2014年5月頃の読書。
にて
等、知識と知恵の関係を考えたりした訳だが、最近 “知識と知識の隙間を見極めるスキルが知恵” とかいう見解も出てきた最中、似たような言葉の 「”知性” はなんなんだ?」 という興味からこの本をポチった。
ちなみに帯コピーである “なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?” については
に書いた通り、アダムスミスを踏まえて “偉いおっさんは徳が無いから” という見解があるのがAZZLOだ。
1:学歴は一流。偏差値の高い有名大学の卒業。
頭脳明晰で、論理思考に優れている。
頭の回転は速く、弁も立つ。
データにも強く、本もよく読む。しかし、残念ながら、
思考に、深みがない。
そうした若手がいないだろうか。
いや、それは若手だけではない、実はこうした 「頭は良いが、思考に深みが無い」 と評するべき人物は、年齢に関係なく、存在する。
⇒まぁ日本の教育は “考えるスキルを奪うトレーニング” だからな。しょうがないw
2:例えば、世の中には 「知能検査」 というものがあるが、この検査の一つの重要な柱は、正解の有る問題を数多く解かせ、いかに迅速に、正解に到達できるかを測るものである。
すなわち、「知能」 というものの一つの重要な意味は、まさに、「答えの有る問い」 に対して、速く、正しい答えを見出す能力に他ならない。
そして、言うまでもないが、現在の中学、高校、大学などの入学試験で測られるのは、この意味における 「知能」 であり、現在の「学歴社会」 において受験勉強を勝ち抜いてきた 「高学歴」 の人間とは、この意味での 「知能」 が高い人間こと 他ならない。
⇒日本の学校で得られるものは、言い換えると “記憶力 (記憶内容)” であって、あまり “能” ではない事が大半w (全てだとは言わないが) 能はその記憶をただ都度使うのではなく、組み合わせる事であるとも言える。
“九九の歌” 小3でAZZLOもやったけども、”掛け算の構造関係無い記憶促進ソング” だからな。大半の勉強と言われるものは、九九の歌に近い状況に思うw
- “なんちゃらかんちゃら鎌倉幕府”
とかも聴覚から記憶してるだけで同じだよなw AZZLOは既にその記憶すら微妙だしw
昭和の時代までは、知のストックが一定以上あると、
- “都度引き出すだけである程度事足りてしまうので、組み合わせの必要性にかられない”
という事でOKだったが、現代では “考えない” 事に繋がっているし、必要な知が無い時は逃げ出したりするんだよな・・・w
現代に必要なのは
こぉいう事だし、もっと突っ込むと
- “そもそもどれが問題かを見極める”
必要があると思う。
で、”記憶力” とも言える知能については
今後こぉいう事なので、いわゆる日本の教育・勉強というのは、ほんとに “筋力” 的な努力賞的な事でしかなくなる。
そぉいう筋力だけで企業の人事採用をしているから、SONYがダメダメになってる的事象に繋がってると思う。
今後、事実や記憶はWEB上に格納していく割合が増えていくハズなので、”サプリの様に記憶を購入” するビジネスなんかも可能だし、事実を好みの記憶に変換する解釈 (フィルター) の販売も可能となる。
ってAZZLO自身も予見してたなぁw
3:成功したと思われる人生を歩んだ後でさえ、もう一つの道がどのような道であったか分からない。
それが人生の真実の姿であるならば、若き日に、進路の選択肢を前に我々が悩むとき、それは、まさに、「答えがない問」 の前で佇むときに他ならない。 ~中略~
そして、その 「答えの無い問い」 を前に、その問いを、深く問い続けることのできる能力、それが 「知性」 に他ならない。
これに対して、「知能」 とは、「答えの有る問い」 に対して、早く正しい答えを見出す能力のこと。
⇒この “道” の選択に環境はどの程度影響するのか?(DNAかコミュニケーションどっちが強く影響するのか?)
