-読書感想- たった一人の熱狂 / 見城 徹

たった一人の熱狂 / 見城 徹

2015/3/18発売。2015年4月の読書。

-読書感想- 憂鬱でなければ仕事じゃない / 見城徹・藤田晋
-読書感想- 人は自分が期待するほど、自分を見ていてはくれないが、がっかりするほど見ていなくはない / 見城 徹・藤田 晋

に次ぐ見城本。相変わらずタイトルが流石だな。

一人で熱狂出来なければ、他者の熱狂への理解・コミュニケーションも出来ないしな。


1:ブランド力が強い会社に慣れてしまうと、知らず知らずのうちに外的要因としてのブランドに依拠した仕事をしてしまうものだ。無名から叩き上げるのは当たり前と思っている人は、周囲の人が 「大江健三郎さんの原稿なんて取れるわけないよ。無理無理」 と冷笑しても最初から匙を投げはしない。

ほんとにブランド力が強い会社ならばまだしもであるがなw

2:生の虚しさを紛らわせる要素は、せいぜい①仕事②恋愛③友情④家族⑤金の五つしかない と思う。人によっては、これに⑥宗教を加えるかもしれない。僕の場合は、①~⑤に熱狂しながら虚しさを紛らわせてきた。

AZZLOはタイミングによっては①や③で、気分転換に②があって、⑥は音楽かな。①と③は外的要因が強く、②は面倒な側面も強いw しかし⑥であったり特に音楽は自分で調整出来るし、人が介入しないという事は裏切りがないので一番信じられるものであると思うw

3:たとえ 宝くじで20億円当たったり、何かの拍子に巨万の富を得たとしても、①仕事を放り出してすぐさまリタイアするなど考えられない。

“金” 軸足の道楽は飽きるからなw

金が欲しい人、給料が上がらないと愚痴る人は、年収1000万なんて中途半端な目標ではなく、与沢翼みたいに、もっと上を目指すべきだと思うな。飽きるまで手に入れてみれば良いと思う。

4:日本中をあっと言わせる企画を人知れず準備し、原稿を校了して印刷に回す。印刷所から本ができあがって来て市場に流通すると同時に、新聞広告や様々なプロモーションが一斉に流れるように念入りに仕込む。そして、長い時間かけて作ってきた本がベストセラーに踊り出る。

熱狂が最高潮に達した瞬間、僕の仕事は終わる。そして僕は、未知なる次の熱狂へ向かってすぐさま新しい仕事を準備するのだ。

AZZLOに対して 「お前は成功案件に依存してる!!!」 とか言う人は、次の熱狂へ向かわない人だからこそ、勘違いでAZZLOを定義するんだろうな。

AZZLOは飽きやすいので過去は誇りであるが依存にはならない。

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5:上司や同僚ができることをやっても面白くもなんともないに決まっている。

企業の多くは “上司のコピーになる事を下々に求める” だから歪を生むし変化に対応出来ないんだろうと思う。

“上司や同僚が出来るならそれでいいじゃないか”(故に自分は違う事をやる)

と思うw

それぞれ強みが違うからこそ、つるむ意味があるのが組織であってチームだと思う。

6:当時の上司であった角川春樹さんと僕は、一心同体となって昼夜を分かたず熱狂の時代を過ごした。なにしろ春樹さんが女性と二人の時間を過ごしている時でさえ、僕は女性の家のリビングに待機して、勝手にレコードをかけていたくらいだ。~中略~

リビングでレコードに聴き入っていると、春樹さんが女性と一緒にベッドルームから出来て 「メシでも食いに行くか」 と声をかける。それから飯倉のイタリンアン 「キャンティ」 に連れて行ってもらう。

昔の方がエロが身近だったよなぁ。最近はセックスも死も現実のものに思えない空気感があると思う。

そしてAZZLOをキャンティーに連れていってくれた先輩は、今のところ母であるYUMI YAMAZAKIしか居ないなぁ・・・。

7:「No pain, No gain! 痛みのないところに前進はない」

ドMwww。

8:トレーニングは絶対に裏切らない。と同時に、ごまかしながら身体を鍛えているふりをしたところで、結果は一目瞭然だ。 優秀な経営者は、例外なく皆トレーニングを日課にしている。対価が必ず得られるトレーニングによって自らを鼓舞し、生まれ変わった肉体と精神で再び仕事に飛び出して行くのだ。

