2014/3/12発売。2014年3月の読書。
本屋で立ち読みしてみたところ、著者はAZZLOと同様の疑問を感じている雰囲気がしたので手に取った。
1:僕が入社する前、つまりCMを打てばモノが売れる時代は、クライアントの中でも宣伝部という部署は特別な花形でした。クリエーティブディレクターと宣伝部長がタッグを組んで、ブイブイ (古い表現ですみません) 言わせていた時代があったのでしょう。
でも、そんな時代が終わり、宣伝部も上におうかがいを立てなければCMの企画を決められない時代が来て、クリエーティブディレクターの絶対性もゆらぎはじめた、そのような時期に僕は入社しました。
⇒”CMを打てばモノが売れる時代” だったからというよりは、現在の企業組織の意思決定・認証システムの変化の影響の方が強いんじゃないかな。鶏卵なテーマだが。
2:「あのクライアントの担当者は分かってない」 とか、クリエーティブディレクターやクリエーティブスタッフからはグチが飛び出すわけですが、そういうことにも違和感がありました。
CMは、クライアントのもの。だったら、もっとクライアントといっしょにつくるべきなんじゃないか。「一週間、僕らクリエーターだけでうんうんうなってつくるより、一週間毎晩クライアントと飲みに行ったほうが、よっぽどクライアントの気持ちをカタチにできるんじゃないか」 当時、若造だった僕は、生意気にもそして当時の自分こそクライアントと話すなんてことはできなかったくせに、そんなことを考えていました。
⇒飲んだほうが早いのは事実 だが、ヒアリングすればする程 (要望を吸い出すだけであれば)
- ・「社長があのタレントを好きだと言っている。是非合わせたい。」
・「1/100の技術から1/1000の技術に進化したので、是非伝えたい。生活者の体験は何も変わらないんだけどもw」
・「プレキャン応募数をアップしたい。その後自発的に買ってくれる人は居なくても良い。今の担当者である私の労働履歴が綺麗にまとまればそれで良いです。」
ってな事になると思うんだよな。特にCMとか担当する広報部署の場合だと・・・。
人を動かすプロである代理店であるならば、自社賛美に走り勝ちな企業の背筋を正す必要もあると思うんだよな。
3:たぶんこれは肌感覚的なものかもしれませんが、「僕たちはクリエーターだから」 と鼻にかける雰囲気が苦手だったこともあります。
⇒基準値が低く、クリエーターという言葉をあまりに安く使ってる感じは確かにある。クリエイターってなんかかっこ良さげなんだろうが、その響きに憧れてるだけの強がりなのか、プライドなのかにもよるだろうな。
クリエイターという名刺の肩書だけで “大御所” になった気分になれる人はAZZLOも嫌いだが、”身を削って考える立場であるという正義感” からの「僕たちはクリエイターだから」 であれば、AZZLOの面倒臭さと同質なのでw むしろ好きかな。
今書いて一つ整理出来そうだが、プライドというのは依存ではなく使命だな。
4:プロの職人としての技術は大切かもしれない。でも、自分がわくわくするものは、磨きぬかれた技よりも、誰かが、今までの自分を 「越えようとする」 瞬間。一度もやったことのないバンドを、マンガ研究会のメンバーではじめようとする無謀さ。その 「超える」 一瞬にこそ、わくわくがある。
⇒赤子が始めて立って歩こうとする姿は誰しもぐっとくるもんな。年取っても本来は常にその連続な筈だが、あまり多くはないな。これはAZZLOにも言える事であるが・・・。
ちなみにWADAは、95年頃、多分DJ歴15年頃のWADAだと思うが、
- 「ボク、家にターンテーブル1台しかないのw だから練習出来ない・・・w」
と言っていた。要は常に現場でWADAの実験が続いていたのだ。にも関わらず曲の展開が同期するようなWADAの繋ぎは “実験全部成功!” って感じだったんだよなw 稀に “?” って時も無くはないが、「それ試みようとした!?www」 的なハードルの高さにあえてチャレンジしたWADAを生で見る事が出来たんだよな~。
そんなWADAを思春期に体感しまくったAZZLOだから、今だにWADAWADA言うんだよな~w
5:その頃の僕は、いらだっていました。でも、「満たされる」 ところからは何も生まれない。水が沸騰する前に、小さな気泡がぶくぶくと浮かんでくるように、いらだちは沸騰前の気配。いらだたなければ、何もはじまらない。そのいらだちは、自分の外側に向かっているようで、実は、自分の内面にも向かっている。
⇒コレだな。
いらだつとかって、まず気づかないと始まらないことであって、周りの事象から大概自分自身にも気付く事につながるからな。
組織の事を批評 (ほぼ批判) しているAZZLOだけに、AZZLO自らAZZLOのダサい点を挙げてみる のもまた必要だな。おいおいやろうw
6:どんな業界にも、どんな仕事にも、プラスの面とマイナスの面がある。自動車業界は、自らが、交通事故と環境汚染を生み出す存在だということを認識している。だからこそ、安全性の高い車、環境負荷の低い車の開発に本気になれる。
⇒実はトヨタのプリウスは、製造段階にかなりのCO2を出すらしく、車1台のライフを踏まえると、実はガソリン車と比較して、どっちもどっち、むしろプリウスの方が多くのCO2を出すって記事をどっかで見たな。
ま、見えない部分で “それ墓穴ほってる・・・” ってな矛盾はどこでも誰でもあるよなぁ。
AZZLOも忙しい時期でもエロ動画はダウンロードするからなw