というのが気になるんだよなぁ。言語によっても思考変わってくるから、要は内的と外的どっちが影響強いの?って事なんだけども。
例えば、映画とかでよくある設定だが、”政治家・財閥の子孫なのだが隠し子なのでw 里子に出された子供は、DNA的親の様な道を選択するのか?少なくても素養はあるのか?” みたいな疑問だw
ちょいちょい研究結果とかは出てるみたいだが、”言語” も含めた検証は・・・秘密組織が秘密にやってるって話は聞いた事あるがw 秘密だからわかんないんだよなぁ・・・w
「今思えばニアミスだったあの娘とヤッてたら・・・普段のあの声は、どんな喘ぎ声になるのかなぁ・・・?」 というのも 「答えの無い問い」 だなwww
4:「知能」 が、「答えの無い問い」 に直面したとき、何が起こるか? 端的に言おう。
「割り切り」
「知能」 は、それを行う。
すなわち、考えてもなかなか答えの出ない問題を前にしたとき、「知能」 は、この「割り切り」 という行為に走る。 ~中略~
精神が 「楽になる」 ことを求め、「割り切り」 に流されていくと、深く考えることができなくなり、「答えの無い問い」 を問う力、「知性」 の力が衰えていく のである。
そして、必要な知が無い時は逃げ出す・・・w
と近い話だな。
そして “割り切り” についてはAZZLOも、たまに起きる事なので、常に自覚症状がある範囲に留めておこうとは思っている。
例えば、プレで勝ったのに、プレゼン内容では制作に進めない事象 等の時は 「とっとと終わらせよ♪」 (事故らせちゃダメなので納品優先) となる。
あとは、「面白い事がしたい!」 って言ったのに、結局媒体買うしか出来ないクライアントとかの場合、要は前歴がある場合には、「媒体持っていけばいいじゃん?」 と割り切るなw 逆に嫌がらせで超エロい施策作るかもしれないがw
・・・そぉいえば作った上に提案までしちゃった案件あったなぁw 某、移動・乗り物系会社に
- 「乗り物言うたら女ですよね?・・・故に!!!御社のサービスを女に見立てて移動するゲームコンテンツ作りましょう!」
ってのやったなぁ。結構反応良くて 「子会社の施策としてならばイケるかな?」 ぐらいの反応はあったんだよなぁ。(お金が非常に厳しく社会的な目も厳しい状態だったので実施出来なかったが・・・w)
5:真の 「愛情」 とは、物理的に遠く離れても、相手が何かの利益や喜びを与えてくれることが無くなっても、相手のことを想い続ける力であり、相手に心を残す力に他ならない。
しかし、我々は、この 「愛情」 と 「エゴの所有欲」 をしばしば混同してしまう。 そして、「エゴの所有欲」 が満たされると、ときに、相手に対する心の 「関係」 を無残に断ち切ってしまう。 その背後にあるのは、「心が楽になりたい」 という 「エゴの欲求」 であって、真の愛情ではない。
それゆえ、真の 「愛情」、すなわち、相手に対する心の 「関係」 を断たぬということは、膨大な精神のエネルギーを、我々に求める。
しかし、それゆえにこそ、「愛情」 とは、知性の 「最も高度な形態」 なのであろう。
- 「男女間の愛は幻想であり、そのことがすべての過ちの原因になりうる。人は錯覚に基づき、感じ、考え、行動している。その錯覚が、人間しか創造し得ない膨大な幻想を生み出しているとしたら、愛の過ちは素晴らしい人類への贈り物である。愛そのものが幻想なら、自分自身は、案外、愛の真実の姿を典型的に、もっとも過激に生きているのかもしれない」
に似てるなw
そしてAZZLOがあえてWADAさんのプレイを聴きにいかない (WADA絶ち) のは、エゴになりそうな事への自戒だし、逆に他の人たちにエゴを発揮してもらえる隙間を作らなければならないと思っているからと言えるな。(余計なお世話だがw)
ちょいちょいWADA周辺の人たちに
- 「WADAのプレイを聴きに行く事がWADAへの愛の表現ではない」
