家族という病 / 下重暁子
2015/3/25発売。2015年6月の読書。
報道2001にて
「実際には家族は理解し合えてない 友だちの方が理解している」新報道2001 2015 05 30
「実際には家族は理解し合えてない 友だちの方が理解している」新報道2001 2015 05 30
Posted by Taka-aki Motoi on 2015年6月9日
こんな感じで非常に興味深い切り口だったので手に取った。
1:家族団欒という幻想ではなく、一人ひとりの個人を取り戻すことが、ほんとうの家族を知る近道ではないのか。
“チームワークという幻想ではなく、一人ひとりの個人を取り戻すことが、ほんとうのチームを知る近道ではないのか”
と言えるな。
2:結局、親子共に甘えて暮らしているとしかいいようがない。~中略~
世の中が厳しいせいではない。お互いもたれ合い甘えあい、独り立ち出来ない親や子が増えているのだ。
お互い 言い訳の材料として依存しているケースは少なくない よな。
3:「親はなくとも子は育つ」 という。環境がいかに過酷であろうとも、子はそれを引き受けて生きていく。
⇒AZZLOも両親と過ごした時間は孤児とまでいかないが、平均的な家庭環境と比較すると 1/10000 ぐらいだろうしな。
4:何を捨て何を選ぶかその基準は自分にあり、どんな時も自分で選ぶ。
5:大人にとってのいい子など、ろくなものではないと思っている。最近、反抗期のない子が増えているというが、こんなに気持ち悪いことがあるだろうか。
親の権威や大人の価値観に支配されたまま、言いなりになっていることは、人として成長のない証拠である。
⇒大人というのは成人者が定義したものっぽいしな。疑問を感じる若年者を “大人しい” という概念で黙らせているだけに過ぎない。
黙れば怒られない・ご褒美がある。(親の自尊心ケアの為に子の笑顔を得ようとする報酬も含む) 要は “何もしない方が評価が良い” というしつけとなり
となっているのが、日本の根本の課題だと思う。
6:超エリートと呼んでいい家族は、学校教育を批判し、子供を自分達の考え方で育てようとする。その結果、個性的な子が出来るかというと、そうとは限らない。他の子供や先生との間で悩んだり、けんかしたりする部分がないせいか、変に大人びた常識人に育ってしまう例も多い。教育とは親が与えるものではなく、子供が自分の世界で切磋琢磨してつかみとっていくものではないか。
⇒エリートとは “庶民が達成出来る上位レイヤー” だしな。”AZZLO家は超エリート” かどうかはとりあえず置いておいてw 祖父である水谷暢宏とロータリークラブの人たちは
「学校なんて行くな!あそこは馬鹿養成所だからだ」
と幼少のAZZLOに言いきかせていた。ま、中2の1学期までは行ったがw
学校に行かない分、学校に渋々行くのではなく、能動的にクラブに行って、様々なお兄さんお姉さんとのコミュニケーション、PARISに住みカタコトのフランス語でDJのギャラ交渉もろもろがAZZLOの少年期の学びのコア であった。
今この歳になって言語化出来るが、酒場で起きる文化の瞬間を見てきた・体験した事と、言語の違いの中から発見する差異性・共通性が “教科書の内容を記憶” する一般的な受験教育よりも、生きる力にはなっている と思うな。
7:私など、いつ結婚したのかも正確には憶えていないし、結婚して何年経ったかなど数えたこともない。誕生日だって、自分でも忘れる。何かしてくれるのではと期待するから、裏切られたと余分なストレスを抱え込む。期待していないのに、贈り物などもらうと思いの外に嬉しい。
期待していてそれに応えてくれないことほど、腹立たしいものはない。
「期待しないで、待っていて下さい」 などというセリフは失礼もはなはだしい。待つという行為は期待の表現だから、期待しないでと言うなら待つ必要もないわけだ。
⇒AZZLOも自分で誕生日を忘れるw カノジョには教えてすらいない。“誕生日ケーキのロウソクを吹き消す”とか、唾が飛ぶし衛生面からしてもおかしい しな。
そもそも 誕生日は “親に感謝する日” ならまだしも当事者を祝うってのは意味不明 だw
8:自分ことですら正確に把握することも出来ないでいるのに、他人のことが理解できるか。配偶者は他人なのだ。一番近い家族ではあるが他人である。
家族は暮らしを共にする他人と考えた方が気が楽である。
⇒そうでないと “家族なんだから” とかいう義務感で疲れる からな。
9:自分の家の独自性を考える前に、他人の家をまねすることから始まる。