7:広告の世界では、驚くほど、自己批判が少ない。(中略) 僕にはこの 「自己批判の少なさ」 は、広告の世界の停滞、そして、内面の空洞化を招いていると感じられる。批評もなければ、思想を語る人もいない。「無自覚」、この「無自覚さ」 は恣意的なものなのか。
⇒広告業界誌・団体会報誌みたいなんも、「広告には未来がある!」 っつって電通の広告事例を賞賛するママゴトばっかだもんなw
その点この本の著者は電通所属を明かしている上で、電通も含めて批判よりの批評含まれるこの本を出しているってのは、電通は許可している訳であって、電通はフェアな面もあると言えるな。
AZZLOが所属する組織では自己批判がまったくないな。「ウチダサいよね・・・」 という嘆きは少なくないがw
プレで負けても報告があるだけで、反省会もないし、「今回は負けたけど内容は良かったから、こんど別のクライアントに自主提案してみよう♪」 みたいな事もない。
逆に入社間もない人をちょっとした事故で処分したり、他者批判的な事象は強まってるな。組織内の事なんで自己批判とも言えなくもないが、範囲が組織ではなく個人間での批判だろうから、他者批判だろうな。
そして、横山氏の 「広告マンの8割はいらない! 」 的な広告業界批評
なんかにはビクビクするという、自分自身で気付かない人が多い感じするな。
ま、大卒者であればしょうがない んだが。
8:広告は恐るべき大きな力を持っています。お金さえかけてCMを大量出稿すれば、一週間後に、この日本の半分以上の人たちが、あるひとつのモノを知っている、という状況をつくることだってできます。でも、その力の恐ろしさについて、その力の大きさゆえの責任、そういう文脈で広告を語る人は広告の世界にはなかなかいません。
あるのは、表面的なCMのストーリーの 「面白さ」 や、話題が話題を呼ぶ仕掛けの 「ユニークさ」 についての 「褒め合い」 だけです。
- “金払えば満員の東京ドームでライブができる”
みたいな事だからな。そんな場で自己讃美の歌を歌うのであれば、ジャイアンリサイタルであるw
そして、知らせるだけでなく、よく言われるのが “伝える” だったりするわけだがw 人の行動を促すきっかけが必要であるはず。
高度成長期までは、右倣え前倣えで、「お隣がテレビ買ったからウチも買わなきゃ!」 みたいな連れション購買が起きていて、
- 1:ジャイアンリサイタルでもなんでも、無理くり聞かせる。
↓
2:ジャイアンの曲知らないと、仲間はずれな感じがしてくる。
↓
3:ほんとに必要かよくわかんないけど、取り急ぎ買っちゃう。
↓
1に戻る
というループが成立していたハズ。戦争という一体感と戦後復興という一体感によって、同質化が促進されてただろうし。
よって犯罪者を大量発生させてしまう可能性もなくはないのが広告であり、得に地上波CMだろう。凄い緊張感が本来はあるはずだと思うんだよな。
ラジオ(電波)とオーディオ技術はヒトラーの演説をその場に居ない人にも届けさせる為の開発だった側面があるし。今の広告って、ヒトラーに辿り着くのかもしれないなw あんま “w” 付けちゃいけないが。
故にリスク回避で何も起きない広告が大量発生してるんだろう。その点では楽天スーパーセールのCMとかは、超広告であり正しい広告なんだろうな。あくまで “お知らせ” なだけだから。
ソフトバンクのTカードポイント訴求のCMなんかは、その点を皮肉ってるなw
9:僕は、広告の問題のひとつとして、一五秒というCMのフォーマットの弊害を強く感じています。例えばネーミングの告知や、キャラクターの認知、歌モノといった、一五秒という単位がベストなものは一五秒でつくればいい。でも、多くのCMが、一五秒で伝わらない情報を無理やり一五秒の中に詰め込んで、結果、伝わらず、つまらないCMになってしまっている。(澤本嘉光)
⇒長ければ伝わるってわけでもないけどなw
よくCM作る人は、「ウェブは無制限だから」 という理由で20分以上のCMメイキング映像を商品サイトにアップしたがるが、関係者すら見てない再生回数しか叩かないんだよなw
WEBメインのプランナーであるAZZLOからすると、”15秒の映像” という制限が明確な分、注力するべき箇所が比較的明確になるから、楽でいいなと思うw
WEBだと15秒の映像作ったっていいし、2時間の映像だって別に予算がハマれば作れるし、映像無しの朗読でもいいし、テキストだけでもいいw
ハマる端末の選定もあるしな。PCじゃないと出来ない事があるし、スマホの方が適している事もある。CMプランニングが2次元だとしたらWEBは3次元だと思う。そんぐらい座標決めのパターンは死ぬほど多いのがWEBだと思う。
更に “アクセス解析” とか、アウトプットに紐付くもろもろもあるしなw アクセス報告だけならまだしも、「故に○△□を今後やった方が良いのではないでしょうか?」 という見解まで含めるのが解析なハズなので、そこまでやるの、マジ大変w
セクショナリズムで言うならば、本来アクセス解析って、マーケ・STPがやるべきなんだけどな。
10:テレビを見るのがあたりまえの時代は、それでも見てもらえたかもしれないけれど、今は、伝わらない、つまらないCMが流れた瞬間、もう見てもらえないんです。秒数が長いほうがきちんと伝わるし、面白いものがつくれるはず。広告会社と放送局がいっしょになって、一五秒CMから、三〇秒CM、六〇秒CMにシフトしていければいいと思う。(澤本嘉光)
⇒今のCMの内容のまま長くなった場合、「あ、またつまらないCMだ」 感が高まってより見られないのではないだろうか?15秒という細切れの単位だからこそ、まだ我慢出来るという事はありえると思う。