言ってるしな。
6:人間の能力というものは、「一〇〇」 の能力を持った人間が、「九〇」 の能力で仕事に取り組んでいると、その仕事を、たとえ 「一〇〇〇時間」 行ったとしても、確実に力は衰えていく。
⇒自分の昔の企画書を見ると、今よりも綺麗で手が凝っていて、分かりやすかったりするしなw
そして、”良い企画書” と思えるのは、当時自分にとっては高いハードルの案件だった時な感じするな。
7:「知性」 の本質は、「知識」 ではなく、「智恵」
「知識」 とは、「言葉で表せるもの」 であり、「書物」 から学べるものである。
「智恵」 とは、「言葉で表せないもの」 であり、「経験」 からしか学べないものである。
- 知性= 【(知識×知識) ÷ 経験】=智恵×教養
みたいな、数式わからんのでテキトーだがw
“知識を経験で精査し引き出せる能力が智恵で、教養によって奥行きが加味された結果が知性”
みたいな事が言いたいw そんな因果関係はあるよな。
“経験” という点で代理店営業において、いわゆる高学歴よりも “海外をヒッチハイクで旅してました” 的経験を持っている人の方が、ずっと適していると思うな。
そして “企画するスタッフ” はニート出身が良いと思うw ニートさんって “ある側面” において美意識が高いが故ニートになってる可能性が高いし、特に昨今のソーシャルコミュニケーションの設計においては、孤独を経験しているニートさんは適任w
“媒体問屋領域の作業員” は、まぁ言いなりで疑問を持たない高学歴の人が、むしろ適任だな。
8:書店には 「プロフェッショナル論」 の本が溢れているにもかかわらず
実際に 「プロフェッショナル」 としての力を身につける人材が少ない。
こうした現象が生まれている一つの大きな理由は、明らかであろう。
「知識」 を学んで 「智恵」 を掴んだと錯覚する病。
⇒“知名度が高いクリエーターの作品・言葉は称賛するのに自分はやらない病”
も同様だし、こんだけドラッカーのマネジメント論が一般的なバイブルになってるのに、”ほぼ真逆” になってるしなぁw
マネジメントは、”現場” によって最適な濃度やタイミングが違うと思うので、”今” 全て同時に実行出来ない現実は分かるが、”論” として知識にすらなってない気がするw 事実読んでなさそう だし。
そもそもドラッカーとか読まなくても、真摯な人であれば、自然とそうなってるとは思うけどなw
9:いま、多くの人々の心の中に、その 「うまい秘訣」 を求める安直な精神が蔓延している。
そして、こうした 「安直な精神」 が生まれてくる背景にも、永年続いた 「知識偏重教育」 と 「受験教育」 の弊害がある。
なぜか?
「知識の学習」 には 「うまい秘訣」 があるからだ。
「書物」 を読むことによって学ことのできる 「知識」 は、「いかに速く、いかに大量に、いかに効率よく学べるか」 という秘訣が、たしかに存在する。 ~中略~
しかし、永年の 「経験」 を積むことによってしか掴むことができない 「智恵」 には、「いかに速く、いかに大量に、いかに効率よく学べるか」 という秘訣は存在しない。
これのニーズとか、そぉいう事なんだろうなぁ。AZZLOはこの本を並んでるのを見て
- 「100円のコーラは100円でいいじゃん!ドンペリ飲み放題のパーティーに100万で遊びに来てくれるイベント考えたいわ」
と思って買わなかったがw
最近この手の即効性がありそうなビジネス書はタイトルと目次見れば 「元ネタがアレで言い換えてるだけのヤツか・・・」 的なのが少し分かるようになってきたぞ!w 逆に元ネタが同じでも著者によって隙間が違うので、その違いから更なる考察をするのは面白いが。(同じTR-909でもJEFF MILLSも居れば、そうでない人も居るように)
