やっぱ夜遊び大事!( ・∀)人(∀・ ) で、書き忘れた事があった。
ラッドミュージシャンで協働したヨースケ君
この日は奇跡的にラッドミュージシャンでの活動時期に一緒だったヨースケ君がボノボに来た!ざっくり11年振りぐらいだろうか。ちょいちょいボノボに遊びに来てるらしい。
ヨースケ君は今もラッドの仕事をしているらしい。そして二見さんも宇川君も変わらず関与しているとの事。そしてヨースケ君の弟のダイスケ君も変わらずラッドに在籍しているとの事だ。プレスの加藤さんも変わらずらしい。
当時の想い出
AZZLOが関与していた頃 (1999~2003頃) は、ほぼ毎晩、ラッドの誰かしらと飲んでたw 当然ボスである黒田氏との飲みの率は高い。稲垣のゴロ~ちゃんとかともブレッツで飲んだなぁw
そして、黒田氏には、散々イイ飯食わしてもらった。ヨースケ君もAZZLOと一緒の日もあれば個別の日もあった。
“イイ飯を毎晩食えばOK!”
って訳じゃないがw でも、あの時、
を感じて仕事してたし、全員それぞれの役割を尊重してフォローし合ったし、実際ビジネス的にも成長して、毎日興奮してた んだよな~。全員が主役だったし有機的に昇華するチーム だった。
2000年前後にクラブが習慣に以降したタイミングを自覚してた だけに、多少クラブ維持への期待もラッドには持っていたし、更新のプラットフォームもラッドに感じていたんだよな~。
※当時はまだ90年代残り香があったので、維持なのか更新なのか整理が付いてなかった。
人を見る目があった黒田氏
元モデルのコージ君とかナホちゃんとか、ネジ外れた連中が集って、黒田氏自身も
という反省を当時聴いたがw あの人員構成はホントヤリ過ぎだった と言えるしw その渦中に混ぜてもらって、イイ飯食わせてもらった環境の上で、当然今のAZZLOがある。
「やっぱ黒田氏は人を観る目はパないよね!(事実やり過ぎた訳でw)」
ってな会話で盛り上がった。
黒田氏は “変なおにいさん”
ヨースケ君も当時の体験の濃さはAZZLOと同様やっぱ濃かったんだと思う。
つまるところ、当時のAZZLOやヨースケ君からしても、「このメンツでビジネスしてく!?www」 的なメンバーが集ってたのに、ちゃんとビジネス的に成長しつつ、”毎晩イイ飯食わしてくれた” 黒田氏は、言うならば “変なおにいさん” であったのだw
AZZLOも当時の黒田氏の年齢になっちゃった訳だがw 残念ながら黒田氏と違って金は無ぇのでイイ飯は若手に食わせられない。割り勘星子の機会は作れるがwww
変な先輩達にAZZLOは育てられた
黒田氏、宇川くん、二見さん、WADA、エラの佐藤さん・臼杵さん、ハピコンの広田さん・豊崎さん・門脇さん、村田ダイゾウさん、MARBOさん、客とトイレでヤッちゃうマニアックラブのスタッフw 、MINODAくん、ユキちゃん、もろもろ当時のお兄さん、お姉さん達。
“客とトイレでヤっちゃわない元マニアックスタッフの山下君” とかも、今、ビジネス話出来るし、良い先輩だw
あと忘れちゃいけないのが、駒場東大寮に居たOSBSUCREのメンバーと、モリトくんと白井くんもだな。あとブレッツのハリーさんもそうだし。近年だと “梅酒じゃない梅のリキュールっていう梅のお酒” のデニーさんもそうだしw ハウルで会った白石さんや高木さんもそうだ。ボノボのセイさんもチエちゃんもそうだ。
黒田氏との出会いの場であった北青山ホテルのBowieさんもそうだな。亡くなっちゃったけど。
遡っていけば、プッシャー小遣いと、アーティスト保険で食いつなぐフランス人達とか、まみちゃんバンドのメンバー、SARAVAのバルー家もそうだな。
そぉいう意味では普通の親の役割はやってないが、変な先輩としては母であるYUMI YAMAZAKIもそうだな。最低な人間だとは思うが、時代を刻んだのは確かだ。そして母と歩んだSHINJI YAMAZAKIもそうだ。
AZZLOが金に五月蝿い (ビジネス的マネタイズに比較的細かい) のは、竹下通りを繁栄させて渋谷のTOKYODOを作ったSHINJI YAMAZAKIのベースがあるよなwww
また、当時の店舗のAZZLOを支えたヒロユキさん、ユカさん、キムラさん、の献身的なサポートw があった上で店舗のAZZLOの反映があった。特にキムラさんには最後の最後までサポートして頂いた。
更に元を辿れば、「今日はツェーマンで明日はゲーマン」 とか意味不明な会話してた、祖父である水谷暢宏 もそうだなw
当時まだ良くわからなかった事を今AZZLOに翻訳してくれる西麻布YELLOW立ち上げスタッフであるゲンシさんも共同体だ。
おばさんも含まれるがw こぉいう変な先輩達にAZZLOは育てられた のだw
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