではなくなってきた。大卒の大半がサラリーマンとして中産階級に属するようになりました。かくして教養と修養を差別化する必然性がなくなったのです。(上田紀行)
今となっては少子化で “誰でも行ける” 度合いは更に高まってきてるよな。ほんと企業の新卒採用を大卒者前提でやるのは何の意味があるんだろうと思う。”言いなり奴隷が欲しい” という事であれば真っ当だが。
10:教養主義は廃れ、専門家が進み、結果として 「できる人間」 「できて儲けられる人間」 を育てる場になりました。この10年くらいはさらにそうです。
ところが今、こうした大学の 「専門」 重視のカリキュラムが実は根本的にダメなんじゃないか、と問題になっているんです。
一見役に立たない 「教養」 を学ぶ時間をどんどん削って、専門科目だけを徹底的に習得させると、たしかに学生たちは 「できる人間」 になります。でも、この 「できる人間」 とは、あくまで 「決められた枠組み」 で 「できる人間」 のことなんですね。
価値観が多様化して、「枠組み」 そのものをどう決めるかという時代には、実はこうした 「決められた枠組み」 の中だけでの 「できる人間」 や 「専門家」 は、新しい時代には対応できない。つまり新しいアイデアが出せない 「使えないやつ」 となってしまうのです。~中略~
誰かが出した問いをエレガントに解くには、コストパフォーマンスを追求する勉強法で 「解法」 を勉強するだけでいいでしょう。東工大生も、「この条件で最適解を出しなさい」 という問いを解くのは得意です。kれども、「決められた枠組みで、決められた問題を、いかにエレガントに素早く解くか」 という力だけでは、「今の社会では何が問題か?」 というように、問題そのものを自分で設定しその答えを自ら探していくことができないんですね。(上田紀行)
⇒当然の結果だよな。言いなり奴隷には、まず指示しないと始まらない訳なんだからw
そして “出来る” ってのは、”処理” なだけなんだよな。しかも時代変化に合わせてその “処理出来る” は変えなきゃならないの訳で、変化が激しい現代においては、上手くいっても非常に短い期間しか使い物にならないw
11:結局、教養とは 「前進していく」 ことなんですね。それから、「場が大切だ」 とも言っています。教養は、枠にはまったカリキュラムを作り、誰が教えてもいいようにマニュアル化したとたんに死んでしまいます。そうではなくて、社会とのかかわりの中で問題意識が鮮鋭な人たちが集まり、熱く考え、議論する場があれば、そこで現代的な教養が育めるのだと思います。(上田紀行)
⇒教科書あって教室で1対Nな “教える” では教養に繋がらない (つながり難い) と思う。リアルタイムに起きている事象を自分も参加して体感してないと気付きにならない。
12:おっと忘れてはいけない、専門バカにならないために、東工大生の男子諸兄におかれては、「男女のコミュンケーションもとっても大事よ」 ということですね。(池上彰)
⇒そうだと思う。セックスしなくても良いし、むしろやらない時の学びもあるw
13:つまらないことを言う人、それから文句ばかりを言うひと、ネガティブなことを言う人には、それなりの理由があるんです。この先生の講義はつまらないなと思ったら、なぜつまらないのか自体を考えてみる—–というのは面白いですよ。(桑子敏雄)~中略~
なぜつまらないのかを分析すれば、その分析自体が大変面白く先生も反面教師になってくれて自分には力がつくんだよと。すると大学には、ためになる先生ばかりがいることになります(笑) (池上彰)
AZZLOが今在籍している組織とか、そんな学びがいっぱいあるな。大分骨までしゃぶった気分だが。
14:教養とは、教え養うと書きますが、では、誰が教え養うのか。先生、ではないんですね。自分です。自らが自らを教え養うこと。それが教養です。(桑子敏雄)
⇒自分で言うのもなんだが、ココに書いて読んでを繰り返すAZZLOは “自らが自らを養う” をやっているつもり。
“AZZLOクン” を露呈すると “AZZLOさん” 視点が出てくる。時間が経ってから読むと二人を見守る “AZZLOじいさん” 視点の思考に気付く。その繰り返しだ。
15:21世紀になってだいぶ経ちますが、まだ20世紀の発想が根強く残っているなと思うことがたびたびあります。私は今、志賀高原の湿原回復のサポートをしていますが、志賀高原近隣のホテルのオーナーたちは、まだ、バブル景気の再来を期待しているんですね。いつかバブルのような熱狂的な消費景気の時代が訪れると思っているんです。(桑子敏雄)
⇒何を根拠に再来すると思ってんのかなw AZZLOの知っている知識によるとバブルは仕込み発生だからな。世界中の意志としてオリンピックと同様選ばれないとバブルは発生しない。
もちろん今後改めて日本を舞台にしたバブルというのは仕込み発生するポテンシャルは、微妙にある気もするが、当時の様な日本人に益があるバブルではない様に感じる。
日本人の “お上の指示を待つ人格形成” の最後の仕上げとしてバブルを発生させた とも考える事出来るな。よって次のバブルがあるならば酷い仕打ちがある気がするw
16:最近ですと、私たち自身が、グローバル化が必須だとかコミュニケーション力が欠かせないと学生たちに説きますが、私たちのこうした言葉も疑ってほしい。先生に言われたからやりましょう、と安易に信じないでほしい。デカルトの 「我思う故に我有り」 の 「思う」 とはすなわち 「疑う」 ということです。(桑子敏雄)
共感したって事はある程度ベースは良い訳で、疑うことで、ネガ取りが出来てより完璧になれる。そうして共に強くならないと最初の共感を出した人にも失礼だと思う。
17:私は同調圧力の強さが、日本人をがんじがらめにしているとずっと主張し続けてきました。同じでなきゃいない、違ってはいけない。職場も学校も地域社会もそうです。だからちょっと違ったことをするとすぐにいじめが起きる、とても苦しい社会になってしまった。しかし、そういう社会の中でも、自由に輝いている人もいます。(上田紀行)
を言った先輩の周りの意見は
- 「企画じゃAZZLOさんに適わないと思ってるからでしょ。負け惜しみですよ」
って声が出てきたしな。そぉいう視点を持ってAZZLOに教えてくれる人もいるから、まだ組織を辞めないのだが。
18:嵐の中を来てくれた皆さんには 「あのとき、あそこにいたんだよ」 といつか自慢話をしてもらえるよう、私たちも頑張りたいと思います。(上田紀行)