あまり身体を鍛えるとかしないAZZLOだが、確かに身体は必ずフィードバックがあるのは知っている。ある種RPGのレベル上げみたいなもんだ。
そして経営者がトレーニングをしているケースはAZZLOが知ってる範囲でも多いと思う。

しかし、身体のトレーニングでも良いが、その時間を仕事に向け続けてても良い気もする。

9:世間が注目している頃には、僕はその仕事を弊履 (破れた草履) のように打ち捨てたい。次の無名の人と一緒に何かたくらみ、新しい仕事を爆発させたい。

AZZLOも成功案件で組織内もザワついていた頃、そんな気分だった な。

10:「ああ、何の後悔もない満足な人生だった」 と最後に思える人など、およそ存在しないと考えた方がいい。死の瞬間には、誰しも多かれ少なかれ後悔するに決まっているのだ。だったら、死の瞬間に後悔を少しでも減らすために熱狂したい。

これを言い切れない限り、言い訳が続いて後悔しながら死ぬ濃度は高いだろうと思うw

「年収一千万に一時期は達したけども、手取りは当然一千万以下だったし・・・」

だろうなw

11:悔しいが、僕は本物の表現者にはなれない人間だと自覚したのだ。ひとたびは作家を目指した僕だが、道半ばで挫折した。

AZZLOも10代の頃から自身を “音楽家” としては懐疑的に思っていたw “若い人にはかなわない。いずれ自分もおっさん” という意識があって、プライオリティは下げたんだよな。

店舗・コミュニティーとして、プレイヤーを生む・映える環境作りにも興味あったしな。

12:僕は若い頃から 「これは売れなかったがいい本だ」 という言い訳は一切やめようと決めてきた。 株で儲けろ、という本が売れようと、ヘアヌード写真集が売れようと、セックスの指南本が売れようと、ベストセラーは大衆の中でくすぶる欲望の奥深くに突き刺さっている。大衆の欲望を鋭敏にとらえた本だからこそ、多くの読者に支持されてたくさんの部数が売れるのだ。

自分の中に何かが突き刺さらなければ、人は身銭を切って本なんて買わない。売れる本は、マジョリティの大衆が抱える無意識の欲求や欲望をつかみ取っている。売れる本は良い本であり、売れる本は無条件に尊敬すべきなのだ。

本を売る人が “本なんて” と言えるからこそ、本が売れないと言われる現在でも売れる方の本を作れるのだと思う。

マスとは俗とも言えるからな。そして “俗” とは “高尚でないこと。いやしいこと。” と辞書に書いてある。

よって端的に言うとダサいハズなんだよなw

故にAZZLOは広告案件を作品と言うには違和感を感じる。実績は実績だが、ただの案件である。しかし世に出るという事は、誰かに良くも悪くも影響がある点は意識したい。

13:作家の中には、芥川賞や直木賞などの文学賞が欲しくて欲しくてたまらない人もいる。芥川賞や直木賞を取れば日本中で注目されるし、受賞直後は書店で本が大きく展開される。だが、賞によって起きるブームは所詮、一過性のものであって、芥川賞や直木賞作家の本が永続的に売れ続けるわけではない。受賞歴の看板があるだけで本がちっとも売れないようでは、賞にたいした意味はないとさえ思う。

結果とは何か。賞というのも一つの結果であるが、一番判りやすい結果は利益をいくら上げたかであり、それを曖昧にしては駄目だ。この世界で生きるからにはその数値にこだわり、数値で自分を納得させるべきだ。

広告賞を受賞したところで広告主は知らないし価値を感じないのに、広告業界は自己賛美である賞に依存しているしな。

AZZLOは賞、組織内評価なんかではなく、”生活者の反応” を欲しいと思う。

14:角川映画の第一弾が 「犬神家の一族」 (76年公開) だ。「『犬神家の一族』 は死に至る映画になるかもしれない。この映画がはずれればウチは倒産する」。 春樹さんは悲愴な覚悟で一世一代の勝負に打って出た。