家族エゴで固まっているのに、暮らしに自信が持てない。他人の家族を気にしながら、自分の家が上だと思えると誇りにし、他人の家がいいと、不平やら不満やらが噴出する。~中略~
自分達だけよければ他人はどうでもいいという家族エゴ、自分の住んでいる所さえよければという地域エゴ、自分の国さえよければという国家のエゴ、全て争いのもとになる。
⇒自己を整理出来ていないと、家族という無敵っぽい概念を美化・依存するんだろう と思う。
10:パートナーという呼び方も多くなってきた。パートナー、日本語に訳せば、つれあいである。
パートナーは結婚した相手でなくともいい。暮らしを共にしている人、特別の間柄の人、異性とは限らない。同性同士でもいい。お互い一番信頼出来る人ならばいい。
⇒AZZLOは異性の たまにセックスする友人を “カノジョ” というのには抵抗があった。 今もあるが。”今一番仲の良い(距離が近い)異性の友人” が一番矛盾がない言い方 だと思っているが、紹介が長くなるし、大概 「?」 という反応になるw
今は面倒臭いし、それぞれ具体的な価値・定義はあるので 「カノジョ」 と言うようになったが、“つれあい” って良いな。物理的距離が近い感じする し。
11:国は女性の生き方について口をはさむ前に、社会環境を整えるだけで十分だ。女性は自分の生き方は自分で考える。今の女性は賢明だし、男よりも真剣に自分の生き方を考えている。女性の選択にまかせるべきだ。
⇒男性化した女性では女性の旨味はない点は注意が必要 だと思う。
12:子供は何も、自分のDNAを受け継いだ子でなければならないわけではない。DNAが受け継がれていなくとも、みな同じ子供なのだ。~中略~
血などつながらなくとも、思いでつながっていれば十分ではないか。思いがつながらないから血に頼るしかないのでは、と皮肉の一つも言いたくなる。
この星に生まれた子どもたち だからなw
DNA的子孫へのこだわりが強まったのは、結局資本の問題故だろう。国が子育てを “家庭” として押し付ける為に、DNA的子孫の依存症を作りだした のだと思う。
13:孤独に明日をも知れぬ暮らしをしている人々は、どうやって自分の心の均衡を保っているのだろうか。かえってストレスのない暮らしを確保しているのだろうか。
-
- 金がない。飯食えない。
- フランス語喋れない。日本人の友人も居ない。(喋れないなりにフランス人と遊んではいたが)
- 電気止まる。暖房も出来ない。
- ビザ無し滞在期間を過ぎて不法滞在になるw
- 当時学生だったKITSUNEのMASAYAクンと一杯のカップラーメンをシェアする。
ってな感じで、超絶孤独・・・と書きたかったが、意外と人と会ってたなw とは言え、”1週間誰とも合わない” ぐらいは日常だったな。
14:野垂れ死にといわれようと、覚悟の上ならいいのではないか。
心ない家族にみとられるよりは満ち足りているかもしれない。
“貧乏と言われようと、覚悟の上ならいいのではないか。尊敬してくれない部下を持つよりも満ち足りているかもしれない”
15:自分達で家族をつくる。心許した仲間と同じ墓に入る。そうした試みが見られる。仲が良いわけでもなく、心も許せない家族が無理やり一緒に墓に入るよりは、よほど自然なことだ。
⇒ “休日に誰と過ごすか” の延長で考えれば当たり前の事だと思う。
16:独りを知り、孤独感を味わうことではじめて相手の気持ちを推しはかることが出来る。家族に対しても、社会の人々に対しても同じことだ。
⇒おそらく 携帯電話・ネットの普及で過去よりも孤独感を感じにくいと同時に義務感が増しているのが昨今 かな。枯渇状態によって自己把握が出来る機会になると思うが、近年そういうきっかけが少ないと思う・・・。
17:盆と正月、必ずニュースになるのが帰省ラッシュである。高速道路に延々と続く車の列、新幹線の乗車率が百パーセントを超え、子供の手を握った親が、もう一方の手でキャリーバッグを引いている。
「冬休み、何が楽しみ?」 というリポーターの差し出すマイクに子供が答える。
「おばあちゃんやおじいちゃんに会えること」
「おもちつきと雪だるまを作ること」
親も笑顔だ。
「両親に大きくなった姿を見せてあげようと思って」
「お年玉をもらえるのも助かります」登場する家族はみな善人である。
テレビの中では、家族は善人でなければならないのだ。
⇒あれは誘導尋問だしな。”家族は善人でなければならない”は、“個人だと悪人だから集団で群れると善人になれた気分になれる” という感じ だろうな。
18:国は、家族を礼賛する。戦時中がそうであったように、家族ごとにまとまってくれると治めやすい。地方創生というかけ声はとりもなおさず、管理しやすい家族を各地につくることに他ならない。その意味で、家族とは小型の国家なのである。