⇒これは、この講義の日が嵐だったが故の発言なのだが、1997年のフジロック と同様だな。
・・・そしてわざわざ言わなくて良いなw
19:アメリカでは、既存のシステムを組み替える発想のトレーニングを大学の教養課程すなわちリベラルアーツの過程で教えています。このため、社会に出たあとも、大卒のエリートたちはシステムやフレームワークを変えることができる。
日本の場合、こうしたシステムやフレームワークを変える作業は、一部の優秀な個人に頼ってしまう。つまり、属人主義なんですね。アメリカでは、優秀なリーダーがいたら、そのリーダーをサポートしながらシステムの変化を促すチーム作りを周囲のスタッフが行っていく。そんな訓練が大学時代からできている。(桑子敏雄)
⇒変化とは光と影の範囲・対象が変化する事も多々ある訳で、既存の光から影的になりそうな人たちからは反発くらうしな。
そして、その手の人たちは大概 “太陽はずっと変わらずある” 感覚なんだろうな。俯瞰して考えれば、
- 「企業まるごと影の方になっちまった・・・。企業内での光と影どころではなかった・・・(T△T)」
という可能性に気付かないのが不思議だ。”国まるごと影” の可能性だってある。
20:四半期ベースの短期的な思考だけではなく、10年後20年後なにを生み出せるかを考える。じゃあ、どうすれば考えられる? まずは周囲を見渡しましょう。時間を超越した面白いことをやっている人をまず周囲で見つけ出して、友達になる。「あいつ、なんだか面白いことやっているなあ」 というひとは、たいがい普通のひととは別の情報の入力法を知っているんですね。(上田紀行)
⇒一人ぼっちも良いけどな。AZZLOはAZZLOクンとAZZLOさんとAZZLOじいさんが居るしw
21:なぜそれぞれが賛成、反対の意見を持つに至ったのか。その意見を持った理由をちゃんと掘り下げる。そしてそれぞれの意見=インタレストの対立構造そのものを露わにした上で克服する。それが合意形成なんです。調整というと、賛成と反対の間に立って、だいたいこのくらいの感じでいいでしょうか、という形ですよね。それではないんです。(桑子敏雄)
さまざまな意見の背後にあって、かならずしも表には見えない対立構造が生まれている。その構造自体をまず明らかにせよ、と。(池上彰)
しっかり構造を認識する。そこから合意形成が始まります。(桑子敏雄)
- 「あら?意外と目指してるの一緒だったね? だったらここを重視すれば、一番メリットでかくね? 多少捨てる部分双方にあるかもしれないけど、トータルでメリット増す感じしない?」
って事が起きるよな。
AZZLOが在籍する組織では、そぉいう検証起きない。 “折衷案” って言葉が横行しているし。
先日久々に組織内の複数人とやる案件があった (まだやってる) のだが、AZZLOの意見に営業は一言もコメントしなかったんだよなw
故に 「じゃぁ僕はフェードアウトでいいですよねぇ♪」 っつったら引き止められるっていう意味不明な出来事だったなぁ。
その営業は 「客から細かいことまで質問が来て面倒臭い」 と嘆いていたが、そら質問攻めにあうのは当然だと思ったな。
22:ユルゲン・ハーバーマスという社会学者は 「生活世界の植民地化」 ということを言っています。私たちの生活世界は、点数を取らなきゃいけないとか、金を稼がなきゃいけないとか、効率化して短時間で最大限のアウトプットを得なきゃいけない、という近代社会の考え方の植民地になってしまっている。つまり、我々は 「効率やシステム社会の植民地」 に生きている。それに気がつかなきゃいけないと指摘しています。(上田紀行)
- “効率化して短時間で最大限のアウトプット”
には意識が高い方だと思う。楽して儲かる “自動出稿ツール” とか、”社員要らずに役員が儲かる” アイデア出してるw
23:オウム真理教に帰依した若者の多くは高学歴者が多い。東大卒や東工大卒や医学部卒の信者もいました。そんな彼らの言葉で一番はっとさせられたのが、「僕が僕の人生を生きている気がしない。誰か別の人の人生を生きさせられているような気がする」。他人事じゃない、と思いましたね。これは、受験システムに乗って、ただテストの点数を競って、やりたいことも情熱もないまま東大に入って惑っていたかつての俺のことじゃないか、と。この言葉はしかも事件が起きた1995年から20年近くたっても通用します。東工大の学生たち、いや日本人の大半にとって、思い当たる言葉です。(上田紀行)
⇒オウムは敵を設定した “リアルRPGゲーム” みたいな要素強かったんだろうしな。自分の強みを生かせて自尊心の担保も出来るし “チーム” を実感しやすかったのではないかな。
そぉいうの超王道だからな。企業もそぉいう手法をポジティブに導入したら良いと思う。
24:どんなエリートでも、どこかで自分の存在を疑っている。モノサシが受験勉強と偏差値ですからね。自分自身の力で生きている、という実感がどこか希薄なことを感じているし、不安にも思っている。そんなふうに自己の存在について不安を抱く現代の若者たちにとって、オウム真理教はある意味で逃げ場となってしまった。(上田紀行)
偏差値じゃ現実モテないからなぁ。東大とかだと、それでモテても 「その女がアホ」 とすぐ気付いちゃうだろうしな。
25:そもそも、なぜ日本から伝統的宗教が存在感をなくしてしまったのか? 原因の一つは、村社会のような共同体に代わる、新しい強固な共同体が戦後、日本でスタンダードとなったからです。
会社です。会社という強固な共同体ができた結果、伝統的宗教がその存在意義を失ってしまったのです。いいかえれば、日本において、会社は神様仏様の代わりになった。実は、これが日本の問題の根っこにあります。(上田紀行)
⇒ “社長は神様” みたいな感じは今もあるからな。そんな社長がトイレの個室から出てくるとみんな見てみぬフリ的な事象になるからなw
社員に気を使わせないように 社長は “社長専用トイレ” が必要だと思うと同時に、”社長もそら糞するわな・・・w” を露呈した方がいいな。
26:バブル崩壊で会社の神様仏様が消えてしまった。以来、日本は長い不況に悩まされました。自殺者は増え、心の病も増えました。本来ならば宗教がなんとかしなければいけない。ところが、いったん宗教を捨ててしまった日本人には今さら宗教に帰依するなんて、という意識がまだある。宗教アレルギーが根強く残っている。すると、どうなるか。かつての会社の神様仏様を取り戻そう、となります。2013年、久しぶりに会社の神様仏様が戻ってきそうな機運が盛り上がりました。アベノミクスです。