映画公開の前日、僕と春樹さんはマンションの一室に集まった。春樹さんが 「神」 という言葉を口にしたのは、この時が初めてだ。「俺たちはやれることは全部やったよな。あとは何をやるべきか。わかるかお前!」 「はい! 何でしょうか!」 「神に祈るんだよ!」 人事を尽くして天命を待つ。僕は春樹さんと一緒に天に祈りを捧げた。

角川春樹だけが経営者ではないが、今の多くの経営者は角川春樹的に要素をあまりに失いすぎていると思う。

“潰れそうな会社”

を前提にしてしまえば、何が起きても良いから成長も出来ると思うけどなw

それでビビって入社しない人はそもそもビジネスパーソンではなく従業員なんだから、そんなのはアルバイトか派遣で必要な時に必要な数調達すれば良いと思う。

・・・そうそう、アルバイトレベルの労働価値観の人間を社員にしちゃうから上手く回らないのだと思う。(立派なアルバイトさんも居るが)

15:オーソドックスに無難に勝負しても、無難な結果しか得ることはできない。無知と無謀を貫き通して仕事をやり切れば、頭上に鮮やかに旗を打ち立てられる。旗が鮮やかに見えれば、その旗はオリジナルなブランドとなる。

無知は恥ずべきことではない。無知であり無謀であればこそ、不可能を可能にする闘いに挑戦し、この手で鮮やかなブランドを創出することができるのだ。

AZZLOが上手くいった時は、大概その題材においては無知だったしな。そして大概

「出来るんならやろうよ。イケそうなんでしょ?」

と言ってきたな。

16:幻冬舎創業から現在に至るまで、僕は他人様に広告戦略を考えていただこうなんて思わずに仕事をしてきた。 広告会社に戦略を任せることなく、キャンペーンもイベントも全部自分で考える。新聞広告を出す時も、幻冬舎のデザイン室が僕の指示に従って作る。「見城徹」 というプロデューサーが一人で指揮をして作る広告だから、規模の大きな広告制作会社と組む必要もない。

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商品広告ならまだしも、企業広告をゼロから広告代理店が考える案件とか意味不明だしなw

17:「ヒンシュクはカネを出してでも買え!」 というのは 「悪名は無名に勝る」 という僕の心の叫びだ。新しく出ていく者は周りから顰蹙を買うくらいが丁度いい。

AZZLOは頑張って顰蹙を買おうとはしてないが、うっかり発言もあるし、妬み等から評判が悪い側面もある。

しかし、大概AZZLOを悪く言う人は、コンプレックスが強い人なんだよな。

同世代・同等ヒエラルキーの人たちが煙たがるのならば、まだ分かるが、上位者がAZZLOを悪く言うのはダメだと思うなぁw

そんなAZZLOに設定した (信じている)のは、彼ら自身であるw

18:文庫本を乳首を隠すのに使ったっていいじゃないか。文化だ、芸術だと言って偉そうにふんぞり返ってるから衰退するのだ。

“ふんぞり返る” 時点で停滞であって、少なくても文化ではないよな。

19:圧倒的大差をつければ、嫉妬されることはなくなる。ただし、決しておごり高ぶってはいけない。おごれる者は必ず堕ちていく。

覚えてる限りだが “ヒエラルキー” “ソーシャルグラフ” という単語も知らない、要は知識すらも微妙な人が、AZZLOを批判してたりするもろもろへの疑問からの組織批評 (ほぼ批判) であるが、AZZLOはおごり高ぶっているだろうか?

仮におごり高ぶっていたとしても、知識すらも微妙な人がAZZLOを批判している訳だから、お互い様だと思うw

20:編集者が作家と惰性で付き合っていると、ともすれば作家は 「裸の王様」 になってしまいがちだ。

作家の機嫌を損ねることを怖れ、無難な物言いしかしなかったとしよう。編集者がそのような態度で一歩引いている限り、作家の琴線を刺激してエキサイティングな新作を受け取ることはできない。ただ原稿をありがたがって受け取り、印刷所に回しているだけであれば、編集者は原稿のクーリエ (運び屋) と同じだ。

そしてテキトーな結果しか残せないので 「また媒体打ちましょう♪」 というループをするんだよなw

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最終的には広告しなくても売れる状態を築くのが、販促パートナーのミッションだと思う。

大半の広告代理店営業は、本当に得意先が栄える事を望んでいなくて、ただ継続して媒体買ってくれれば良いとしか思ってないだろうな。

21:自分の身を切らず、自分の身を痛めずして、安全地帯で身を守りながら 「キャラを立たせたい」 と言ってもどだい無理な話だ。

若年層に少なくないのだろうが、おそらく “ちょっとチヤホヤされたい” 程度のモチベーションなんじゃないかな?