そして、60秒CMだったとしたら、単純に15秒の4倍の長さになるが、見る人が4倍になる訳じゃない。根本的にリーチ指標が広告なんで、わざわざ60秒CMやる理由が企業には無いと思う。
11:結局、「商品やサービスが最初にあり、あるメディアを使って、多くの人に伝える」 という従来の広告の方法論が変わっていかないと、いくら表現が変わっても、根本的には変わらないと思います。(永井一史)
⇒広告は “広く告知する” だから、別にいいんじゃないかな? 広告の方法論を変える的な事って、
- “人の生理現象を快適にするサービス”
という名目でTOTOが飲食業に手を出すようなもんで、すぐ排泄物を想起させられるから流行んないだろうしw
ビジネスとしては今の広告の手法では、今まで程の結果が伴わないだけで、広告は別に変わらなくても良いんじゃないかな。特にCMは 「オレは凄い!」 を言うだけのジャイアンツールな訳だし。
いつの時代も与沢翼みたいな人は居るw
※ “多くの金+付随する生活” という目的をちゃんと達成していた与沢翼は、それはそれで立派だとは思う。
ただし、広告という手段では企業の思惑は達成しにくくなってきている訳なんで、それでもまだ企業から広告代理店に相談があるというのは、まだ凄いポテンシャル (関係値) があると言えると思う。
広告代理店のミッションは何なんだろうか?広告枠を売る事だろうか?それは手段だろう。
広告代理店のミッションは
- “企業の思惑 (より儲けたい) を達成する為のお手伝い”
であろう。その為には時には広告が良い時もあるし、広告ではむしろ足を引っ張る時もあるだろう。
広告代理店が広告枠を売ろうとするのは、広告代理店側の押し付けであって、本当に企業の事を考えた結果ではない場合が少なくないだろう。マネタイズのアイデンティティを維持したいだけなケースと言える。
故に、企業も広告代理店には、”お得なメディアプラン” しか求めない傾向が強まるんだろう。どっちも幸せにならない感じだよな~。
12:従来の広告づくりが、企業からオリエンテーションを受けて、それに対して、ある規定演技のように答えを返すカタチだとしたら、クライアントの人といっしょになって膝をつきあわせて考える。五年目ぐらいからそういうスタイルに仕事を変えました。
具体的には、簡単です。クライアントの方に電話して、「ふたりでお会いして、いろいろ話ませんか?」 というだけです。
⇒AZZLOの 自主的に動く案件 も、こぉいう動きしたいんだよな。
2番で書いた事 と逆になるが、スーツ着てないAZZLOみたいなんが、ノコノコとやってきた方が、企業の本音が出てくる感じするんだよな。
売上げ関係ない立場のAZZLOだからこそ、必死にゴマ擦らないから、ちゃんと高みを得意先と目指せる感じする。
ちなみに “現代のスーツ” というのは
- 「私も貴方と同じ金の奴隷です。金欲しいです。仲間です。支払って下さい。儲けが必要なんで原価はかけません」
と無言で言ってるようなもんだと思う。
よってプロダクションさんとか媒体社さんとかがAZZLOに営業に来る際、”スーツだから信用しない” とは言わないが、私服の方が信頼するかな。
13:誰でも、心の底から、「つまらないこと」 「平凡なこと」 「今日明日の売りにつながること」 だけをやりたいと思っているわけじゃない。
誰でも、「新しいこと」 「面白いこと」 「社会にいい影響を及ぼすこと」 をやりたいと心の底では思っている。まず、そういう 「ほんとうの気持ち」 をお互いに吐露することからしか始まらない。さらにいえば、最初に自分から裸にならなくちゃいけない。
⇒企業のWEB担当者は、典型的な処理班的な立場が少なくないが、彼らはそれが楽しいとは思っておらず、実は話題になっているコミュニケーションみたいなことがやりたいと思っている事もある。
しかし、企業の面子やら代理店側の面目などを意識して、代理店は何でもない提案を続けるから、企業が代理店に期待するのは企画ではなく、安いメディアプランでしかなくなってきてるよな。
とか言われてる訳だし。
故に早く代理店のスタッフは解雇して、最適なメディアプランを自動生成するシステムを構築して、補足要員として日本語カタコトな外国人労働者で回すべきだと思う。
14:最高に面白いCMがあるとします。でも、商品とはまったく関係がない内容だったとしたら。あるいは、まったく関係ないわけじゃないけれど、ほぼこじつけに近いものだったとしたら。そういうCMの 「面白さ」 にどんな意味があるのでしょうか。
⇒どの定規で “関係がある” と判断するかだよな。タレントが出てきて 「旨い!!!」 を連呼するビールのCMとか、ビールのCMにはなれど、その商品の訴求にはなってない場合がほとんどだし。
関係ない逆説的な訴求の方が生活者の能動的な考察を促すので、関係があるとも言えるしな。
15:面白いCMを打つことで企業が得られるイメージを、強いて言語化するなら、「面白いCMの企画にOKを出せる度量の大きな企業」 というイメージですが、そんなイメージに価値はあるのでしょうか。
⇒あると思う。
成功案件 では
16:「いい企業だ、いい商品だ」 と思ってほしければ、「ほんとうにいいこと」 をするべきなんだ、と。まず、「コト」 を起こす、という発想です。企業が 「伝える」 ことよりも 「行動する」 ことのほうが信じられる。だって、それは 「ほんとうにしている」 ことだから。
⇒元々 “いいこと” が商品だったりサービスだったりする場合はどうすんのかなw ボランティア団体とか・・・。
