-読書感想- 構造と力―記号論を超えて / 浅田 彰

-読書感想- 構造と力―記号論を超えて / 浅田 彰

1983/9/10発売。2015年9月の読書。

2014年の年末に再放送されていた 戦後ニッポンサブカルチャー が非常に面白かったのだが、その中でも

「ある種の戯れですよね。何と戯れたかというと資本主義なんですよ。」

に、超絶AZZLOのアイデンティティを自覚したのだが2015-1-02-02-38-55.jpg更に「シラケつつノル」 という浅田彰の言葉が、本質を欠いた広告業なんかに身を置く今のAZZLOを表していると感じた。 そもそもAZZLOの世代は、「大人になったら・・・」 のベースが80年代で LOST TOKIO 世代とも言える訳で、その最中に話題になったらしいこの本は読んでおくべき本だと思い、amazonでポチった。


 

1:そもそも、みんな一体いつから、こんなにも学生らしく各々の分に応じて勉強するようになったのか。特に、目下の目的のために必要な勉強だけを要領よくやり終えると足早に 「私生活」 へと向かう現役の大学生たち。彼らは大学入試だけを目的として何年間も空虚な勉強を強いられてきたはずだ。それなのに、まだ飽きないのだろうか。一体どんな風にして、これほど覚めた賢明な処世術を身につけたというのだろう。

www。発売から32年経った今も日本は同じような事が議題になってるw

2:同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケる、これである。

たまにお互いに双方の境位を持つに至ってチームになる事もある。よってむしろ最初は境位があった方が深い関係が作れると思う。不良が喧嘩後に仲間になるみたいなw “シラケててもノれる” という事は、やわらかく今風に言うと、多様性というバズワードにも通じると思う。

3:そもそも、あたなは目的そのものにシラケているはずだ。かといって、知を目的として偶像化するほど熱くなることもない。そこで、あなたは 「どうせ何にもならないだろうけれど」 と言いつつ知と戯れることができる。そして、逆説的にも、そのことこそが知との真に深いかかわりあいを可能にする条件なのだ。

www。 “生活者不在のジャイアンオナニー施策” をコンペで勝ったところで、何の感動もない しなぁ。まぁ近年そぉいう企画には絡んでないし自らする事もないが。 そして、誰が見てるとも思ってない (の割にはアクセス数があるがw) ココで読書感想文を書くのは “知との戯れ” と言えそうだ。

4:熱くなるのはとうに流行おくれ、かといって、すべてにシラケきったダンディズムを気取るのにも飽き果てたこの時代にあって、他にどんな選択がありうるだろうか。

あぁ・・・。まぁ時代は繰り返すな。 近年その “他の選択” が初音ミクだったと思うな。 そして 流行とは、そんな四面楚歌な状態を救済するもの であると言えるな。

5:このプログラムを一応こなしたと信ずるとき、あなたは安んじてそのピラミッドの頂点に腰を据えることができる。知の世界の一部分を整序してわがものとしえた、というわけだ。けれども、そこがピラミッドの最終的な頂点である保証がどこにあるというのだろう? ふと上を見上げたとき、自分がより上位のピラミッドの一部として完全に包摂されていることに気付いたとしたら?

www。高学歴者の結末がコレだなw 故に自己防御として虚栄に走ったりするんだろう。 AZZLOの生き様も、ありがちっちゃありがちなのだがw AZZLO側もプログラムとして考えた場合どうだろう?

AZZLOの知は、特にレベル設定・ものさしがない、よってピラミッド概念がないので、自分がどの段階に居るのか全くわからないwこぉいう難しい本も読むが、大概の知は 「お!このAV女優カワイイ!」 からのAV女優名だからなw そのAV女優名知識力をピラミッド構造で考えると、プロの方々には当然敵わない訳で、いずれにしても目指すものでも腰を据える対象でもないなw

6:「女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである」 とニーチェは述べている。言い換えれば 《女》 は、奪われるがままになり、時に奪回に立ち上がる存在ではなく、与えることによって奪う存在なのである。「女の本質的賓概念である贈与は、自らを与える=身を委ねる / 自らに対して与える = 身を委ねるふりをする、与える / 奪い取る、奪い取らせる / わがものにする、という決定不能な同様のなかに現れていたものであるが、それには毒薬の価値もしくは費用 = 犠牲 がある、パルコマンの費用=犠牲。」