そして、読むだけで終わるんではなく、AZZLOみたいに書き起こして、感想を書くなりする事で、自分自身の見解がブラッシュアップ (ある意味悪化とも言うw) した方が深みが出ると思うな。
ある種この読書感想文は
“知識を経験 (書き起こし・感想書く) を通す事で智恵に昇華する試み”
って感じだしな。AMAZONにレビュー書くでもいいと思う。
そもそも
だと思うので、解釈が都度更新される事によって記憶 (読書しただけの印象)は良くも悪くも歪んでくるからな。
読書感想文は、”書き起こし行為を含んでしまっているが感想の生ログに近い状態” であるので、将来的な、”オレマーケティング” において良い材料だと思う。
そして、ただ読むだけでは
こうだからなw
いずれにしても何を経験しようが、「振り返って考える」 という糞面倒な癖が必要な気がするw
ビッグデータ・ライフログの旨みは、企業のマーケティング手法のトピックばかりだが、このように、個人の自己精査 (他者評価も) の面でも非常に可能性あると思う。
あ、ビッグデータはその可視化の際に隙間や繋がりの認識を促されるインターフェースが凄いポイントだな。
勤怠表とかJOB紐付け時間消費履歴表みたいなインターフェースでは、因果関係がわかんないだろうw
そして、知識偏重の受験教育って・・・教育っつぅか “お仕着せ” だよな。微妙に有りがたく感じちゃったりするのが、まさに “お仕着せ” だと思うw
要は 「いい学校に入っていい企業に就職する」 というセオリーというかパターンを全員に強要するのは犯罪だと思うな。それがセオリーの人も居るけども、大概怯えて後悔しながら死んでいくんだし。
10:書物を読んで 「知識」 を学んだだけで、「智恵」 を掴んだと錯覚することなく、歳月をかけて経験を積むことによって、深い 「智恵」 を掴んでいくこと。そのためには、自分が何か語るとき、「これは書物で学んだ知識か、それとも、経験から掴んだ智恵か」 を自問しながら語る ことである。
⇒近年、この手のいわゆるビジネス書を読んでいるAZZLOだがw この点は凄く気を付けているつもりだ。
故に元々自分で思った事をログ化し、本に書いてあった事はそのまま書き起こし、似てる言葉等はリンクで関連性を明確化しているし。
11:二十一世紀において、我々が理解しておかなければならない、一つの現実がある。
それは何か?
高度な 「専門性」 を持った優秀な 「専門家」 が。問題を解決出来ない。
⇒www。”その専門知識だけでは何も起きない” だからなぁ。
- “レコードいっぱい持ってるだけでは人は踊らない”
と同じだw
あと問題点は “解決すると用済みとなる” だろうなw その専門なんで課題が終わっちゃったら他の分野でマネタイズが難しいからなぁwww
代理店がいつまでも “媒体問屋” であるのも、得意先の課題を解決させちゃうと用済みになっちゃうからという理由もあるだろうな。
ある案件で社内企画説明の際に
- 「これで得意先はもう代理店要らずで自立していけるっしょ♪」
と言ったら営業に激怒されたもんなぁ・・・w
IBMはPC事業をLENOVOに売却した訳で、代理店もそれに似た変化を自ら起した方が儲かるんじゃないかなと思う。代理店が本来持っている (ハズの) スキルの使い方が違う気がするんだよな。
12:我々は、無意識に、自分の思考を、自分が得意だと思っている 「思考のレベル」 に限定してしまう 傾向がある。
例えば、
「自分は技術屋なので、ビジョンとか、戦略とかは、良く分からないです」
「僕は、会社の戦略企画部の所属なので、現場の具体的な問題は担当ではありません」
「私の仕事は、政策の提言ですので、行政の末端の細かい事情は知りません」
(etc…)こうした言葉を語りたがる傾向である。
もとより、こうした言葉の一つ一つは、真摯に語られた言葉であるが、問題は、その背後にある 「無意識」 である。
⇒代理店の人は、大分薄まってきたが 「オレWEBはわからないから!」 と言っていたなw “言った方がカッコイイ” ぐらい流行ってたと思うw