あと端から見たら、いいことでもないけど、やってる当人たちは真剣にいいことと思ってる場合も少なくないんだよな。
とは言えAZZLOも
ってな感じでプレゼンしたりするが。
17:フィリップ・コトラーの 『マーケティング3.0』 によれば、これからの企業は、企業自身も 「人格を持った一個人」 として、「人格を持った一個人」 である顧客に向き合い、ともに成長していかなければならない、とされています。
⇒そんな感じで
こんな感じになってきてるもんな。
しかし、日本人は個を否定され集団 (奴隷) として生きる教育がある感じだし、当然日本企業もそんな感じで、「FACEBOOKに所属企業名を書いちゃダメ!」 という号令があったりするので、難しいテーマだな。
TWITTERアカウント作っても、書くことないし、代理店に任せっきりで、お知らせツールにしかなってないしなw
18:新・マーケティング行動モデル MASUG
Meet 企業の活動に出会う
↓
Act 企業の活動に参加し行動をともにする
↓
Share 自分ごととしてシェアする
↓
Unite 絆を確認し強まる
↓
Glow ともに育っていく「企業と消費者が行動をともにすること」 で、企業と消費者が、まるで人格を持った一個人と一個人のように絆を結び、自分ごととしてシェアしていく。そして、「行動をともにすること」 で、 「ともに育っていく」。そういう視点の新しいマーケティング行動モデルです。
⇒何をもってして参加したくなるかがひとつハードルだよな。多くの場合
- 「うちのような大企業であれば、生活者は賛美だけでなくタダで参加もしてくれる」
という上から目線が強くなるだけで、共生ではなく強制になりがち。
まず “企業の活動に出会う” というきっかけ・場が基本的には広告でしかないしなぁ。
しかしまぁ、このMASUGモデルって、AZZLOが知っているクラブと同じだな。
更にAZZLOが大好きな
でもあるな。
19:僕は、大きくぶちあげたものはすぐ消費されると思ってるところがあるんです。どんな力でもいいから使って、人の心を無理矢理グイッと動かしたとしても、その時期が終わっちゃったらまたやっぱりサラッと戻っちゃう気がする。僕が目指しているのは、もっと漢方的なもの。じわじわでもいいから確実に変わっていくほうがよくて。(佐藤尚之)
⇒コレだな。
ま、元に戻っちゃうから、金を回す理由が出来るし、完治させたら儲からない医者みたいなもんだからなぁw
- 「『この企画はメディア要らず、すなわち代理店要らずへの布石になる企画です!』 ってなプレゼンになるかなぁ?」
とか言うと、営業の表情が強張るもんな。AZZLOが言わなくても企業がビッグデータマーケティングによって、代理店のマーケティングがいかにテキトーか実感するのは時間の問題なんだが・・・。
20:広めるって 「手段」 でしょう。手段が目的になっていることが多い気がするんだよね。「何を広めるか」 という目的によっては急激な手段をとってはダメなときもある。マスで大声で伝えないほうが良いときもある。広めたい、みたいな気持ちが、何を広めるかよりも先にきてしまう場合がマスマーケティングでは多いよね。広めることが前提になりすぎている。(佐藤尚之)
⇒その 「広める」 が単純に認知だけだったりするからなw “生活者の行動を広める” ではない事が大半w
21:人が納得するのって、やっぱり、それを伝えてくれた人の人間性に対してだったりすると思う。お前が言うなら信じてやろう、みたいな。テレビが 「信頼できるいい人」 だった時代は長かったけど、いまや市民もそこまでナイーブではない。それに結局、信頼できる友人の口に、マスメディア、つまりマスマーケティングは勝てないと思う。(佐藤尚之)
⇒この指摘程ではないにせよ、”CMやってるぐらいならきっと誰かが買うだろう。オレが貢献しなくても別にいいや” というのは暗黙知的に発生しやすいよな。
22:つくったのは、みんながつくることに参加できる、そういう 「仕組み」 です。でも、自分たちで広告をつくってしまうよりも、圧倒的に、時間と手間と体力をかけています。
クリエーターは、自分で表現したい欲求が強い。だから、できれば、すべて自分の手でつくりあげたいし、コントロールしたい。僕にも、心のどこかにそういう気持ちが凝り固まっています。
⇒AZZLOが2009年に書いた図によると
この “馴れ合い広場” が仕組みなんだよなぁ。
AZZLOは可能な限りこの広場作りの企画を目指すのだが、
- 「ジャイアン出来れば良い!その上で称賛してもらいたい!!!」
って案件が相変わらずだよなwww だったら少なくても拍手喝采されるクオリティーとか必要なんだよなぁ。金でブロガーに書かせたりとかって、どんだけ自分に自信が無いんだろって感じするw
合コンで同姓の友達に賛美説明をしてもらう為に事前に金渡してる的な事だと思う。
23:広告の目標が、「その企業やその商品が社会にどう受け入れられるかを設計する」 ことだとしたら、クライアント自身のありかたをつくりあげていくことこそが本質的なのではないか、とだんだん思うようになりました。
⇒残念ながら広告の目標はそぉいう事ではないがw とは言え目的を達成する上ではそぉいう事が必要だと思う。
- “モテたい男子に対するスタイリスト” (服・髪型)
がせいぜい広告代理店がやれる範囲だろう。どんな職業につくかまでは余計なお世話であるw
しぐさや喋り方等の教育も可能だが、そこまでやると 「そこまで俺モテなくないもん!!!」 と企業が反発するだろうなw