おっぱいとお尻には 《男》 はひれ伏すからな。 2015-1-03-01-43-05.jpg2015-1-03-01-42-47.jpgアダム・イブ論からしても、「こいつリンゴ食いました! 超悪いヤツです!」 と、アダムは神に言えないぐらいだしな。

7:二元構造を踏まえて抑圧への反乱を説く女たち、いわば男になろうとする女たちほど、批判されるべきものはない。これがニーチェを反フェミニズムへの駆り立て、ニーチェが女性蔑視の思想家であるかのような錯覚を生んできた。しかし、「実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するものである」

せっかく、おっぱいとお尻があるのに、わざわざ男を目指す・・・というか張り合おうとするのは、最高にアホだよな。 その手の女は大概容姿がイマイチだしな。・・・顔もスタイルもイマイチでも、バックだったら美しいから、なんとかなると思うんだけどな。 ただし、現代で男性的とされている領域を女性も取り組みたい場合に、否定してはいけないと思うが、安部の “女性活用” とか “一億層活躍” とかに見られるように、周辺の洗脳がコアにある事は女性自身疑った方が良いと思う。

8:《女》 とは、外見の美しさと軽やかな決定不能性によって、「物自体の—-決定可能な—-真理のエコノミー、あるいは、決定者としての去勢のディスクール (プロかアンチか) の閉域を、つまりは、「真理 – 去勢の罠」 を、やすやすと摺り抜けるものではなかったか?

なんだかよくわからない言い回しだがw 《女》 は自分の強みを自ら放棄する事による矛盾と焦りから、ヒステリックになっているケースは少なく無いと思う。

9:「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど敬遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。—-女の最大の技巧は嘘をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれは女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆ど馬鹿々々しいものに見えて来るのだ。」 ニーチェはこう述べている。

www。確かに面倒臭い女の方が面白かったりはする。疲れる (刺激とも言う) からAZZLOは付き合う気はないし、その麻薬を必要とする機会が平均からすると非常に少ないと思う。

10:近代社会は、いわば世俗化された持続的ポトラッチという様相を呈する。そこでは、全員が他人を出し抜いて一歩でも先へ進むことだけを願っており、ある意味で、カオスにおける相互暴力のミメティスムが再現されているのである。

まぁそうだな。資本 (貨幣) 主義の成長要因とかオリンピックもミメティスムが源だよなw

11:近代社会は、祝祭の興奮を知らない。そしてまた、《外》 なるものとしての異質な象徴秩序と出会っても、衝撃を受ける気配すら見せないのである。リジットな象徴秩序をもたない近代社会は恐るべきフレキシビリティを備えており、いかに異質なものであろうと、こともなげに脱コード化し解読して、自らのうちに取り込んでしまう。

近年のハロウィンとかそうだよな。 2015-10-27-22-46-29-Edit.jpgなのにDSC03690.jpgで、海外からすればDSC03686.jpgだもんなw

12:貨幣はサンボリックな中心であると同時にイマジネールなフェティッシュであり、父に、さらにはファルスに対応すると同時に、肛門的な性格を強く帯びていると言わねばならないだろう。

まるでルー語だがw “貨幣=肛門” というのは面白い捉え方だなぁ。

“金持ち=うんこもりもり” ”金持ち=アナルのシワの数が凄い” “金持ち=すごい脱肛”

と言うと、とてもダサイ感じするよなw

13:そもそも愛し合う男女といえば、あらぬ 幻 を求め合っては空しくすれ違いを繰り返すものの典型ではなかったか。愛が二人を象徴界から想像界に近付けるとすれば、二人はその分だけ狂気に近付くことになる。

www。愛と恋愛はまたちょっと違うとは思うな。

よく言われるのが、”愛=利他的” “恋愛=利己的” だったりするし。

大概、特に若い世代の恋愛は “この人とイイ仲になれたら、自分はイケてる存在に思える” 的な意味の割合が多いだろうし。

14:出発点は、生の世界とのズレを孕んだ欠落動物としての諸個人が相互に出会う平面である。それが、解きほぐし難く絡まり合った矛盾の場、全員が互いに犯し合い殺し合うカオスとして立ち現れることは、想像に難くない。この混乱を一挙に解決する道として示されるのは、全員一致でひとりを犯し殺すことである。