実際は、どう考えてもちょっと景気回復したくらいで、かつての高度成長期のように会社が絶対安全な存在になるわけはないんですけれどね。リーマンショック前の好状時でも会社は得た利益を溜め込んで社員には分配しなかったわけですから。(上田紀行)
高度成長期は焼け野原とアメリカの思惑がなければ成立しないと思う。
だからな。
27:鬱の社員を救うのは会社の人ではありません。会社で出世しなくたって、うまくいかなくたって、生きる価値は誰にでもあると教えてくれる存在です。間違いなく会社の外の人です。人事担当者にカウンセラーや精神科医や宗教者の役割を負わせては鬱が伝播するだけです。
会社の線とは別の、もう一本の線のほうで救うべきです。~中略~
つまり、日本には、私たちを支えるもう一本の線が存在しない・・・・。結局のところ、強靭に見える日本社会はいざというとこんなに弱いということなんです。しなやかな強さを欠いている。単線社会の構造的な問題ですね。(上田紀行)
⇒ “定年退職したら旦那には何もなくなった” っての起きる訳だしな。
「売上が倍になったら、君達の給料も倍になるんだよ!だから頑張って!!!」 と言う偉いおじさんに対して、白けてる人が居たがw
とかも単線で生きてきた偉いおっさんと、その線を見限っている若い世代のギャップだろうしな。
28:子どもの世界もそうですね。学校でいじめられると逃げ場がない。子どもには学校しか世界がないからです。でもそれこそ、複線的な場所が用意されていて、たとえばアジール (避難地) として寺子屋のようなところでお坊さんと話ができたりすれば、ああこの世は学校だけが世界じゃないんだ、と救われますよね。(池上彰)
⇒AZZLOにとってクラブは寺子屋で社会的子宮だった。そぉいう人少なくなかったと思う。
今はコスプレイベントやニコ動がそんな役割を担っているんだと思うな。
AZZLOは探してたというより単純にクラブに夢中になってただけだが、いつの時代もこぉいう事なんだろうw
コスプレやニコ動って、単純にユルい娯楽、旬なコンテンツとして見がちだが、現代の寺子屋機能を担っているのだと思う。
29:僕たちが常に合理的に動くロボットなら、単線でいいでしょう。けれども私たちはロボットではない。心も感情も好き嫌いもある。そもそもですね、俺は合理的だ、宗教なんてまやかしだ、カネを基準に勝ち負けを考えれば一番シンプルじゃないか、という合理主義の勝者のような人間が一番負けているわけです。
だって、「合理主義者」 って、偏差値だのお金だと、システムが作ったモノサシに従っているだけの話で、他のモノサシをムダだといって捨ててしまうわけですから、ある意味ではシステムの一番の奴隷ともいえるわけです。システムの中で勝てば勝つほど、個人の存在はそのシステムの軍門に下ることになる。(上田紀行)
⇒その手の思考が強い人は、遅かれ早かれロボットに置き換わるハズ。やはり赤い血が流れた人間では企業戦士は無理だったのだ。
ヒトの企業戦士が、実は金ちょろまかしてたりする訳だからなw
30:近年では、2008年に秋葉原通り魔事件を起こし、多数の死傷者を出した青年がそうです。彼は地元の青森で元々勉強のできる子だったと聞きます。だから成績に自分を同一化して育った。しかし地元の進学高校に行ったら成績がどんどん落ちていく。成績以外のアイデンティティを喪失したときの、たった1本の線が失われたときの人の危うさ。彼の犯した犯罪の重さが、逆にそれを物語っています。もう1本の線、たとえば宗教が、いい意味でちゃんと逃げ場を確保しなければいけない時期なんですよ。(上田紀行)
⇒清潔感あって優秀っぽいイメージの人はAZZLOがうっかり言っちゃうホントの事に強烈に抵抗するもんな。1本の線が危うくなると、冷や汗が出るのだろう。
とかな。
31:あの朝の通勤時間帯の殺人的なラッシュの中に毎日身を投じるというのは正気の沙汰ではない。高度成長期の時代は当たり前のこととして皆できていたのに。(池上彰)
なぜかというと、殺人的ラッシュの電車でぎゅう詰めになって会社に行けば、ちゃんといいことが待っていたからです。労働時間は長いけれど毎年ちゃんと昇給する。ローンを組めば家だって買える。会社の仲間と帰りに一杯やれる。週末は一緒にゴルフができる。会社に行くことは苦痛じゃなかった。~中略~
年功序列どころか、今勤めている会社がいつまで続くかだってわからない時代なのですから。なのに朝の通勤ラッシュは今もある。すると、ふと立ち尽くすことがある。この電車に毎日乗り続けて、俺は果たしてどこに行くんだろうと。ふと見ると掲示板に 「人身事故」。この表示に親近感を持ってしまう。そういう社会になっているんです。(上田紀行)
⇒AZZLOは “オフィスのPCしょぼいし色々と効率悪い” からオフィスには行きたくない。”しがみつけば給料は上がる” 訳でもないしw
ただし企画の仕事には誇り持ってるし使命感じてるから、それがAZZLOにとっての “いいことが待っている” だな。逆に今の組織でなくても大丈夫なのは明白w
32:会社勤めの単線思考、合理主義の人にとってみれば宗教なんか洗脳じゃないか、となるかもしれません。でも、考えてみてください。じゃあ、我々が生きているこの世俗的な日本社会は洗脳じゃないのか、と。
合理主義もまた洗脳のひとつに過ぎない、という事実に触れず、宗教だけを洗脳とみなすのは、間違っているし、危ういぞ、というのが、宗教人類学者としての僕の強い主張です。(上田紀行)
⇒宗教に否定的な人には 「じゃぁどっちが儲かってる?」 軸を出したらどうなるだろうなw
33:社会からも家庭からも無価値の烙印を押される。これは人間としてはつらいですし、そんな立場の人間は弱いものです。システムが強いときは、強い立場にいられるけれど、そのシステムから放り出されたら、価値がなくなる。それはつまり、システムに徹底的に依存しているということです。で、システムはいつか必ず調子が悪くなるんです。ひとつのシステムに頼り切ることがいかに危ういか。(上田紀行)
⇒組織内ヒエラルキーなんて、いずれにしてもどんぐりの背比べなんだから、強い立場とかも明確にあるけど俯瞰したら誤差だからなw “組織内で偉い” は、犠牲にするものが大き過ぎるとAZZLOは思う。
いわゆる芸能人とかも、収入は一般平均よりは多いにせよ、全国的に顔が利いちゃって、のんびり散歩も出来ないのを引き換えにしてるんだし。