そして、AZZLOは “キャラが立っている” 的な定義にハメられやすいのだが、当然嫉妬する者が出てくる。

特に狙って攻めてる訳ではないがw 光が強ければ影も強く出るんだよな。

22:パートナーとして長く癒着の関係を保つためには、キラーカードを何枚も手に持っておかなければならない。お互いが圧倒的努力を重ねて何枚ものキラーカードを常に獲得し続けるからこそ、お互いがお互いを必要とする癒着は続いていく。

そして、キラーカードを切り合った先に、大きな成果が出ると癒着は益々深くなる。

勘違いして欲しくないのだが、「癒着」 と 「人脈」 は似て非なるものだ。僕は 「人脈」 という言葉を聞くと虫酸が走る。

「仕事ができる人間になるためには人脈が必要だ」 と考える人は、異業種交流会やパーティーにやたらと出席しては名刺交換に謹んでいる。大勢の人間が集まる場で名刺を渡し、通り一遍の薄っぺらい世間話をしたところで、癒着と言えるまでの濃密な関係を築けるわけがない。残るのは顔も思い出せない人たちの名刺の山だ。

“電話帳の登録数” “ラインの友達数” に依存するのは自信の無さな訳だしな。

そしてキラーカードを持ち続けるのは、相手に対する礼儀とも思う。

“全員アンパンマン” と言えるんだよな。相手から搾取して自分だけ潤うのは失礼だし、長くは続かない。

23:どちらかが、どちらに依存するのではなく、お互いが欠くことのできない者同士として多くの血を流し、命を張る。その関係を批判するのは、ビジネスにおいて本当の人間関係を理解しない者のやっかみである。癒着こそが大きな結果を生むのだ。

何も持たない者同士が生半可な関係を築いたところで何の結果も生まれない。キラーカードを持つ者同士の濃密な癒着こそが大きな結果を生み出す。

人脈は一朝一夕でできあがるが、癒着は決して一朝一夕では成立しないのである。

理解出来ない人も少なくないかもしれないが、特に仕事はこの指摘の要素の濃さが、成果に紐付くと思う。人生の濃さでもあるな。

24:正面突破で仕事をすることによってギアがピッタリ合う作家もいれば、波長が相容れず縁がないまま終わる作家もいる。 後者のパターンになることを怖れ、作家と可もなく不可もないやりとりなんてしたくない。相手の顔色をうかがい、お世辞に終始する仕事などやりたくないのだ。

イケてる人はお世辞には馴れ過ぎているので、刺激が無いと思われるしな。

そぉいうレイヤーを知らないでゴマすりに終始する人、ゴマすられてダマされる人は、そのレイヤーの人同士という事で、もう別に良いと思うが、AZZLOを巻き込まないで欲しいとは思うw

25:僕は常に小さなことに後ろ髪を引かれ、小石につまづき、小さなことにクヨクヨする人間でありたいと思っている。

AZZLOもそうありたいと思う。

過去はその濃度が濃かったが、最近歳のせいか、全て忘れてしまいがち・・・w

26:GNO(義理人情恩返し) をごまかしたか、ごまかさなかったかは、自分が一番よく知っている。 GNOに生きるのは疲れるが、同時に清々しい。義理と人情と恩返しを、重んじてたとえ損をしたとしてもそれに殉じたい。

その行き方を感じてくれれば、僕以上に大きく義理と人情と恩返しで報いてくれる人は必ず現れるはずだ。僕はそうやって生かされて来たのだ。

そして恩送りをするべきだと思う。

27:94年3月25日、僕は決死の覚悟で朝日新聞に創業宣言の全面広告を出した~中略~

3月25日が近付くにつれて、怖くて怖くてたまらなかった。ベッドに入っても恐怖に打ち震えてちっとも眠れず、涙がどんどん流れて止まらないのだ。
朝日新聞をはじめ、この時の広告費には1億円近い大金がかかっている。もし本が売れなければ会社は即倒産。僕は自己破産だ。