いわゆる “いじめ” とかそぉいう事だよな。

既存マス媒体発信による、有名人ネガ話題 (でっちあげ) とかも、結局同じ事だと思う。2015-3-25-20-26-47.jpg2015-3-25-20-28-56.jpg全ては “自尊心のケア” がインスタントに出来る人向けの情報や行為がマスなんちゃらなんだろう。ただし、佐野氏の件は、世界規模の事件なので、また別の話。日本のワイドショーとか週刊誌レベルの話題ではない。2015-9-02-22-31-11.jpg2015-8-16-22-28-34.jpg2015-9-02-23-33-18.jpg

15:近代と共に生まれるのは、昼ではなく、昼と夜の双対性、オフィスや工場を照らす白々とした蛍光灯の光と、どす黒いジェラシーが渦巻くベッドタウンの闇の、双対性なのだ。 ここで蝶番の役割を果たすのは家族である。すでに見た通り、家族は近代国家のイデオロギー装置のうち最も重要なもののひとつであり、主体を成形して外へ送り出す整流器として機能する。しかし、そうやって放り込まれた外の世界は、決して居心地のいい所ではない。そこを貫流する脱コード化された流れは、コード化・超コード化による支えを失ったものたちが、究極的なゴールもなく、ただかりそめの安定感を得るために、群を成して一方向に走っている、という体のものであって、ひとは永遠の宙吊りの不安定性に耐えねばならないのである。してみると、日が落ちるとき、彼が安息の場を求めて家路につくのは、至極当然のことと言えよう。彼は、そこで自らを、そして家族そのものを再生産しなければ、生きていくことができない。こうして、家族は整流器としての役割と人間の再生産の場としての役割を二重に背負わされ、奇怪な相貌を帯びて立ち現われることになる。その中には、単性生殖するホモジニアスな資本の流れが外界をノッペラボウの死の世界と化していくときそこに収まりきらなかったヘテロジニアスな生のアナーキーが、渦巻きわだかまっているのだ。勿論、そのような生の蠢きは、「ママひとつになりたかったら、その前にパパに追いつき追い越してごらん」 というおぞましくもウェットな三角関係の回路を通じて昼間の前進運動に束ねられ、その原動力として利用されはする。けれども、そうした清流作用はどうしても何がしかの残滓を残さずにはおれず、また、それこそが人間の再生産にとっての必須条件なのである。 こうしてみると、家族は単純な装置であるどころか容易ならぬ矛盾の場であると言わねばならない。

“一世帯区切りの見栄” とかは貨幣を回す上では有効だからな。AZZLOも歯が浮くような “家族愛” を担保する企画をしたりするしw 単位が国ではなく、世帯毎の戦争をしているように見えなくもないんだよな。・・・故に盛り上がるから転がせるんだけどw

16:徴をつけるというのは簡単に言えばレッテルを貼るということである。山口昌男による例を引くなら、「不良少年」 というレッテルを貼られた者は有徴項となって、無徴項である 「少年」 一般と—-決して 「善良少年」 とではない—-対立することになる。けれども、無徴 / 有徴 の対立はしばしば意識的なレッテル貼りの域をはるかに超え、無徴項 と 有徴項 の対立のように、文化の前意識的構造の根幹に組み込まれたものとなっているのである。

“不良少年” ないしのレッテルを貼る人は、「オレは少なくても不良ではない。良くはないかもしれないが決して悪くはないのだ」 という自尊心のケアをしているもんだしな。 むしろ “良いレッテルを持てない人が、悪いレッテルを作り出す” という感じがする。 政治家と音楽家の関係がそんな感じだな。