34:本来成熟社会は、さまざまな意見、さまざまな考えが多様に存在する社会です。そんな多様性を前提に、お互いが話し合ったり、交渉したりして、行動する。それが成熟社会のあり方のはずです。(上田紀行)
35:古代の奴隷仕事は人間がやらされていましたが、現代では機械に相当任せられる。なのに、その機械をさらに増やすために仕事している。これでは、奴隷の奴隷ですね。(池上彰)
⇒“人が汗かいてないと安くなる” ってのは日本だと強いかもな。機械に任せられるのに “機会” のためにわざわざ人が労働している。
36:あらゆる存在に意味付けをする仕事を負っているのは科学ではありません。宗教です。(本川達雄)
“毎年コートを買う” とかも、”ブランド” というほぼ宗教要素があるからだしな。防寒という科学的な尺度では5年は大丈夫だろうw
37:理論があるから、現実が理論からどれだけ違っているかで、現実を測るものさしや、現実を見る視点が得られます。それから、いいかげんだけれど、理論を使って予測を立てられます。理論を学ばず、現実だけ見てしまうと、現実はごちゃごちゃでわからない、だから理解はあきらめて現実に埋没し、ただの現世利益のみを追いかけてしまい、道を誤ってしまうことになりやすい。
⇒ “自動出稿ツールを否定する広告代理店” がコレだな。
38:そのモデルにどこまで現実の複雑さを組み込むのかが次に問われていきます。いずれにせよ複雑な現実と向き合い、そこから人間に扱いやすいようなきれいなモデルをつくっていく。これが一見、非現実的な学問を勉強し続ける意味でもあります。(本川達雄)
⇒AZZLOが想定しているビッグデータの可能性はそぉいう事だったりするな。
故にビッグデータ関係のツールはインターフェースは一つ重要な課題だと思う。
今のアクセス解析ツールですら相当分かり難いw ビジネスになる隙間だと思うな。
長い目で見るとインターフェースは、最近の風呂みたいに非常にシンプルになるんだけどもw
39:生物の個体は、細胞という基本の要素が集まってできています。ゾウの細胞も、ほぼ同じ大きさで、要素としては同じ。ゾウとネズミの違いは細胞の数であり、ゾウはネズミより、数が10万倍多い。要素還元主義に立てば、細胞はどこでも同じに働くはずだから、ゾウはネズミの10万倍働くはずだ、と、考えることになります。ところが現実には、ゾウはネズミの10万倍も働いているわけではない。ゾウのように体のサイズが大きい動物ほど、細胞が働くなるのです。だから結局、大きなシステムの構成員はさぼっている、ということになります。(本川達雄)
ゾウは鼻で何か持ち上げる事が出来るし、何か踏み潰す働きが可能であって、ネズミにはできない事が可能だ。
これに近いのが人間社会のヒエラルキー・権力かな。ヒエラルキーが高い人ほど働いているように見えなくても、”責任” に紐付いて何か決定的な働きをしていると言える。
そして、AZZLOの偉いおっさんへの疑問は “偉くなったのに従業員思想(責任嫌い)” で、”ネズミのようにちょこまか動くだけ” では、でかいだけに周りが迷惑なんだよなw 振動だけ起こしてるだけでは、むしろ本人が沈んでいくだけと言えるw
偉いおっさんはネズミが動きやすいように、なにか障害物を鼻でどかしてくれたり、水たまりを踏んで水を飛ばしておいてくれたり・・・といった事がゾウのように可能なハズだ。
それが共存だしチームワークだと思う。
40:問題は、規模の大小ではなく、その規模にあった生存戦略をもっているかどうか、です。(本川達雄)
⇒その点AZZLOが在籍する組織の “電通をパクる” という戦略? は良いのかもしれないな。しかし 「コンペで電通に勝とう!」 という気は起こるものではないし、”アイデア開発会議” みたいのはやるべきではないよな。
41:私はこの国語部会で、こう提案しました。
「みんなが作家になるわけじゃないんだから、全員が名文を書かなくてもいいんじゃないですか。むしろ、読む側に誤解を与えない、すっきりした論理の通った文章、よくできた理系のリポートみたいな文章の書き方を教えた方が、実践的でいいんじゃないですか」
こんな反応が帰ってきました。
「理科の文章は理科の時間に教えてもらわないと。国語の教師では対応できません」(本川達雄)
⇒寒気たがした・・・。”理系な文章” いうてるのに “理科の文章” になってるw
42:大学受験を戦い抜いてきた東工大生にとって、授業で習ってきた理系科目とはずらりと並んだ理論と事実のことであり、それをひたすら覚えるのが勉強だ、と思っているんです。私は、というと、そんな新入生たちを相手に、「ある事実をもとにどう考えるか」 という授業を行うわけです。たとえば、「なぜ」 昆虫には羽があるのか? 羽があるとどんないいことがあるのか? 「なぜ」 有性生殖をするのか? そんなことを考えさせながら授業を進めます。すると、東工大生の一年生たちはこう言うんですね。
「先生、それは授業ではなくて、ただの 『お話』 じゃないですか?」~中略~
「なぜ」 と意味を問うとそれだけで違和感を持ってしまう。(本川達雄)
そぉいえばAZZLOはとある、ex偉いおっさん (偉くなくなったおっさん) に
- 「中二病だな。いい加減大人になれ」
言われたけど、大人って大概の場合 “思考停止状態” の事 だと思うわw
43:「価値」 を問わない、というのは理系だけではありませんね。歴史の教科書なんかも、大概つまらない。解釈がゆるされないので、年号とセットになった事実をただ並べているだけの本になる。面白くなるわけがありません。(池上彰)
- 「あなたは明智光秀です。織田信長が憎いのですが、どんな事でやっつけますか?」
とかいう投げかけとかあっていいよな。点数付けれないが、そぉいうトレーニングが、あまりに既存教育分野ではなさ過ぎるように思う。
AZZLOだったら
- 「殿!!!宣教師から最新の服が献上されました。英国の王が身に付けているものだとの事です!天下を取る殿ならば英国の王と同等でございます!!!」
っつって、レイザーラモンHGみたいな服に着替えてもらうかなw
44:たんなる事項の羅列。実につまらない。もちろん、専門家になるためには、専門知識は絶対に必要です。でもその知識をもとに全世界を眺めて、その知識をもった専門家としての自分の立ち位置がわからなければ、専門家としてどうふるまうべきかもわからないですよね。(本川達雄)