「調子に乗りやがって。見城は失敗するに決まっている」 「幻冬舎を立ち上げたらあいつは終わりだ」。

みんなが大笑いしている様子が、幻覚のように耳元で鳴り響く。「そいつらの言う通り僕はまんまと失敗するのか。そうなれば、文芸元年の歴史が始まるどころではないな」 最悪のシナリオを想定したら、泣けて泣けてならなかった。

やはり創業は、特に近代は相当な覚悟が必要な事だと思う。

ITベンチャー云々で、いわゆる独立というのが簡単・流行に見えなくもないし、簡単なめぐり合わせ・タイミングもあるとは思うが、継続するのは大変だと思う。

AZZLOの周辺には経営者が少なくない。よく彼らから苦労話を聞くが、「家のもの全部売ってしのいだ」 とか、スレスレなタイミングも無くはない。

そぉいう現実を見ると、多くの企業の “雇われ社長” は、社長ではあれどビジネスパーソンとしては筋力がないように見えるよな。こないだのT芝の件とか特にそう感じる。

28:オーナー経営者は、経営が多少まずいからといって逃げ出すわけにはいかない。多くのスタッフや取引先がいるし、経営判断いかんによって、彼らやその家族の人生にまで責任を負うことになる。幻冬舎を立ち上げてから、僕は鉄板の上で火あぶりにされるようなジリジリした緊張感にさらされて来た。 この重圧は、角川書店時代にはまったく味わったことがないものだった。

母は同じ国に1ヶ月と居ない生活をしていたが

「地上に居たら出来る事が多過ぎて疲れる。飛行機に乗っている時は命も預けている訳だから、唯一まともに寝れる場所。」

と言っていたのを思い出した。

29:もし君が銀行や大手広告会社、テレビ局、航空会社のような大企業に勤めているのであれば、そこを辞めて企業する道はあまりオススメしない。 これらのナショナル・ブランドは、まず潰れる心配がないからだ。仮に倒産寸前にまで経営が悪化したとしても、同業他社なり国なりが必ず救済してくれる。

救済後がイイカンジかは保証されないけどなw

30:覚悟を持って現実と格闘した先にしか大きな結果はない。

「覚悟」 とは、このためには死んでもいいと心に決めることである。

AZZLOはそこまで悲壮感というか、背景が濃くない状態だが、”死ぬまでの有効活用” という確信は持っている。

31:幻冬舎は創業から今に至るまで、基本的に新卒は採用しない方針を貫いてきた。社会人経験がない新卒の学生は、海のものとも山のものとも判らない。偏差値が高い有名大学や海外の大学を卒業していたり、履歴書にかかれている経歴がいくら華やかだったとしても、新卒の学生は社会人としての経験値がゼロだ。

社会人経験がまったくないため最初は仕事がうまく行かなくても、まっさらの状態であることが強みとなり、柔軟に対応できるタイプもいるかもしれない。しかし、そういった大いなる可能性も、1年くらい一緒に働いてみなければ見えて来ない。

僕が新しい人材を採用するときは、その人から立ち上がる雰囲気と印象を重視してきた。 俗な言葉で言えば、背後から漂うオーラだ。その人の肌ざわりから醸し出す人間性を鋭敏に察知し、自分の直感力を信じる。直感は多くの局面において正しいものだ。

人を見る目が人事部に無ければ、スペック採用の根は絶たれないだろう。

先日人事的な事に従事する人と話したら

「!!!確かに何をもってして良い学生かオレは分からない・・・」

と言っていたしな・・・。

そして学生は 自分にオーラが無い前提だからこそ、スペックを求める生き方の動線がケアされている と思うw

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こぉいう傾向は強まっているしな。

何度も書いているが “従業員” が欲しいならば、今の大卒採用動線で良いとは思う。ビジネスパーソンが欲しいならば別の方法を検討しなくてはならない。

32:人は必ず死ぬ。今この瞬間は、死から一番遠い。今から1分経てば、僕も君も1分だけ死に近付く。 死があって生があり、生があって死がある。生と死は不可分だ。「自分には必ず死が訪れる」 と認識した時、生が輝き始める。生きているうちにやるべきことが見えてくる。

