2012/4/26発売。2015年4月の読書。
しばらく前の本だが本屋の棚を物色していると、気になるタイトルを発見!博報堂関係の本は結構好きだし、AZZLOの組織に対する疑問の多くは
- “何故論理が破綻している事に 『気づかない』 のか?”
な訳なので手に取った。
1:人は意外と自分の欲望に気づいていないものです。マーケティングといわれる活動の基本は、当人がまだ自覚していない欲望を、さまざまな方法から探りあてることにあります。よく 「欲望の創造」 という言い方をしますが、これはちょっと違うと考えています。むしろ 「欲望を発見」 することが私たちの仕事だと言えるでしょう。
やはりアンケート等の顕在ニーズはある一つの側面の事実でしかなく、大半のマーケティングは “欲望への順応” なだけ。故に “既存顧客維持” には寄与するコミュニケーションではあっても、社会変化に伴う新規顧客獲得は起きないんだよな。
- “線でしか認識出来ない。点は見えない”
的な視力が悪い感じがするw
2:当人もまだ自覚していない欲望を発見したら、次はその欲望への生活者の 「気づき」 をうながすのが私たちの役目です。というのも、ただ欲望を発見しただけで終わってしまっては、市場も生活も何も動いてはくれません。
⇒そして 「お前の潜在ニーズってコレだろ?」 と言われると、認めたくなくなるので、「オレ (生活者) が発見したのだ!!!」 というトラップにハメられる状態が望ましい。
普遍的な欲望は “自尊心の担保” だから、そこをケアしない限り、表面的には欲望であっても反抗したくなるもんだと思う。
3:「人は意外と自分の欲望に気づいていないもの」、当然これは博報堂の社員にもあてはまります。私たちはふつうの人間の集まりです。そんな私たちが 「当人がまだ自覚していない欲望」 を先に探り当てるためには、常に思考を自由な状態に、固定観念にとらわれないようにしておく必要があります。
- もし私が顧客に何が欲しいのかという事を尋ねていたら、彼らは「もっと速い馬が欲しい」と答えていたことだろう。(ヘンリー・フォード)
と同じだよな。そして人の判断ではなく、今後はビッグデータ的な予測で精度高い探り当てが可能になるので、人の “センス” みたいなものも崩壊する気がする。
そして一周回って “勘違いこそ価値” みたいな事が起きると思う。
4:自らの自負を込めて博報堂は 「人が資産」 の会社とうたっています。
⇒仮に博報堂の意思として文字通りであったとしても、あえて言わなきゃいけない前提がおかしいとは思うなw
要は “人が資産” ではない組織が少なくないという事だろう。
5:私たちは、ふつうです。天才ではありません。ひとりでは、大きな 「気づき」 は、やっぱり難しい。ふつうの人間が 「気づき合う」 から、ふつうの生活者が気づけないことに 「気づく」 ことができるのです。
⇒その側面はあるし、多面的考察が出来るからチームだと思うが、大概 ”声が大きい人・上司の意見・前例事例踏襲に流れる” という複数人の弊害もある。”気づき合う関係” は権力的な面倒臭い束縛が無い関係でなければ起きない。
昨今 “ワークショップ” とか流行りらしいが、もちろん旨味もなんとなく想像は出来るのだが、”譲り合い” みたいなのも日本人だと起きるので、”個人の熱狂” の方がずっと良いと思う。
6:社会は、変わります。「常識」 も変わります。当たり前のように思ってきた 「世の中」 や 「常識」 を、まだ当たり前だと思っていないでしょうか。
⇒これを前提に持ってないと、気づく事は何もないからなw 大概気づくのではなく “後追いで事実を知る (知識)” なだけで、世の中からは一歩遅れているw
家族という概念も同様だと思う。
「父母子 なんていうイメージは つい最近 経済構造と共に出来た価値観」新報道2001 2015 05 30
「父母子 なんていうイメージは つい最近 経済構造と共に出来た価値観」新報道2001 2015 05 30
Posted by Taka-aki Motoi on 2015年6月9日
7:成長期の常識は、もはや常識ではなくなりつつあります。たとえば 「新しいもののほうが古いものよりも常に優れている」 という考え方は、わが国の経済成長期における進歩主義的なものの見方でしかありません。もし、仮にあたながイタリアのローマへ行ったら、そこには 「古いアパートほど家賃が高い」 という正反対の常識に出くわすでしょう。
⇒いわゆる昭和の高度成長期においては、”モノ(工業製品)の産業革命” の真っただ中だった訳だから、それは大方事実。しかしローマのアパートにおいては、不動産物件であり、今、氷の冷蔵庫はないだろう。比較対象が違うと思う。
8:なぜ私たちの社会はまだ経験の浅い若者のことを 「最も進んでいる」 と見なし続けてきたのでしょうか。虚心に見れば、最も 「進んでいる」 のは豊富な人生経験を積み重ねた老人だ、という発想もありうるはずです。
⇒これも比較対象が違う話に思う。とは言え、このような “こっちもありうる” 検証は必要な思考だと思う。