⇒世の中には “経済学部” ってのがいっぱいあって、いっぱい卒業生がいると思うのだが、何も役に立っているように見えないしなぁ。
- “その組織のビジネスドメインに則ってあえて疲弊する”
を選択している気がする。経済勉強してたら “楽して儲ける” を考えちゃうと思うんだけどな。
45:検定教科書とは独立したゲリラ本が必要になるんです。(本川達雄)
⇒「認定学校とは独立したゲリラ学校が必要になるんです」 だな。
46:東工大の学生たちは自分たちを 「コミュ障=コミュニケーション障害」 と卑下します。うまく人とコミュニケーションをとれない、という意味です。日本の製造業の明日を担う東工大生たちが 「コミュ障」 というのは、かなり問題ではないか、と思うですが。(池上彰)
⇒まずは、その専門分野を強く持っていれば良いんじゃないかな。若い時期に両立は難しいと思う。
それに “コミュ障” 的な人は、大学以前の生活に起因していると思うし。
その課題はやはり大学以前の体験をどう作るかという事だと思う。
48:今の学生たちは、生まれた時からテレビを見せられて育っています。15分たったらコマーシャルソングが入る、というリズムが、体に染みこんでしまっているのですね。だから、今の学生たちの集中力はだいたい15分が限度。15分に一度ブレイクがないと、お尻がもじもじする人間に育っちゃったわけです。だからこちらも、15分ごとに歌わないといけない。(本川達雄)
⇒椅子の問題もあると思うけどなw あとそもそも学校や勉強というものに意義を感じてないベースもあると思う。スタンプラリーだからそらそうなる。
現実のスタンプラリーやる場合、その場の景色とか見てないですぐ次に移動するからな。
小学校で起きる前習えとスタンプラリーはマジで犯罪だな。
49:教える側が文句を言うわけには、いかないでしょう。そういうふうに育てたのはあんたがたの世代だ、と言われれば、返す言葉はありません。それが現実なのですから。その現実を踏まえて教育方法を工夫するしかない。(本川達雄)
⇒既存の枠組みで教育に携わる人は凄く大変だと思う。故に尚のこと、大学以前が課題だと思う。
50:生物にとっては常に現実だけが正しい。理想は存在しない。なにせ生物の都合と関係なく、環境は変化し得るわけですから。そんな環境=現実に、自らを合わせることで生物は生き残ってきた。それが進化です。進化とは、理想へ向かっての進歩とは、まったく違うものです。ところがいきものの中で人間だけは違う道筋を辿りました。古代ギリシャ以来、現実じゃない、脳内でつくりあげた理想こそが正しいとした。究極のイデアの世界を追い求め、宗教をつくって神の世界を想像した。対する現実は、理想に届かぬできそこないのような扱いを受けています。(本川達雄)
⇒“欲深い人たちの免罪符” みたいなのは人だから必要かもしれないなw
神の存在や聖書に書いてある事がホントならば
- 「イエスは十字架にかけられなくても良かったんじゃね?ワープして逃げられたんじゃね?」
とか思うしなw そして世界大戦の時代にも “再度登場♪” しても良かったと思うんだよなw
むしろイエスが居た事によって争いが加速してたりするからなw “悪い人が聖書を利用している” のかもしれないが、もう結果は出てるようなもんなんだから、早く神の統治の時代に切り替えて欲しいと思うw
- 「お祈りすれば神は見てくださっている。御加護を頂ける」
とかそうかもしれないけど、お祈りしなくても神に愛されたいんだよな~♪ そもそも人間作ったの神なんだったら、”イジワルな検証期間長過ぎ” じゃないかと思うw
そんなAZZLOみたいな事考える人は数百年前からいるだろうから、神に変わって現世メリットが明確な金の力が強まったんだろうな。
51:ニュートン教に入信すると、科学の理論を疑いのない 「真実」 として受け止めてしまう。根本的な 「なぜ」 を問わなくなる。科学ばかりを見て 「現実」 を見なくなる。宗教は大抵あの世で救われる。ところが科学はこの世での救いをもたらします。この世を飢えのない自然の力にひれふさずに自由にふるまえる天国に近づけていく。だからニュートン教は、絶大な人気があるのですね。
⇒ “メディアに多く露出しているAKBが笑顔で出てくると商品が売れるハズ教” とかも “アンチAKBも居る” 現実見ないからなw
“旬な商品を横流しする問屋” という人の感情にひれふさずに楽にふるまえる天国に近づけていく。だから “AKBが笑顔で出てくると商品が売れるハズ教” は絶大な人気があるんだろうな。
信者の方は “なんでAKBがメディアに出るのか?なぜファンが醸成されたのか?逆にアンチも居るのか?” とか考えないんだよな。頭使ってないから “安く仕切る媒体問屋” + “キャスティング作業屋” になってると思う。
52:生物学的に見れば、自分の子供は私なんですね。孫も私。私、私、私、と私を渡していきながら永続するのが生物です。生物はこの世の永遠をこうして手に入れました。永遠に生きられるのだから、天国ですね。結局、伊勢神宮も生物も、体を更新する、つまり生まれ変わることによって時間をリセットしながら回り続ける、永続しているのです。回る、つまり元の状態に戻って繰り返す、こうすれば持続可能になります。(本川達雄)
物理的な命じゃなくて思想・魂って方の命だよな。
ついつい物理的命が終わると魂も終わるっぽく捕らえがちだが、別の人の体・頭でそれは続いていくのは当然の事。
バトン貰っちゃった人なら分かることだと思う。
53:生物学は理系文系にかかわらず必修項目だと思っています。生きものとは、生命とは何かを考える、ということは、例外なく全ての人に必要ですから。(本川達雄)
⇒ “経済の駒” ではなく “赤い血が流れているヒト” を知らないと、マーケティングが労働疲弊履歴にしかなんないしなw
言うならばマーケティングは生物学を踏まえた上でやらないと、労働疲弊履歴になっちゃうんだろうな。
54:東工大のような偏差値の高い大学で、少ない専門科目だけを勉強するようになるとどうなるか。学生がみんな目先の100点だけを追い求めるようになるんです。でも、テストで計れるのは過去の知識の量にすぎない。未来への創造につながる創意や工夫は計ることができないんです。一見ムダに見える、一見自分と関係ない 「教養」 こそが、今はない新しい何かを生み出す糧になるかもしれない。教養課程をないがしろにする教育には、こうした視点が欠けています。(本川達雄)