そうだとすると、小型の国家たる家族は排他的にならざるを得ないのかもしれない。
⇒ “家族” という定義における人の集団はそうだろうな。愛国心と同様だ。
19:公共の場でのマナーは、その国の成熟度をあらわしている。家族もいつまでも自分だけの世界に甘んじるのではなく、社会の中の一員に成熟していって欲しい。
⇒たまに疑問に思うのだが、小児や小人がはしゃいでいる際に、親が 「すみません」 と謝罪している風景がある。まず親が謝罪するのは良いと思うが、同時に 当事者である小児や小人も謝罪するべきだと思うんだよな。”親が処理してくれる”というしつけになっている と思う。
20:日本人は知っている人には親切であるが知らない人には冷淡である。家族、親戚、知人とはこれ以上ないというほど結びつきを大切にするが、関係のない人には掌を返したよう。
⇒ 貨幣の支払いがないと “お・も・て・な・し” なんてしない しな。
21:私は、家族写真の年賀状があまり好きではない。善意であることは間違いないし、たくさんいただくので差し障りはあるのだが。
幸せの押し売りのように思えるからだ。家族が前面に出てきて、個人が見えない。感じられない。お互いの家族をもともと知っている場合は別として、私はよその家族を見たいと思っているわけではない。へそ曲がりといわれるかもしれないが、頼んでもないのに子供の写真を見せられるのに似ている。
家族はそんなに誇らしいものだろうか。たまたま機会があって、紹介されるのはそれはそれでいいが、無断で入ってきて欲しくはない。
⇒www。”元気ですエビデンス” なだけで、そこまで考えてる人はそうそう居ないだろうなw
おそらく 年賀状はそぉいうものではなく “貴方を想っていますエビデンス” が本質なんだろう。 そんな中の “元気ですエビデンス” は場違い なんだろうな。
更に下重さんはより個として向き合ったコミュニケーションを求めているから、表層的な集団の笑顔に 「だからぁ?何ぃ?」 と思うのではないかな?w
22:空威張りでもいいから、毅然としていて欲しかった・・・。幼い日迎えの馬にマントをひるがえして乗っていったりりしい姿が、私の脳裏に刻み込まれています。私にとってはじめての身近で格好いい男性でもありました。それがことごとく打ち砕かれていくことがたえがたかったのです。
⇒コレ、後半の家族への手紙、それも父への手紙だそうで、戦後にチグハグな言動の父親が嫌いだったそうだ。この家族への手紙までは “おもろいばあさん” として認識していたが、かなり幻滅したw
結局、“いわゆるふつぅ~の家族になれなかったコンプレックス” が下重さんの言動の源だと解釈しやす過ぎるw
もちろんきっかけは何でも良いと思うが、 “いわゆるふつぅ~な家族” を否定するロジックを構築して自己防衛する必要があったのだろう し、そう信じたいという歪が露骨に出てる印象を受けたなぁ・・・。
23:つれあいという家族がいなくなったら・・・。私はその時のために、一人でいることに馴れようと準備を始めています。私がこの世に生を得て、長い長い暗い道を一人歩いてきた時のように、最後は一人なのだと自分に言いきかせているのです。
⇒“言い聞かせる” という時点で “そう信じたい” んだろう な。
最後の家族への手紙までは面白かったが・・・。この本を読んでから 下重さんの喋りが提言ではなく嘆きに聞こえるようになってしまった なぁ・・・。
まぁ、そぉいうドキュメンタリーという意味では価値があるし、そこまで 全裸なのも立派とも言えるが、あまり見たくなかった なw
手紙までの 全体の2/3は非常に共感するAZZLOも下重さんと同様なコンプレックスがあるからだろうか?
AZZLOはその辺コンプレックスは無いつもりだ。自分で言うのもなんだが、ある種高貴な家系?でなければ起きない流れな感じだし? いわゆる家族として成立しないのも、ウチの家系ならではで当然の流れだと認識している。良くも悪くも上から目線があるのがウチの家系だと思う。・・・と信じているだけかもしれないがw
「俗な庶民と同じ事をする必要ない」という感覚は幼少の頃からあったなぁ。自家用車も無かったし同棲者と自宅で食事するという事もなかった。それぞれ一人か外食しかなかった。旅行(遠出)は祖父の仕事の延長だったし、遊園地は “子供に時間を割いたエビデンス(扶養家族税金免除権アピール)” に付き合わされた記憶しかないw
いずれにしても、この本がかなり売れてるというのが日本の課題を表しているし、それぞれ必要な人間関係を考える機会となっているなら、良い提言だとは思う。
LEAVE A REPLY