そしてAZZLOは
- 「糞社員 ですから朝来れません」
言うしなw
13:例えば、「思想」 を語っても、単なる 「教養」 としての思想を語っているだけの経営者がいる。「思想」 というものが、「未来を予見する優れた手段」 であることを理解していない経営者である。
例えば、「ビジョン」 を語っているつもりで、単なる 「目標」を語っているだけの起業家もいる。また、抽象的な 「理念」 を語って、「ビジョン」 を語っていると錯覚する起業家もいる。そもそも、「ビジョン」 とは何かを理解していない起業家である。
例えば、「志」 を語ると称して、単なる 「野心」 を語っているだけのリーダーがいる。
例えば、「戦略」 を語るとき、「戦略」 の本当の意味を理解していない経営者がいる。
例えば、「戦略」 と 「戦術」 の違いを、スケールや規模の違いだと思い込んでいる起業家があいる。
例えば、「技術」 の重要性は分かっているが、それを磨くための 「方法」 を理解していないリーダーがいる。
例えば、「人間力」 を磨く方法は、古典や儒学、宗教の本を読むことだと思っている経営者や起業家、リーダーがいる。
こうした誤解をしているかぎり、その経営者、起業家、リーダーの 「七つのレベルの思考」 は決して深まっていかない。
⇒キーワードに沿ったグレート偉いおっさんの事例紹介という内容。しかしキーワードと事例がどう紐付いてるのか全く分からなかった・・・。
りするしなぁ。そして大概
- 「変化する広告業界において我が社が生き残り成長を続けるには・・・各社員のスキルアップをし、得意先の要望に対応出来るようにする必要がある!」
みたいなの “あのおっさん” ではなく、”ほぼ全てのおっさん” が毎年言ってる感じするんだよなぁ。
その上で
- 「この事象から “対応出来た” と判断するのでスキルアップしていた模様だ♪」
とか、その逆で
- 「反省点を踏まえ次からこんな感じにする!!!」
とかほぼ無い気がするw ちょっとバズワードを入れ替えただけで毎年本質も行動も変わらない感じする。ま、”芯がある” とも言えるかもしれないがw
ちなみに AZZLOが珍しく共感しているけっこう偉いおっさんの方針 は 「反省点を踏まえ次からこんな感じにする!!!」 を比較的感じてはいる。
今の現実を見るとAZZLOの解釈からは全く “こんな感じ” からは程遠い、むしろ逆行している現実な感じはする・・・w
全てではないが、得意先からは 「安く媒体仕切ってくれる問屋であれば、他のサービスは要りません」 っていう傾向が強まってる気がする・・・w
こぉいう事だな。
要は得意先の顕在化しているニーズは “安さ” であって “スキル” とか “企画力” みたいなのは、必要な時には既にクリエイティブブティック的な生業の人たちに求めるようになっていて、代理店に求める動線はもう枯れた・・・というか元々無かったのかもしれないw。
“代理店が噛むとムーブメントじゃなくて、短期的マネタイズに落とされる”
というのが世の中の見解だしなぁ。”企みたい” 人が代理店に居るのはホントミスマッチなんだろうなぁ・・・。
事実広告賞を取るような案件は、”有名社外クリエイター” を起用の上だったりするしw そぉいうのは代理店スタッフとして “プランナー” ではあれど “クリエイター” っつぅ名称は遠い感じするw 広い意味で “ビジネスをクリエイトする”(マネタイズする) っつぅ側面では間違いではないが・・・。
14:では、なぜ、スーパージェネラリストは、こうした 「思想」 を学び、未来を予見する必要があるのか?
未来を予見できなければ、「ビジョン」 や 「戦略」 を描けないからである。
これから世の中が、どの方向に向かっていくのか?
これから企業や市場や社会が、そのように変化していくのか?