⇒ 「100点取らないと!」 「有名大企業に就職しないと!」 「出世しないと!」 って既に追われてる生き方だもんなw
一応やった上で 「あんまコレ意味なくね?」 と気付くためのトレーニングなら良いけどもな。
「100点だったら・・・どうなんのか?」 と気付くきっかけが必要で、池上彰は
と言ってるしな。大学入る前に知るべき事ではあるんだが、既に既存の大学に入っちゃったヒトには強烈に言わなきゃいけない事だと思う。
当たり前体操な、これでしかない。
55:「世の中の都合に合わせて」 人を育てようとするあまり、「世の中が必要としている」 人が育たないジレンマが生じるわけですね。(池上彰)
⇒既に 「世の中が必要としている」 すらも分からなくなっているから、どうにもなんない状態になってる様に見えるなw とは言え
現実の親子に起きているのはこぉいう事が進んでいるので、既存のスノッブな教育環境ではない場所から、必要な教育は洗練されて起きているのだと思う。
56:若い人たちを単なる 「労働力」 と見なして、パートタイムで使い倒そう、という教育や経営から創造的なものは絶対に産まれない。なのに、国も大学も経済も学生の教育や社員教育に対して、どんどん 「その場主義」 になってしまっている。(本川達雄)
そして、とりあえず広告代理店業においては、
媒体問屋の領域は、日本語カタコトの中国人でも可能だから、置き換えて経費削減出来る部分はした方が良いと思う。
と思うな。
- 「大学出てんのに広告代理店なんか行くの?それバイトでしょwww」
ってのは一時的に言われる事だろうなw 長期的には
- 「大学まで行っちゃったら、そら広告代理店ぐらいしか行けないね・・・」
となるだろうな。
57:時間をかけずにすぐできることが正しいという悪しきスピード主義、悪しき効率主義がはびこっています。その元凶が大学受験です。大学受験とは効率主義の権化です。(本川達雄)
⇒大学の学科でそぉいうのが一つあってもいいと思うが、受験の時点ではマズイと思う。
結果的に “やってるふりだけはうまい” 人間が育成されているw
58:教養と言うと、どうしても脳みその中だけで構築したお話を教養と言いたがるところがありますが、体で覚える教養もあると私は思っています。体の部分がとても大事なんです。「身」 が 「美しい」 と書いて 「躾」 です。こういうものも私は教養のひとつに数えたいですね。(本川達雄)
猫背でデブはダメな人とは限らないが、イケてる人が猫背の可能性は低いよな。
AZZLOも意図的に背筋良く一日を過ごすと、企画がスムースに出来たりするのは実感する。
59:教育で一番大切なことは、物が今ほどなくてもみじめだと感じない人間、物ではない豊かさを創造できる学生をつくること。それが大学の大きなミッションになるのではないでしょうか。(本川達雄)
ある種真逆の 「ヒッピーを育てなきゃ!」 的に感じるが、長期的にはそうなりそうな気がする。
大学以前の経験からして 「会社に入って出世して・・・」 というモチベーションが元々低い状態だし (先輩たちが疲弊してるんだから憧れる訳がない) 既に会社に入ることへの期待が薄いと思う。
60:今回MITの先生とスタッフにインタビューして、つくづく感じたのは、理系専門大学だからこそ 「教養」 を重要視していること。その象徴が、MITにある音楽教室です。(池上彰)
1970年代に作った、とうかがいましたね。音楽大学にあるような立派な防音室がいくつもあって、ただ、理論を教えるだけではなく、実際に楽器の演奏まで教育しているのにはびっくりしました。(上田紀行)
- “物を筋肉を使って鳴らし、同時に発生する触覚と聴覚、更に内臓器官の動きをインプットし、更なるアウトプットを続ける行為”
で、もの凄い情報量を扱うインタラクティブ行為と言える。
ボーカロイドは除くが、言語がない音でも言語的な解釈が入ってくるし、いわゆる歌詞も付与されると、非言語領域と言語認識の更なるシンクロを体感する事が出来る。
“言語的な頭でっかち” になりがちな理系?には音楽演奏などで、結局はアナログな人間である自分を通過させるトレーニングが非常に必要なんだと思う。
セックスもそうで、最中のエロワードとかで盛り上がりが増すってのは音楽と一緒だよなw
61:「MITというと、先端科学の総本山というイメージがあるかもしれません。でも、私たちが学部生に教えるのは、先端科学などではありません。すぐに役立つ技術などでもありません。理由は、先端科学や先端技術であればあるほど、5年以内に全部陳腐化して次の先端と入れ替わってしまうからです。もちろん先端科学や先端技術には触れてもらうが、しかしそれらは研究者や企業人のように専門家となって自ら切り開くべきものです」
- 「5年前に記憶した事は卒業の時点でもう必要ない情報だった・・・。よって常に学び続けなければならないし、むしろ自ら生み出していく事だな♪」
という気付きを得るための肥やしだったら良いと思う。それに気付く人ってのは、大学以前の体験によるので大学でどうこうなるものではないと思うw しかし大概
- 「大学出たからもう安心♪」
になるから “言いなり奴隷” としてしか活用法がないんだよな。
おそらくMITは “今後学び続けやすくなる武器” を学生に身に付けてもらっている場所なのだと思う。専門分野はあれど、他分野とのシンクロやメイン分野の変更もおそらく容易だろうしな。
62:新しい 「先端」 が生まれていく根っこには、人類がこれまで数百数千年蓄積してきた知の体系があります。こちらも同時に学んで血肉としていかないと、呼吸の浅い思考しかできなくなってしまうと思うんですよね。(上田紀行)
根元までグイングインしたら楽しいんだけどな。
広告業界は “先っちょだけのみこすり半劇場” という寸劇をやってるように見えるしなw
63:入れ替わるもの、変わらないもの、「考える」 ためには両方が必要ということですね。
⇒人間そのものは変わらないからな。そして変わらないことの一つとして
- “ヒトは知的欲求がある”
が非常に重要だと思う。それをAZZLO流にすると
人はより良いSEXしたい為だけに生きてる
になるw
64:MITでは、どうやって具体的にリベラルアーツを教えているのか? 先生に訊きました。するとこんな答えが返ってきた。
「私たちが学生に教えるべきは、知識そのものではなく、学び続ける姿勢です」 (上田紀行)
- “そんな先輩の生き様を見て自分はどうするのか?” (学び続けようとするのか?)