24:創業者の志に近い気持ちが、実は、誰でもその企業に入社するとき、新入社員のときにはあるんじゃないかと思っています。就職活動のとき、その会社になぜ行きたいのか、と真剣に考えた経験が誰にでもありますよね。面接のとき、「お金を稼ぎたいから」 という志望動機を言う人は一人もいなくて、「その会社に入って、人や会社のためにこんなことがしたい」 ということを熱く話している。初心って、そこなんじゃないかなと。創業者と新入社員の気持ちはとても近いと思うんです。
⇒そんな面白い新入社員はそうそう居ないよな。大概大企業を目指す理由は “安定・金” だったりする訳だから。形だけではいくらでも言う若い子はいるが。
とは言え、”自分の行動が自分の手取り以外の事にも影響があるのか?可能であればポジティブな影響が発生したらいいなぁ” というのはあるとは思う。
25:僕にできることは、楽しい空気をつくることです。自由にアイデアを出していいんだ、と思える空気。「組織として」 ではなく 「一個人として」 自分の会社でこういうことができればいいのに、という夢を語ってもらうことです。
⇒AZZLOはコレはある程度出来てしまっていて、プロダクションさんがエロ施策ばかり考えてしまうようになってしまったんだよな・・・w
26:「一個人」 として話せるような空気ができあがると、そういう夢や面白い企画が出てくる。いや、その社員が 「これ絶対僕の部署でやりますよ!」 と熱くなっている姿を見ると、その企画がたとえ面白くない企画でもいい、とさえ思うように僕自身も変化していきました。面白いとか、面白くないとかは、そんなに重要じゃない。
その社員にとって、僕がアドバイスしたアイデアを実行するよりも、その社員自身が思いついたアイデアをカタチにするほうが絶対やる気が出る。
広告代理店が 「代理」 しないほうがいいことがあるんじゃないか。その企業の人自身が、自分の汗と涙を込めて、たとえいびつな形でもつくりあげたほうがいいことがあるんじゃないか。
⇒広告主が代理店にそう思ってくれたら良いんだけどな。
そして、AZZLOはプロダクションさんには、なるべくそうなるようにしたいと思う。AZZLOは方向を営業と決めるが、その上での座標はプロダクションさんに決めて欲しい。
仮にこのプレで勝ってしまうと大変な事(リソース的に)になるので、プレメンバーとは別メンバーを立てる?とプロダクション内で話があった様なのだが、「なんで?キツくたってこの案件はやります!」とプレメンバーが言ってくれているらしい。
「それぞれのメンバーが自発的にアイデアを出してきた。こんなモチベーションを持てる案件なんてそうそう無い!」
自画自賛だがw こぉいう事を毎回体感したいなと思う。
27:山崎亮さんが言っていた言葉として印象的だったのは、町のコミュニティーデザインをしているとき、「僕がいなくても、町がいい方向に回っていくような状態をつくりたい」 と考えて動いていると。
さとなおさんも、クライアントが患者だとしたら、いつか、医者の手を離れる日を迎えるために考えている。
⇒19番に書いた事ままだなw
マニアックラブ等のプロデューサーだった、豊崎さんは
- 「作った後に店に行くと、よそ者扱いされる・・・。ちょっと寂しいねw」
と言っていたが、上手く回っていると余計そうなるんだろうなぁ。でも仕事としては成功だろう。
そして、上司の部下離れも同様に言えるよな。
28:クライアントが、いつか、自分たちがいなくても、社員一人ひとりがプロジェクトやアクションを生み出し、さらに体温のあるいいコミュニケーションをつくりだせていけるようにする。そういうゴール設定を一度してみると何かが変わるかもしれない。
「そうしたら広告会社は要らなくなっちゃうじゃん!」 という声も聞こえる気がするけれど、でも、「患者を治したら、医者の仕事がなくなっちゃうじゃん!」 という医者はいないし、事実、医者の仕事はずっとあるわけだから、大丈夫なのです、きっと本当は。
⇒「俺ら要らなくなっちゃうじゃん」 の人は、得意先のメリットは二の次で、てめぇが食い繋ぐ事が大事なんだろうな。それだとてめぇは食えなくなるから、AZZLOはおせっかいにも危機感持ってるんだが・・・w
29:「ラブレターは代筆よりもたとえ下手でもその人が書いたもののほうがいい」。
さとなおさんのこの言葉は、ずっと僕が感じていた、広告づくりへの違和感を表わしていました。
⇒ 代筆だけならまだしも、「内容もイイ感じでお願い♪」 ってなのもあるしなw ま、プロだからそぉいう要望は叶えられるが、上手くいっても、せいぜい一晩ヤッたら終わりなんだよなw
30:たぶん、自分は・・・広告の教科書からは外れちゃうかもしれないけれど、企業のメッセージに重ねて、自分自身のメッセージを何らかのカタチで発信して、その効果を確かめたいんだろうなと思います。(箭内道彦)
⇒AZZLOは
を言いたいが為に
をしているのが、AZZLOの仕事だと思ってるからなぁw
真面目に言うと
- 新しい体験を提供すれば、受けとった人がまた新しい体験を作り始めるハズ。何故ならその心の振れ幅を自覚したら、中毒になるし、人にオススメしたくなるもんだから。新しい体験が無く全てが過去の歴史だったら、この世から創造が無くなってしまう。だから全員が全員の踏み台として機能して、見えないバトンは渡していかなければならない。
不幸な快感は生きる実感をもたらす。
ってな感じだな。
31:僕の興味が、他のひとの興味になっていく感覚です。
個人から生まれた新しい価値観の理解が深まっていく。そうした学びの時期をへて、あるとき、その価値観がクローズドな世界を飛び越えて浸透し、メジャーになる。(松倉早星)