死へと一歩ずつ近づく悲しさに震えながら生きるから、生に感動と歓喜が生まれる。切なさや悩み、苦しみを感じ、同時に官能も恍惚も噴き上がる。生まれた人は全員 「死のキャリア」 なのだ。

“生まれた時から終活” だしな。

33:僕は大学生時代、かなり真剣に学生運動、革命運動に関わっていたつもりだった。だが、実際は現実という踏み絵をまるで踏み抜けてはいなかった。

「留置所や刑務所に入れられるのは嫌だな」 「親が悲しむだろうな」 「就職もできなくなるだろうな」

そんなくだらない理由をつけて、臆病な僕は革命運動に殉じることができずのうのうと現実にとどまっていたのだ。

かたや日本赤軍の奥平たちはどうか。アメリカやイギリスのせいでパレスチナの人々は自分たちが住んでいた場所から追い出され、難民キャンプに追いやられる。こんな矛盾を許してはいけない。戦うべきだと決意した彼らは、命を投げ打って信念の道に殉じた。

僕も一度は、矛盾に満ちた世の中の仕組みを変えようと夢見た。だが、いくら高邁な観念や思想、理念を描いたところで、実行に移さなければ何の意味もない。 何の価値もない。僕がやっていた学生運動、革命運動など、所詮は観念の遊戯に過ぎなかったことに気付いたのだ。奥平たちの事件は僕の人生を一変させた。
こうして僕は、21歳の時に生き方を変えた。 僕如きが軽々に革命を口にするのは申し訳ないと思ったのだ。もう革命とは決別しよう。偽善はやめよう。自分が否定し続けてきた資本主義の世界で、徹底的にのし上がってやろうと決めた。

だから僕は、自分が忌み嫌ってきた俗世界と、なんとしてでも折り合いをつけなければならない。 ただ折り合いをつけるだけでなく、俗世界をねじ伏せ、そしてのし上がってやる。僕がのし上がることによって、この世の中の醜さを証明してやる。革命に挫折した僕は、意気がった気持ちで人生を大きくギアチェンジした。~中略~

理想に燃えて革命を夢見たものの、世界はまるで変わらない。そのことに絶望して死を選んだ奥浩平や高野悦子に、僕は借があると今でも思っている。奥浩平や高野悦子が命懸けで憎んだこの世界が、いかに醜いか。僕の成功と出世によって、逆説的にこの世界の醜さを証明してやるという意気がりがあった。

やはり出てきた名前だ。なんかそぉいう臭い感じてた。

そしてAZZLOも20歳か21歳でDJを辞めたと宣言した。(しばらくはたまに回したが)

ユートピアだと信じていたクラブが腐敗していく瞬間を見て、まずは離れよう、そして馬鹿にしていた “会社員” を演じてみよう、”馬鹿にしてるならば簡単に彼ら以上の結果は残せるハズ” と思って今がある。

見城氏のように命を検討するまでの背景ではないが、”自分が否定し続けてきた資本主義” にあえて身を置く経緯は似てると思う。共感する。

逆にずっとサブカル周辺に生息して、マスと交わらない生き方は “言い訳・逃げている” 様にも見える。少なくてもAZZLOはそうはなりたくなかったんだよな。

34:よく別れ際に 「近いうち、メシでも食いましょうね」 と言う人がいる。食事をする気もないのに、上っ面の言葉だけで社交辞令を述べるのは失礼ではないか。軽い気持ちで言っていたとしても、守らなかった時点で単なるウソになる。

僕はこのような小さなウソをつくのも耐えられないから 「今度メシでも食べましょう」 と口にした時には、必ず手帳をめくって予定を空ける。

小さな約束を守る、小手先のウソやごまかしを言わない、人を騙さない。仕事ができるできない以前に人として最も大事なことである。

人を平気で騙すような人間は、社会的な成功を得ていたとしても人間のクズである。

www。そして常にビビって生きていく事になるし、死ぬ直前は濃い目の後悔をしながら死ぬだろうw

35:小さく生きて、小さく死んで行く。誠実に生きて、誠実に自分の運命を引き受けて死んでいく。 あざとい野心もなければ、人を押しのけてまで目立とうとも思わない。そういう人たちの日々の営みを感じられず、彼らとの友情をないがしろにするような僕であれば、もはや編集者として現場に立つ資格はないのだ。