それを知ることができなければ、「ビジョン」 を描くこともできない。「戦略」 を立てることもできない。さらには 「志」 を定めることもできない。
- 「今のままでは今後大変だ」
は予見ではなく現実だよなぁ。ま、気付くだけマシだが。
よく思うのが、偉いおっさんが下々に話す内容が
- “偉いおっさんが、もっと偉いおっさんに話した内容・資料のまんま”
で、下々は知らない領域の話なんで、分かんないと思うんだよなぁw
結局
- 「オレはもっと偉いおっさんにこの内容で通したって事を、お前らに伝えたからな!」
という偉いおっさんの労働履歴で終わってる事が珍しくないと思う・・・w
※もっと偉いおっさん向けの言葉と下々向けの言葉が混在している資料を見ると “頭イイおっさん” と感じるな。要は 「ここは儀式的に入れてあっけどさ。あんま気にしないでね!」 的なヤツだw
そして下々から多く聞かれるのは
という着地になってる・・・w
15:「未来を予見する思想」 を学ぶと、ある特定の分野での専門知識が無くとも、その分野の未来に起こる本質的な変化は予見できる。
⇒自分で言うのもなんだが、AZZLOはこのスキルは比較的強く持ってると思う。
2番に書いた通り
今後、事実や記憶はWEB上に格納していく割合が増えていくハズなので、”サプリの様に記憶を購入” するビジネスなんかも可能だし、事実を好みの記憶に変換する解釈 (フィルター) の販売も可能となる。
ま、まだ現実になってないが、様々な未来を的中させたMIT創設者とほぼ同じ事考えてたし。
※そおいえばNHKスーパープレゼンテーション (TED) に出てるMIT所長伊藤穰一をテレビで見た時に 「なんか見覚えあるおっさんだなぁ?」 と思ったのだが、ゲンシさんの友達らしく、AZZLOは少年時代に会っていたのだと思う。
おそらく
・幼少の頃から、成人が凋落していくのをよく見ていたから (その逆も)
・クラブで “次の曲・繋ぐ箇所・フェーダーの上げ方下げ方・EQの操作” を場の状態から想定して聴いて暗い中で筋肉を活用しながら常に答え合わせし続けていたから
・自分自身でもDJをやり、”家でのレコード準備時におけるイメージ構築・現場での微調整・生録した音からの反省” を繰り返していたから
とか理由になる気がする。
一つ明確に間違えたので覚えてるのは (恥)
- 「スマホが普及する事で、ガラケーの課金コンテンツをやっている会社は、かなりキツイ事になる」
だな。確かiphoneがiphone内で “キャリア課金” が出来ない事から想定した事だった気がするが、モバイルコンテンツ市場は結果的に大きくなったからなぁ・・・w
16:「ビジョン」 とは何か?
「ビジョン」 とは、「これから何が起こるのか」 についての 「客観的思考」 である。 それは、「Vision」 という英語の語義通り、「見通し」 や 「先見性」 「洞察力」 という意味の言葉 である。
本人が採点しても無理があるがw
- ・既に起きている事実
・事実を組み合わす事で起きる見通し
があるよなぁ。
見通しが 「今後大変そうだ・・・」 ではなくてw 具体的な例を書いてるし、おいおいサービスインされそうなものがあるよな。
そんで、ブラッシュアップした 「これから何が起きるのか」 は
コレだったな。先日NHKのスーパープレゼンテーション (TED) で、MIT所長の伊藤穰一も
- 「今後人の寿命に変化が起きるので、その際のルールを今から議論始めないといけない」
みたいな事言ってたしな。数年経ったが技術的には目の前の話になってる訳で、コレは結構当たる可能性高いと思うなぁw
金持ってるやましい人程死ぬのが怖い傾向が強い訳で、開発費出るだろうしなぁw
17:その 「ビジョン」 が見えたならば、企業の経営者であれば、「その変化が、自社の事業にどのように影響を与えるのか」 を考え、「企業戦略」 を考えることができるようになる。もし、それが、就職前の学生であれば、「その変化が、自分の進路にどのような影響を与えるのか」 を考え、「個人戦略」 を考えることができるようになる。
- “何か具体的に現場行動はしないにせよ想定はする人”(その上で現場も能動的に動く促しをする人)
だと思っている。特にトップはその想像力が全てとも言えると思う。
※ “より結果が出せる(より儲かる)” という点において限定だ。”オレの経歴が汚れる” みたいな想像力は必要ないw
しかし
- 「そんな未来は嫌だ!」
「その上で今出来る事教えてくんないと!」
みたいな事があまりに多いので、疑問感じるんだよなぁ。
「収入をいかに増やすかという方向に動かなくてはならない… 目標は、ケーキをいかに切り分けるかではなく、ケーキをいかに大きくするかだ」
スクーデリア・フェラーリの代表、マルコ・マティアッチが、バーニー・エクレストンに先日言い放った言葉だが、企業運営にも言える事だと思う。
18:「志」 と 「野心」、何が違うのか?