という自己対話のきっかけを生む事が、先輩たちのやる事だと思うしな。今後知識 (記憶) は
だしな。
65:スタンフォードでの経験なのですが、学生が必死に課題の本や資料を読んでくる、ということは授業に対する準備ができているわけです。そうすると75分の授業で、半分以上僕が一方的に講義していると、学生たちがイライラし始めるんです。(上田紀行)
なんでわざわざ先輩である講師が出てきて、わざわざリアルで集まる必要があるのか?
“リアルな授業やるんだったら体験でなくてはならない”
って事に繋がるな。そして
“良質な体験は教室で起こす事も不可能ではないが、大概遊び場にあるという現実”
も考慮した方がいいな。
66:自分と社会を見る 「軸」 をまず身につける。そうした軸がないままで社会に出ると、その後右往左往するだけです。そして 「役に立つ」 「お金がもうかる」 といった指標だけで動いてしまう。そうではなくて、人間の根っこ、社会の根本についてしっかり学ぶ。(上田紀行)
⇒暴走族でもアニオタ (特定ジャンルに限ったほうが良い) でも何でも良いので、10代のうちに強い感情を自覚した方が良いと思う。悪い事イタい事でも何でも良い。「学歴が全てだ!!!」 でも良い。それが軸なので。
本気で取り組めば見えてくる事があるという事。
狭く深くが良い。何かの頭から尻まで知る経験をしたら、他の事での共通性や、何が足りないか想定しやすくなるからだ。
幼少男児の “電車好き” をベースにするなら、乗車券・回数券・定期券しかり、線路敷く際の地上げの事や当時の都市計画の事、現在の電気代やメンテ費用、人件費など、興味があれば自然と記憶出来るだろう。
将来的に電車以外に興味を持っても、電車と比較する事で、まだ自分が知れてない領域の認識が早まるし、知った上で、そのレベルにも気付きやすいだろう。
幼少女児の “りかちゃん好き” をベースにするならば、パパの収入、ママのへそくり、りか自身の食費と学費・・・。もろもろ自然と記憶出来そうw
20代は、その感情をベースに様々なトライをして、上手くいってみたり、後悔してみたり・・・w
その上で30代に、それぞれの最適解を見つけられるのではないかと思う。
その最適解がダサいことであっても、見つけられない人よりはずっと良いw
親はその “強い感情” を促す事に密接なポジションであるので、何でも良いのでブレイクポイントを作るサポートをした方がいいだろう。極論 「親超嫌い!!!」 でも良いw
自ら判断する機会を提供出来るのは幼少時期の環境を作る親自身じゃないだろうか。
ISAKの狙いの様に、大学以前に多様性の先っちょぐらいは嗜んでないと大学に行く良いベースもないと思うな。
67:日本の大学では、教員を採用する際、研究者としての実績を主に見ます。学術雑誌にどのくらいの学術論文を書いているかが大きな要因になります。一方で、教育者としての側面はさほど重視されません。つまり教える能力があるのか、コミュニケーション能力があるのか、プレゼン能力があるのか、は、あまりチェックされないのです。アメリカの大学では、教員採用の際、研究者としての実績はもちろん教育者としての適正も厳しくチェックされます。(上田紀行)
結局教員も “生活費” かかってるからなぁ。その背景がある人はどっかで保守的になるので、後輩からするとその導線からは、あんま学びがないような気がするんだよなぁ。
故にAZZLOは中学も行かず寺子屋であるクラブに行ったのだ。
利害関係がない能動的な寺子屋状態が望ましいと思う。
68:日本においてはどの大学に帰属しているかのほうが、何を学んだかより重要なんですね。帰属情報がものすごく価値を持つ。だから東工大生たちは自分たちより偏差値の低い大学生の前ではふんぞりかえり、東大生の前では縮こまる。(上田紀行)
⇒www。逆に東大の人はふんぞり返らない印象がある。縮こまる対象がないと同時にふんぞりかえる必要もないんだろうな。
おそらくそぉいう東大の人以外は “自分で決めた大学とは言え不本意な大学だった” という背景があるような気がする。だったら行かなかった方がずっとマシな気がするw
更に帰属情報に盲目というのは
こぉいう側面あるし、今後はAZZLOの
“大学行く目的が整理しきれないでなあなあで行った判断力のない人”
という意味も増えてくるだろうな。
69:学生は、簡単に単位が取れる科目を 「楽勝科目」 といってコストパフォーマンスが高いなんてうそぶきますけれど、せっかく授業料払っているのにちゃんと教わっていないということは、学生自信にとってみれば楽勝科目はコストパフォーマンスが低いわけです。(上田紀行)
⇒逆に “そもそも大学から学びはない。故に楽勝なスタンプラリーして卒業する” であれば良いけどもな。
70:日本の場合、小学校から大学にいたるまで教育機関はすべて文部科学省の管轄化です。文部科学省が 「大学はこうあるべきだ」 と大方針を出すと、全国の大学はそれに従わなくてはならない。もっとリベラルアーツ教育を東工大で充実させようとしても、「あらゆる大学の基本的なカリキュラムはこうです」 と文科省が決めた枠があると外しようがない。(池上彰)
軽井沢のISAKとか大丈夫なのかなw 狙いが文部科学省と真逆だと思うんだが・・・w
これを当たり前体操している学校をAZZLOは始めて知ったからな。”理念” みたいのにはあるかもしれないが露骨な現実にしている日本の学校はISAKが始めてじゃないだろうか。