⇒もの凄く当たり前過ぎな事だが、あえて書かれると新鮮だなw
32:僕は、学生時代、教授に言われた言葉の中に、「People as media (人がメディアとなる)」 という言葉があって。あなたたちが生きる世界では、新聞、TVではなく、個人がメディアと同等の力を持つ時代が来るえしょう、と。(松倉早星)
⇒AZZLOは “おしゃべりのネタがメディア” だと思うな。
よっていわゆるメディアって言ってるヤツも時にはメディアである事もあるが、”金で買える媒体” の全てがメディアとは限らないな。その媒体を受け取った人の行動次第だし。ま、すなわち “人がメディア” とも言えるな。人だから事実だけでなく解釈も含まれている、すなわちコンテンツとも言える訳だし。
結局、今までメディアって言ってたのって、電波やら紙やら、人じゃないインフラ手段として捉えてたから、なんかおかしい事になってんだろうな。
33:僕が思うのは・・・「自分のために」 がんばる人は限界がくる。「お金のために」 がんばる人は限界がくる。もう 「お金はいいや」 って思うときがくるかもしれない。(箭内道彦)
⇒「人のために」 的な事も巡り巡って 「自分のために」 だったりするからな。「アタシってイイ人♪」 的なナルシズム、結局自尊心の担保だったりするしw
比較的枯れないモチベーションと言えそうだが、人に裏切られたりして枯れたりもするw
「お金のために」 は、大概他に強みがない人のモチベーションで、金が減る事が人の価値が減る感じで恐れるので、ビクビクして生きていかなきゃなんないからな~。
「自分も含めてみんなのために」 が良いんじゃないかな?
34:グラミン銀行をつくって、ノーベル平和賞に輝いたムハマド・ユヌスの言葉にこんな言葉があるんです。
「すべての人間には、利己的な面と無私献身的な部分がある。私たちは、利己的な面だけで資本主義をつくってしまった。そこに無私の部分を持ち込むことで、資本主義ははじめて完成するんだ」
といった内容で、僕は、はっとさせられた。(石川淳哉)
⇒消極的に言うとセーフティネット的な事だったりするかな。ポジティブに弱者認定するというか・・・w
利己的な資本主義が成立するにも、要は勝者を感じられる比較対象が必要だからな。
35:「広く告げる」 から、「告げて、広げる」。
伝える価値あるものが広がる、ということになっていかないといけない。それを仕組み的にもつくるべきだと考えている。(石川淳哉)
⇒今は適度にそうなってんじゃないかな。そして難しいのは価値は人それぞれなんだよな。よってマスとして広がるという事はそもそもあり得ない事かもしれない。野々村議員ほどでない限りw
36:広告が、主体的なものではなく、企業やNPOなどのクライアントからの受注があって初めて成り立つものだとするなら、結局、これからの広告のすべきことも、「クライアント次第」 になってしまう。広告について語るべきことは、そのクライアントの意思をどう具現化するか、という 「技法」 の話に終始してしまう。
⇒現実そうだな。ジャイアンリサイタルの会場設営・チラシ巻きを代理店がお手伝いするだけで、曲の中身はジャイアン様次第だからな。
11番で書いた
という点では貢献出来てるかもしれないが、短期的過ぎるんだよな。ま、短期的だから都度相談と発注が起きるんだがw
37:でも、広告という技術が果たせる仕事の中に、「自らが主体となって、社会をよくするプロジェクトをゼロからつくりだせる」 という仕事が入っていてもいいんじゃないか。
⇒入っていていいと思う。しかし、AZZLOはその正義には共感するが、誰が何のメリットでやるかな?
38:広告に携わる人間なら誰でも、自分たちの職業が社会にいい影響を及ぼすものでありたい、そう信じたい、と願う気持ちがあって、でも今通常のモノを売る広告の制作ではそういうことが実感しにくくなっている。世の中からも、広告は社会にいいもの、と思われにくくなっている。
だからこそ、広告というものの力の可能性を主体的に実証することに、僕らは、切迫感を持って取り組むべきだし、それを果たすことは、同時に、広告に関わる人間にとって、新しい誇りにもなるはずだと思うのです。
⇒広告とかメディアの力みたいなのは、フジテレビの韓流推しで明確になった感じがするので、実証は出来てるんじゃないかな?w
ま、そぉいう事ではなく、”もっとイイ感じの方向で可能性を実証しようよ♪” という話なんだと思うがw
金とか権力的な事じゃなくて、情緒的なモチベーションがないと、代理店は “銀行に落ちて商社に落ちたヤツが渋々甘んじる業種” という事になるよな。既にある程度なってるがw
39:ところで、広告づくりに関わる人たちの中には、「思想」 という言葉が出てきた瞬間、「ちょっと苦手だな」、「あれ、この本って、そういう方向に行く本なのかな、だったら読むのやめようかな」 と感じた人もいるかもしれません。
僕がずっと不満に思っていたのだが、広告業界の人は、思想的な話が苦手だということ。(いや、そうじゃない人もいるかもしれない。だから、これは僕の偏見かもしれません。でも、気にせず、話を進めます。)
僕が、熱く 「世界はこうあるべきだ」 というようなことを語ると、たいていの広告関係者は苦笑いを浮かべるわけです。「まあ、そういう考え方もあるけどさ」 と。
⇒思想って志に近いと思うが、そぉいう人の感情がない労働が広告業界なんであれば、やはり人間は要らないよな。CMもテンプレがあって入力すれば完成するジェネレーターで済むんだよな。