そうでないとただの成金だからなw

36:幸福の尺度は一人づつ違う。人からどう思われようと自分が満足できていればいいのだ。死の瞬間に後悔しないように今、熱狂するだけだ。

経済を回す為に 「幸福とはこぉいうもんですよぉ~。クリスマスは異性と過ごさないと失格なんですよぉぉぉぉ♪」 に代表されるマス媒体を通した価値観ゴリ押しに洗脳されていると、キリがないんだよな。

AZZLOがそれに乗っかるのならば

「クリスマスに複数の異性と過ごさないと満足しません」

になるw デモ行進と言えるぐらい数万の女子を引き連れて歩きたいw

いわゆる家族という概念・それに紐付く幸福も同様に最近出来たものでしかない。

「父母子 なんていうイメージは つい最近 経済構造と共に出来た価値観」新報道2001 2015 05 30

「父母子 なんていうイメージは つい最近 経済構造と共に出来た価値観」新報道2001 2015 05 30

Posted by Taka-aki Motoi on 2015年6月9日

政治家の未熟さ・不備を見えなくするように家族単位で美化されているとも思う。

「家族を美化して 信じて 全てうまくいく という考え方がある」新報道2001 2015 05 30

「家族を美化して 信じて 全てうまくいく という考え方がある」新報道2001 2015 05 30

Posted by Taka-aki Motoi on 2015年6月9日

中途半端に上手くいってるし歪も出てきているが故に、ワールドカップやオリンピックの時だけ、合法的に愛国心に依存するのだとも思うw

37:失敗して落ち込んでいる人に出会うと、僕はこうやって声をかける。「今起きていることはすべてプロセスだ。プロセスの中で生じた暫定的な結果によって、人生がすべて決まるわけではない。最後の勝負は、死ぬ時にあなたがどう思うかだ」

当たり前過ぎるwww

38:金持ちにも貧乏な人にも、いずれ死は訪れる。仕事で多くの功績を残している人にも怠惰な生活を送っている人にも、いずれ死ぬ瞬間は平等にやって来る。「あの人は貧乏だし、家族にも恵まれずかわいそうな人だ。あの人の人生は失敗だった」 と周りから憐れまれても、死ぬ時に 「俺は自ら望んでこういう人生を送ってきた。一人で死んで行くことに何ら悔いはない」 と独りごちることができれば、それが幸せなのだ。

“ゴミ屋敷の住人” とかも同様だしな。半分ヤケクソで自分で信仰を作りだしたという逃げもあるケースは少なくないが、いずれにしても自信を騙しきったら勝ちだろうw

39:人生にifはない。僕は自分がリスクを負って常に闘い続けられるように、できるだけ守るものを少なくしてきた。 そう生きようと決めたのだから仕方がない。
血を分けた子どもがいない僕は、最後は一人で密かに死んで行きたい。父と母から頂いた 「見城徹」 の血と骨が灰となった時、僕は故郷・清水市の海へ静かに還るのだ。

見城氏とはちょっと違うが、AZZLOも守るものをもちたくないが故に、高収入にはなりたくないと思っている。33番に書いた事と矛盾するがw

大概高収入になると “偉くなる” も伴うので、その “偉い” が、少なくても今在籍している組織では目指したくないんだよな。今の組織を離れたらどう思うかな?