17:言っておくが、この時代にあっては人間の内的自然に没入するという道も封じられている。エロスすら、肉の深みからわき上がってくるのではなく、全面化したコミュニケーション網—-「テレマティックのグランド・ネットワーク、ワールドワイド・コネクション」—-の上を浮遊するのだ。デリダの言う通り、今は 「技術的複製可能性の時代におけるエロス」 「全面化された電話網におけるエロス」 を、それどころか tele-orgasmisation を、語るべき時ではなかったか。「想像してごらん、僕がもうそうしているみたいに絵葉書で精液を送れるようになる日を、それも、精液銀行か何かから振り出した小切手を通してなんかじゃなくだよ、そして、人工授精が妊娠を、それどころか欲望をひきおこすに十分なほど、そいつが生気満々のままでいることを。」ここで我々はジェラール・フロマンジェのタブロー を想起せずにはいられない。2m✕3mというモニュメンタルなスケールで描かれたマイクロプロセッサー。その上に熱烈な愛の言葉を綴った赤とオレンジは、やがて小さなタッチの微粒子と化して雪のように画面一面に舞いおどる。いとも晴れやかな、深層の欠如。

“テレマティックのグランド・ネットワーク、ワールドワイド・コネクション”

ってfacebookの事だよなw そして

“やがて小さなタッチの微粒子と化して雪のように画面一面に舞いおどる”

は FC2ライブ(アダルト) な感じだな。

18:ニーチェ・ドゥルーズが言う通り、真の意味で遊戯することを知らず賭けることしかできないのが、悪しき遊戯者のかなしさなのだ。賭け、すなわち、遊戯を装った未来のための投資、蓄財のための苦役。積まれるべきものが経済的な富であろうと宗教的な富であろうと事態は変わらない。たとえば、パスカルやキルケゴールも、ニーチェから見れば悪しき遊戯者、意地汚いギャンブラーにすぎないのだ。そのような目的のために賭けるのではなく、賭けをあくまでも賭けとして享楽すること。そのとき、賭けは真の意味における遊戯へと変わっていくだろう。

どっちみち死ぬからなw 享楽しないと損だと思う。

普通な言い方をすると “なんでもネタにするヤツ” という感じかな。


全体的にルー語が多く非常に読み辛かったが、期待通り面白かった。

この本は著者が26歳の時に出版されたとの事だが、ルー語感とか、皮肉がとても20代には思えないw

15番 にある様に、”家族” に触れている点も面白かった。

AZZLOはいわゆる “家族” 的な環境が薄めな環境で育った上に、育児をした祖父母は既に他界している。種付けの父とは18年会ってないし、母はロンドン永住。親戚は元々付き合いが薄かったが、20年ぐらい誰とも会ってないw

よって良くも悪くも近代社会による定義の “家族” がそもそもないのでw “安息の場を求める必要もなく、作る必要もなく、維持する必要もない” だな。少なくても維持されていないので、もう意識する事でもないのは、本当に良かったと思うw 明確なのは “親の介護” が絶対に無いw 安息と引き換えに義務があると面倒なんだよな。

自身の “結婚” という形で家族が発生してしまうかもしれないが、まぁ “パートナー” という概念が強いAZZLOは、結婚という現代国家運営上の本能ではない “しくみ” に、組み込まれたくないとは思う。

“ウェットな三角関係の回路を通じて昼間の前進運動に束ねられ、その原動力として利用されはする。”

とあるように、愛だとか綺麗事に騙されて住宅ローンを組むのは資本 (貨幣) 主義の奴隷だろう。

大概、結婚すると 「嫁なんだから!」 「旦那なんだから!」 というレッテルが生まれて揉めるもんだしなw

・・・そして、ニーチェの言葉が何回か出てきたが、何故か「ニーチェ読んだら自殺しそう・・・」 というイメージがあってw (多分現代で生きる気力を無くしそう) まだ読んでないのだが、やはり共感は高そうだなぁ・・・。

浅田彰にしろニーチェにしろ、時間経っても課題を解決出来てないニンゲンは未熟だなと思うw

ま、解決しちゃうと特に貨幣経済が回らないから、停滞する “しくみ” になってるんだろうが、知った上でその “しくみ” の中で生きるか、知らないでムダに苦労するかの違いはあるなw

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