AZZLOも某菓子メーカーに
- 「このお菓子を親子で食べれる事を平和の象徴にしたい!これを食べれる環境に世界が憧れるんです!」
と話したら
- 「あ・・・AZZLOさん熱いですね・・・」
と、どん引きされたもんなぁw 菓子メーカーの人が自社商品に対して他人事な感じしたなぁ・・・。
40:大事なのは、「意識」 すること。「自覚」 すること。
⇒すなわちAZZLOの言うところの “気づく事” って事だよな。
41:そうした葛藤を、抱え続けること、伝えつづけることが大事。今の日本は、なんでも、二択の時代になっちゃっている。二択じゃない答えを探そうとすると、「黙っている」 という道しかない。
ほんとうに目を向けなければいけないのは、そのどちらの選択肢にも、プラスとマイナスの二面性がある、という部分だと思うんですよね。
そういう二面性をきちんと伝える人がいない。白か黒かで決めつけるのではなく、異なる意見の間にある問題をちゃんと顕在化し、橋渡しができる人が、今必要なんじゃないかと思うんです。(箭内道彦)
「知能」の高い人物が「答えの無い問い」に直面すると、問題を単純化し、二分法的に考え、心が楽になる選択肢を選び、その選択を正当化する理屈を見つけ出すのです
物事は全て立体的であって、どんな意見もある側面の正解だからな。無知や教養の無さによるハズした意見・行動はあるが、それは “無知・教養の無さを踏まえた上での正解” と言えるだろうしw
- 「オレは朝遅刻しないから仕事しなくて良い。AZZLOは朝来ないから仕事しなくてはならない」
という名言があるが、これは二分法的だよな。AZZLOはそれに習って
- 「仕事してるから朝来ません」
となっているがw (朝行かない理由はそれだけじゃない がw)
42:「君と僕の違うところを尊敬し合いたい 僕と君の同じところを大切にしていたい」 (箭内道彦)
⇒そぉいう考えがチームだもんなぁ。しかしこの前提がない人、すなわち “違う君” は尊敬しようがないよな・・・w
43:エマニュエル・レヴィナスという哲学者がいて、「一〇〇人が正しいと思っていたとしても、そうではない考えの人が現れたときに、理解はできないけれど認める、というのが論理だ」 という内容のことを言ってるんですよね。
⇒セクハラ・パワハラが日常的な人は認められるかなぁ。
極力 “何故その人は自分の行動に疑問を持たないのかしら?” という考察はするが、「お前は育ちが悪い!」 とか部下に言う上司 とか、やっぱ分かんないな。
44:自分の正しさを証明するために、相手を否定してしまうと、そこでコミュニケーションが止まってしまう。
自分の気持ちには正直に、だけど、つながりを断ち切らず、前に、のらりくらりすごい速いスピードで進んでいく、ということが必要なんだろうなあと思います。(箭内道彦)
⇒これが上手い人ってたまに居るよな。AZZLOはそこまで器用じゃないが、よりおっさんになっていくAZZLOとしては、やれるようになりたいと思うな。
45:人は本来的に、自分の 「理解しえぬもの」 に、未来や可能性を感じるようにできている、「理解しえぬもの」 への渇望がある、と言っているのです。
⇒コレだな。
「どんな気に入ったエロビデオでも、一生それでヌケないよね?そしたらブスのでも新作見たくなるよな?人は新しい刺激を追いかけるもんだから、時代にあった勃起するもの、要は心躍るものを提供しなきゃいけない。」
そして、こんだけ批評 (ほぼ批判) している組織を離れないAZZLOは、組織の事を “理解しえぬもの” と思ってるからだなw ほんと考察するきっかけを凄い頂いちゃえるもんな。
46:情報が広がるためには、その情報がターゲットの欲望の芯をとらえてないといけない。できれば、本人さえまだ気づいていない、言語化できていない欲望を刺激して、「そう、それが欲しかった、それがやりたかった」 と気づかせることが大事だと思うんです。
人ってね、実は自分の欲望がわからないんです。
本当は自分が何をしたいかって、ほとんどの人がわからない。
人間は自分の欲望の内一〇パーセントくらいしか言語化できない。
⇒ヘンリー・フォードの
- 「もし顧客に何が欲しいかと尋ねていたなら、彼らは速い馬が欲しいと答えていただろう」
だよな。
故に企業のオリエンがある時点で、既にうまくいかないのかもしれないよなw 良くも悪くも論理化された要望だったりするので、外すと減点になって、代理店からするとプレで勝てない、すなわち金にならないし。
ちなみにAZZLOの欲望は何だろうな。物欲は機材とか比較的強い方だと思っているが、金で解決出来る買い物はある程度揃ってると思うからな~。椅子もアーロンチェアだし。
金があれば、フラっと旅行行ったり、ホテル泊まったり、高い飯食ったり、風俗行ったりとかもするかもしれないが、常にある欲求でもないしなぁ。
結局、WADAさんに 「TAKA-AKI DJ上手い」と言われた時点で終わっちゃってる からなぁw
ま、その上でまだ生きてるAZZLOは
- 「AZZLOさんに 『凄い!』 言われたのでもう終わっちゃいました・・・」
という不幸な人を誘発出来るAZZLOに成長するしか道がないんだよな。欲求っつぅか使命なんだけどもw
47:ビッグデータの時代がくると、広告会社はダメになっちゃうんじゃないかって最近言われるんですけど、あまりそういうことは思わないんです。
もちろんビッグデータは楽しくて、Googleの人が二一世紀は統計家が世界一セクシーな仕事になるっていうのも分かる。