40:「女が女を愛してはいけない」 「男が男を愛してはいけない」 「ムチで人を打つのはヘンタイだ」。共同体が勝手に決めたルールなど無視して、性愛を貫けばいい。毛深い女性が好きだ。ハイヒールに異様に興奮する。体臭はキツければキツイほどいい。人それぞれフェチズムがあり、その嗜好は他人に理解されなくたって一向に構わないのだ。~中略~

性愛を根源的に突き詰めて行った時、生きることの意味が問われる。

見城氏はバイセクシャルでドMっぽい感じするよなぁw

性愛のスタイルは時代によって多少変わるが、根本的に出来る事が限られているし、大枠は変わらないのが、非常に興味深い対象だと思う。

面倒くさいと思いながらも、また新たな性愛に興味を持つ “学ばない・懲りない” みたいなのも面白いw

41:たとえ高収入ではなくても、他に魅力があれば女性は君を好きになってくれるはずだ。たとえ華やかな金持ちではなくても、身をやつして一つのことに打ち込む姿に官能を見出す女性はいる。学歴も収入もなくても、やたらとストリートファイトばかりしている不良に惚れる女性だっているわけだ。

それは君がどう生きて来たかに関係する。その 生き方の集積が相手を痺れさせ、君の虜にさせるのだ。適当に生きて来た奴に魅力などあるはずもない。外見なんんかいくらでも生き方でカバーできる。

AZZLOよか金があって小奇麗な男子でも、女子を釣ろうと思っても釣れないみたいだもんな。

42:今の時代、ひょっとすると 他者への想像力は恋愛でしか育めなくなったのかもしれない。 恋愛をしている人は、否が応でも相手の気持ちを考える。相手の気持ちなんてそっちのけで自分のことしか考えていなければ、恋愛関係は早晩破綻する。

僕たちの若い頃には貧乏があり、学生運動があった。仲間について 「あいつは何を考えているのだろうか」 と想像する瞬間がたくさんあったのだ。学生運動が激化した渦中には、「あいつは俺たちを裏切っているかもしれない」 と不穏な想像力も働かせた。~中略~

だが恋愛だけは、時代がどう変わろうと不変だ。他者について想像力の翼を広げ、さまざまな道筋をシミュレーションする。そうしなければ恋愛は決して成就しない。

AZZLOはコレ面倒臭いんだよなぁw 過去にやっていたDJとしてフロアに居る人の感情を想定し、今はプランナーとして広告主の決定要素と生活者の反応を想定し続ける日常なので、プライベートまでやっていたら疲れてしまうw し、ある程度傾向は把握したつもりだが、女子と男子では根本咬み合わない領域が少なくないw

43:僕が25歳の時に、故・有吉佐和子さんが 「あんたを日本一の料理屋に連れて行ってあげる。まだ25歳だから早いけどね」 と誘ってくださった。初めて足を踏み入れた西新橋の名店 「京味」 には驚いた。 ~中略~

25歳の時に一流の味を知った僕は、角川書店で猛烈に働いた。京味の良い客になりたい。そのためには仕事で大きな利潤を上げなければならない。会社を食い物にしたり、会社を騙して京味に行くのではない。会社に 「文句はないでしょう」 と言いながら、堂々と正面突破で京味に行きたい。

AZZLOも自腹でキャンティぐらいは行きたいしなぁ。(行けなくはないがw)

“先輩が飯を奢る” というのは、こぉいう導線を構築する意味があると思う。

“行っても割り勘で和民” では社会としてダメだと思うw


AZZLOは見城氏ほどではないが、ドM感は近い部分もある事を確認。

AZZLOの発想・企画方法メモ

に書いたように “まずはあえて四面楚歌を目指す” とか、近い感じがする。

そして近年、見城氏ぐらいの年代の人は激動の時代を経験してきただけに強いし面白いと感じていたのだが、改めて実感した。

しかし、多くの特に大規模な企業経営社も見城氏と同年代だが、T芝のようなダサい事が少なくない現実とのギャップは一体なんなんだろうと思ったりもするw

当然時代による傾向はあるものの、個それぞれなんだろうが、近年素敵な先輩に出会わなくなったなと思う・・・。今在籍している組織中心の人間関係なのが大きな要因ではあるが。

おそらく “死を意識した事があるか否か” が違いを生む要因としてあると思う。孫正義も病気で死にかけてたしな。

死に比較的近い高齢の人であれば、当然死への意識は高まるハズだが、”権力依存” 等により傾倒するのは、高齢になる以前の経験・育ちの違いなんだろうとは思う。若い頃はそういう時期があっても良いと思うが、高齢になったら “キリがない事への飽き” が起きてなさそうな偉い人には疑問だな。

改めて、同じ社長でも雇われ社長とビジネスパーソンの違いを実感した読書だった。

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