9:アイデアとは、「既知のふたつのものの間にある、未知の関係を発見すること」 であり、偉大なアイデアの多くは、このようにとても身近で、「なんだ、それくらいなら自分も思いつけるぞ」 と思えるものなのです。ところが、これがなかなかできない。〜中略〜
それは、私たちは誰もが 「マインドセット」 を身につけているからです。マインドセットとは、経験や教育・先入観などにより形成された思考様式や価値観のことで、「固定観念」 「暗黙の了解」 「思い込み」 といったものがこれに含まれます。
⇒日本の教育は “気づかないマインドセット” だな。全員がアイデアを出さたら、偉い人の価値が “低まる雰囲気がする”(自信がない上にヒエラルキーを理解していない偉い人の不必要な危機感) から、戦後教育を踏まえて社会全体で今だに促進させている事だと思う。
10:「カテゴリー知覚」 と呼びますが、これなどはマインドセットによる代表的な 「気づき」 の妨げかもしれません。「携帯電話」 というカテゴリー知覚からは、テンキーのないタブレット型のスマートフォンは生まれなかったでしょうし、「調味料」 というカテゴリー知覚に縛られていたら 「食べるラー油」 という発想は永久に出てこないのです。
⇒型にハメると “理解度” が増した気分になる人の根本があるしな。逆に言うと、既にカテゴリーにハマっている事は、ハメようとする頭が働かにので興味は湧かないとも言える。(普遍的な欲求カテゴリーはあれど、時代によって変化はある)
11:えてして知識や経験の豊富な人ほど、マインドセットの束縛にとらわれてしまいがちです。一切の予見を持たず、ものごとをありのままに見ること、それが気づきのために不可欠な基本作法なのです。
⇒という知識もマインドセットの束縛に寄与しなくもないんだよなw
本当のフリーでフラットな見識とは何だろう?とちょいちょい思うw
12:論理的に考えたら間違いなくベストの選択なのに、どうしてもその商品を欲しいと思えない、そのような経験は誰にもあるはずです。その 「しっくりこない」 違和感の理由を探っていけば、論理では割り切れないものが何なのかが見えてくるはずです。
恋愛でも同様で、スペック高くて申し分なくても、なんか盛り上がらないとかあるしな。
13:気づきが違和感=認識のズレからはじまるのならば、その発見と解明はひとりではなく多人数で行ったほうがはるかに生産的です。
なぜなら、何人かが集まれば、自ずとそれぞれの認識は異なります。同じものに対しても違うとらえ方をします。だからズレの発見が大変容易になるのです。
⇒そのズレを公にして良いのならば生産的だと思う。しかし組織では “ケチをつけた” 的に受け取る人が少なくないので、沈黙のポーズだけになると思うw
世の中的にワークショップがこれといって大きな成果が出ないのは、蛍光灯の下でシラフでやるからだと思うしな。
何度か書いているが、生産的な発見解明は酒場でしか起きないと思う。
14:共同空間とは参加者全員で 「ひとつの脳」 をつくることではありません。一人ひとりの 「個人脳」 が自発的に繋がり合い共同で機能するような状態のことです。それには、まず個人脳が自由にいきいきと活動していなければなりません。~中略~
この共同脳空間の大きな強みは、お互いが他の人の思考力や発想力・観察力などを引き出しあえることにあります。誰かのちょっとした発想や観察を他の人が解釈したり分析することで、当人も認識していなかったような視点をそこから引き出していくのです。相手の力をうまく受け入れて、より大きな力へと変えていく、という点では合気道に通じるものがあるかもしれません。~中略~
クラウドコンピューティングのような概念を人間のネットワークによる有機的な 「運動体」 に置き換えたもの、それが共同脳空間だ、とも言えるかもしれません。
そして “人間一つの脳” も細胞の集合体であるので、クラウド・ビッグデータは “地球規模の脳” とも言える。
組織内のナレッジマネジメント概念の延長からも、いずれ “大きな脳” になり、人間は “アカウント” 的になると思う。
ただし組織がやるナレッジマネジメントは、ただのタスク・疲弊履歴でしかないので、ポジティブな共同空間脳にはならないのは明白だな。
15:共同脳空間では、秀才が必ずしも優秀であるとは限りません。一般に秀才とは高学歴の人を指すことが多いと思いますが、それは具体的に言うと 「勉強を重ね、受験戦争を勝ち抜いた人」、すなわち 「与えられたお題 (問題) を解き続け、誰よりも正解を出し続けた人」 ということになります。そんな彼/彼女らは往々にしてお題に対する正解のみを最短路で追い求めてしまい、そうでないものを否定し排除する、いわゆるネガティブチェッカーになりがちです。これでは共同脳はその活動を止めてしまいます。また何より、「お題ありき」 で考えてしまって、お題自体を疑うことをしなければ、「お題を超えた 『気づき』 を得られるはずもありません。
にも関わらず、企業の採用活動が特に変わらないのはなんでだろう?