購買行動のデータが溜まっていけば、あ、このビールを買っている人が、このレンタルビデオではアクションビデオを見てるんだとか、このアイスを食べている人は、フランスの映画が好きなんだみたいな、いま、自分たちが発見できない欲望の相関関係が発見できるとは思うんですけど、データは結局言語化されているものの集積でしかない。
データは、一生世の中においつかない。世の中とデータの隙間で、新しく起こってくる人間の欲望を発見するのが広告の醍醐味。
⇒その通りだが、”新しく起こってくる人間の欲望を発見する” にあたっての欲望の顕在化 (きっかけの提示) は、既に広告では行われていないだろうと思う。
そして、顕在化している欲望を発見するにはビッグデータは非常に有効な手段だ。今後ビッグデータが無ければ代理店のいわゆる “前段” は成立しなくなると思う。
よって醍醐味ではあるが、それはビジネスにはならないと思うな。
48:広告なんて、「装置」 にすぎない。たとえば、ある車のメーカーが車をつくる。その車の売り上げの一部が広告費になる。制作費や媒体費に還元して、広告の制作スタッフがお弁当買ったり、コンビニでおいしいお菓子を買ったりする。もらった給料でまたその車を買う・・・という、お金をぐるぐる回していく装置。だからそこに、面白いとか、いいこととか、世の中のためになることとか、そういう個人の主張がないと、広告は 「社会に存在している」 だけのものになってしまって、まったく意味がないと思うんです。(中村洋基)
⇒既に広告業務って、”労働履歴” “経済の為のエビデンス” にしかなってないと思うwww “なってしまう” のではなく “既になってる” と思うなw 少なくてもAZZLOが所属する組織においてはw
49:日本は、多くの人が、今あるいろいろな問題に対して、「こういうもんだ」 みたいなことをとりあえず受け入れるようになっちゃってるんじゃないかと。国が決めたことについても、「まぁ、しょうがないか」 と。「この国はいつのまにそうなっている」 という感覚を持っている人ばかりのような気がする。(中村洋基)
⇒それは戦争に負けたという事と、GHQによる日本人の刺抜きが行われたからだと思う。
ってな事だと思うんだよな。
50:「ひとりの人間としてつながれる」 場が、世の中にはもちろん必要ですが、企業の中にもあるべきだと思っています。
そこで、二〇一三年、「for good」 をテーマにした電通社員限定の非公開の私的な組織をfacebook上で立ち上げました。上下関係も代表もいないフラットな組織です。あ!でも、非公開組織なのに、ここに書いちゃだめか。でも、その組織に入っている人が、じわじわ共感を呼んで増え続けて、全社員の半分ぐらいまで行けば、会社を変える大きな力になるかもしれない、なんて静かに企んでいます。
⇒AZZLOも “しくみ作り実行隊” ってのを立ち上げて、一晩の飲みのネタにしかならなかったがw その一晩は凄く速くて濃ゆいディスカッションが生まれたしなぁ。
しかしまぁ、電通の半分もの人数が参加するコミュニティーって、既にAZZLOが所属する組織よりも人数多いので、上手くいかないだろうなぁw
かといって分科会的に小分けにすると、ヒエラルキー的な臭いがしてきて、”待つだけで自ら動かない人” が出てくるだろうしなぁ。
“人の集い” ってセクションの人数ではなく、独立したグループの人数が大事だなと凄く思うな。人を選定・追加する時も、”その人に何を求めるか” というのが明確であった方がいいと思う。
- 「ヒエラルキーに準じた組織ではないので、ざっくばらんにやりましょう♪」
というのでは、空気読んだ上での “なんとなく同調” が達成出来るだけだったりするからな。
51:人の精神は、肉体という孤独な船の甲板の上にロープでくくりつけられているようなものだ。
そして、その船は、ずっと海をさまよっている。
そんなとき、水平性の向こうに、小さな別の船が見える。
それは甲板から決して離すことができない精神によって、唯一の希望である。
自己にとって、他者とはそういう存在なのだ。
⇒ま、自信の肉体と精神の紐付けは常に葛藤するから、その自身の中では理解している感じだもんな。
でもとりあえずAZZLOは、AZZLO以外の人も常に葛藤していると思うな。むしろその点AZZLOはあんま葛藤してない方な感じするw
この話で言うと、死ぬってのはどぉいう扱いになるのかな?沈没って事なんかなw
同意見解がありつつも、反対見解が多い読書感想文になった感じするな。
- 「そんな事出来るのかね?」
的なおっさんぽい感じするな~w そぉいうつもりじゃないんだけども、並河氏と同様、このAZZLOの感想文も、広告業界で葛藤する一人のドキュメンタリーだな。
ま、その上でAZZLOは
- 「自分なりにやってみま~す♪」
ってな感じで、一応動こうという足掻きはしてるし、企画書は出来てる箇所はあるので、そろそろ企業に提案に行こうとしてるんだが。
おそらく並河氏もAZZLOも、広告業界に幻滅してるのは同じで
- “ジャイアンコンサートでは企業の目的は達成出来ない”
という見解は同じなんだろう。
その上で並河氏は、
- “広告という手法の中で現代にアジャストしたコミュニケーションを試みる人”
で、AZZLOは
- “広告業務の知見を活かして、広告するかしないかはどっちでも良くて、企業が儲けるお手伝いをしちゃおう♪” (というのは建前で、もちろん企業には儲けて頂く必要があるが、”企業の儲けを担保した上でAZZLOの正義を貫こう♪”)
って違いかな。プロセスが違うが、結果同じ事やってる可能性もあるよなw
LEAVE A REPLY