・・・というかそもそも啓明学園がISAKの元祖だったかもしれないな。(他にも濃度の違いはあれど存在しているのかもしれないが)
啓明学園は、AZZLOの種付けの父、母が居た学校で、AZZLOの育ての親である母の父(祖父) である水谷暢宏がPTA会長かなんかをやっていた学校だ。
帰国子女と、芸能人の隠し子と政治家の隠し子ばっかりの学校だったらしい。極端な境遇の子どもたちが集う寮生活は、ある種ISAKだな。今は割と普通の学校になっているらしいが・・・。
71:企業留学の学生さんたちは皆、「いやあ、正直言って日本の会社には戻りたくないです」 って話していましたね。(上田紀行)
戻りたくない、というよいりは、戻れない、という感じでしたね。(池上彰)そうそう、なんというか、MITにしろハーバードにしろ、世界を見晴らせる場所に来てしまったら、なんだか日本の中で働いているのが辺境のの地でちまちましているような感じがして、もう戻る気が・・・という若者たちが、たくさんいましたね。(上田紀行)
⇒日本の企業の現実は大概 “面白くない寸劇” だからな。瀬戸弘司の寸劇の方が面白いし生活者に必要とされるからなぁw
72:「自分たちの使命はよりよい社会を創っていくことだ」 という使命感は、学生のみならず、今回お話をうかがったMIT、ウェルズリー、ハーバードの3大学の大学関係者すべてから一貫して伝わってきたメッセージです。では、僕たち日本の大学関係者は、大学生は果たしてどうでしょうか?(上田紀行)
⇒学生は 「オレが食う手段の為のスタンプ」 だろうし、教員は 「オレが食う為の手段」 が多いだろうな。教員はその割合は学生よりも低くなるとは思うが、残念ながらゼロではないのが現実だと思う。
73:東工大にもっとも欠けている根源的な問題を最後に指摘しなければなりません。ダイバーシティ。学生たちの多様性です。(上田紀行)
なぜ、ダイバーシティを確保しなければならないか?理由は明確です。世界がダイバーシティを認める方向に、どんどん変化しているからです。~中略~ そんな時代にモノカルチャーな場所で学んだ人間が対応できるかというとはなはだ心もとない。(池上彰)そこへ帰結するんです。僕たちが慣れ親しんできた日本の文化は、ある意味でコノテーションの文化です。言葉にならないさまざまな習慣や空気を共有して、「あ・うん」 でものごとを決めていく文化です。何も説明しなくても、ある種の等質性・同質性が担保されているので、スムーズに社会が動く。ものすごく洗練された暗黙のうちの理解が当たり前になっている。これが日本文化のすごいところでもあり、しかし実に特殊なところでした。(上田紀行)
⇒66番でAZZLOが書いた事は、”ダイバーシティの性能を上げる為には大学以前の経験が必要” という感じだな。
そして、そもそもが
である。地理的な特性は若干違うが、そもそも ワレワレハ地球民ダ Ψ(Θ)_(Θ)Ψ なんだよな。
74:戦前の政治家や官僚や財界のリーダーは、もしかすると今よりも 「教養豊か」 だったかもしれません。でも、彼らは負けました。なぜ負けたのか。その理由のひとつに、多様性のなさがあった、という点を見逃してはならないでしょう。
教養は常に多様性とセットであるべきだ、と思います。教養がその価値を本当に発揮するのは、多様性が担保されている場だ、と思います。つまり、文化の多様性であり、人種の多様性であり、性の多様性であり、世代の多様性であり、経験や知識の多様性です。
現代は、ひとりで森羅万象を知り尽くすゲーテやレオナルド・ダ・ヴィンチ的なスーパー教養人を求める時代ではないのかもしれません。
ひとりですべてをカバーしなくてもいい。チームをつくればいいのです。(池上彰)
⇒戦前の政治家や官僚は東京帝国大学法学部 (東京大学法学部) 出身ばかりだった故の池上彰の指摘だ。
当時は必要な経験がそこでしか得られなかったというのはあったのかもしれないけどな。むしろ東大じゃないと多様性がなかった時代なのかもしれない。
真逆っぽい見解になるかもしれないが、多様性を知らないと
これに気付く事は無いからなw 言うならば “光を知らないと影も認識出来ない”。 “影を知らないと光も認識出来ない” でもOK♪
物事には裏側というのがある。すなわち2次元じゃなくて少なくても3次元であって、
- “プリウスは走行中はCO2排出が少ないかもしれないが、製造時に大量のCO2を出す”
(自動車の寿命を踏まえると、通常ガソリン車とCO2排出量は大差ない、もしくはプリウスの方が多いらしい)
みたいな相反する面がある事に気付かなきゃ、現代のコミュニケーション・ビジネスは結構難しいと思うw そうでないと “処理班・経済の奴隷・言いなり奴隷” であってヒトじゃなくなっちゃうw
そぉいう領域は今後ロボットが担当する時代なのは目の前に迫っている。
読書の最初のモチベーションである “教養ってなんだ?” は、正直どうでもよくなってw 色々とAZZLO自身の見解を整理出来る非常に良い読書だった♪
なんか教養って “茶道” “座禅” みたいな、「あ・・・足痺れるぅぅぅう・・・(´O`)」 的な面倒臭い印象ってあるがw “楽に生きる為に必要な経験・思考ロジック” と言えるかな。
その “楽” ってのをどの面で捉えるかそのものが既にに教養な感じはするがw
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