まぁ採用側がいわゆる高学歴の秀才であれば自分を否定にする事になるから出来ないのだろうがw
16:「1986年に男女雇用機会均等法が施行されたことで、日本の女性の社会進出は大きく進みました」・・・などと書いてあっても、ふつう何の疑問も感じませんよね。でも、「本当にそうなの」 でしょうか?
「女性の社会進出」 というのはすでにひと連なりの慣用表現のようになっていますが、それを前提に 「社会進出を果たした女性のこれからのライフスタイルについて考えましょう」 といったお題で議論に入ってしまって、よいのでしょうか。
少し考えればわかることですが、ここで言う 「社会」 とは 「企業社会」 のことにほかなりません。つまりこれは正確には 「女性の企業社会進出」 を指しているのです。そもそも日本の女性は、男女雇用機会均等法の施行以前から、少なくても1945年の婦人参政権獲得以降は、いやそれ以前でさえも、立派な社会の成員です。
⇒AZZLOは疑問を感じ続けている。”女性は社会に存在しなかった前提” なのが腹立つのだw
いわゆる “会社” という中には女性は比較的少なかったり、寿退社とか前提だったかもしれないが、社会には存在したハズであるw
そもそも “モテたい” から仕事頑張る男子が居たりする訳であって、こういっては失礼な側面もあるが、”資本主義を回す餌” として十分社会に存在していたと思う。
- どう転んでも男子はおっぱいとおま◯こには逆らえない
のだw
そして、”情緒不安定” “男性社会への仕返し” はダメだが、女性管理職とか女性上位環境の方が資本主義上の組織は上手くいく可能性は高い気がしている。
かといって 「女性も就職して一人前」 というのは間違った配慮でただのレッテルとなるw
両性共にだが、それぞれの性のポテンシャルを最大限活用出来ていない社会環境に思う。
17:全体を俯瞰するときには、当たり前のようですが 「全体」 を見なければ意味がありません。ですが、ついつい私たちはそれを分類し 「部分」 に分けて見ようとしてしまいます。得てして優秀な人ほど、全体を緻密に分類し、整然と部分に分けてしまいがちです。私たちは分けないと 「わかった」 気になれず、不安なのかもしれませんね。
⇒それも “二次元に分類” するから、欠落するし辻褄合わなくなるんだろうと思う。
18:いま、私たちは、こうつぶやきたくなります。
「そもそも、『幸福』 をこうと決めることなんて、できるのだろうか」
逆に、「自分が成長することで、社会が幸福になれる」。そのように幸福のベクトルを変えてみると、どうでしょう。
「気づき」は、新しいものを生み出す力です。自分への 「気づき」、自分の日々の行いへの 「気づき」、そんな意識が、自分を成長させることになります。それを続けて、世の中に関わり続けることは、きっと、あなた自身のよろこびも、社会のよろこびも大きく成長させることになるのだと言えそうです。
もろもろ
これが無いからこそのAZZLOの疑問だし、こぉいう本が出るんだろうな。
体育会では上級生の命令は絶対です。たとえ上級生の言い分が間違っていたとしても、逆らうことは許されない。その世界を生き抜いてきた学生は不条理だらけの会社人としての耐性を備えています
更にこういった指摘も非常ぉぉぉに多くなっているし
もちろん世界的に上位っちゃ上位かもしれないが、上位とするものさし次第だし、それが組織に必要かどうか?が分かってないと意味ないw
企業の人事採用、特に新卒採用においては、まず自己理解 (組織内理解) の上で、外部要因を見渡し “気づく” 必要があるんだろうな。
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