端的に言おう。
「野心」 とは、
己一代で何かを何遂げようとの願望のこと。「志」 とは、
己一代では成し遂げ得ぬほどの素晴らしき何かを、次の世代に託する祈りのこと。
⇒年収1千万とかそれ以上とかは、”てめぇの範囲だけ” なので野心だな。
AZZLOの
は、既にAZZLOの肉体のリミットを超えた話になっちゃってるから志だよなw
そして、
ちゃんと金を手にした人は、こうなると思う。
19:「戦略」 とは、「戦い」 に勝つための 「策略」 のこと。
といったものであろう。
たしかに、この定義は間違った定義ではないのだが、「戦略」のレベルの知性を磨こうと思うならば、全く違った定義を心に置いて見る必要がある。
それは、何か?
「戦略」 とは、「戦い」 を 「省く」 こと。
すなわち、「戦略」 とは、「いかに戦うか」 の思考ではなく、「いかに戦わないか」 の思考 に他ならない。
- 「googleによってあの会社が潰れた。あの業界が不況だ」
って話無いもんなw
20:真の知性は、「戦って相手を打倒し勝つ」 ことに価値を置くのではなく、「無用の戦いをせずに目的を達成する」 ことに価値を置く。
⇒ “金持ち喧嘩せず” だよな。現実は、ただ逃げるだけの小金持ちばかりだが・・・w
21:経営者や起業家であるかぎり、経営資源を無駄遣いするべきではない。しかし、経営者や起業家、リーダーであるかぎり、そうした 「経営資源論」 を論じる前に、深く理解しておくべきことがある。
人生が懸かっている。
そのことを理解すべきであろう。
どのような戦略にも、そこには 「かけがえの無い人生」 が懸けられている。
そこには、部下や社員の 「かけがえの無い人生の時間」 が懸けられている。
⇒AZZLOはプロダクションさんに対して、こんな考えあるな。
- “スキルのマッチングではA社だが、B社の○○クンだったら楽しんでやってくれそう (故に徹夜も苦じゃないだろうw)”
的な事考えるもんなぁ。出来れば
- “B社の○○クンだったら、AZZLOが想定してお願いしている範疇を超えて、共に達成出来そう”
ってのがいいんだよな。
そして、AZZLOに “CM投下の上の受け皿サイト” の製作ディレクション案件が降ってこないのは、偉いおっさんの配慮を感じるよな。いつも有難うございます。
※今だに 「WEBはAZZLOクン」 という評価 (レッテル) を持って頂いている営業さんが居るが 「何時の時代だよwww」 と思うw
22:これまでの戦略思考は、「山登りの戦略思考」 とでも呼ぶべきものであった。
すなわち、あたかも山に登るときのように、地図を広げ、地形を理解し、目的とする山頂を定め、その山頂に向けて、どのルートで登っていくかを決めるという戦略思考 であった。
しかし、世の中の変化が急激かつ非連続になり、企業や組織をめぐる環境が予測不能な形で目まぐるしく変化する時代を迎え、これまでの 「山登りの戦略思考」 では、その環境の変化に対応できなくなった。
では、こうした時代に、どのような戦略思考が求められるのか?
「波乗りの戦略思考」である。 ~中略~
「戦略的反射神経」
その知的能力が求められる。
“山” って大概頂上が最初から見えてるから “頑張れば達成出来る” 的考えだよな。
今の時代、無重力状態みたいなもんで、上に進んでたら
- 「あら!?どうやらオレら遠ざかってねぇか?」
って事になるからなぁw これはイケてる偉いおっさんでもかなり難しい事だと思う。
23:「戦術」 を考え、実際にその 「戦術」 を実行したとき、それが成功裏に進む場合と、成功裏に進まない場合がある。そのとき、いずれの結果であっても、その 「戦術」 を実行した経緯を仔細に振り返り、それを思考の中で徹底的に 「追体験」 する。そして、そこから 「戦術」 の改善策を学ぶことのできる知性、それが 「反省力」 と呼ぶべき知性である。
⇒組織では競合プレゼンで勝っても負けても、報告会ぐらいはあっても、次に繋がる材料を見つける機会は全く行われない点をAZZLOは不思議だと思っている。
負けた場合は 「誰が悪かったか?」 になりやすい点は注意しながら、”負けたけど良かった点” 等も整理すれば、その後に活かせる材料になると思うんだけどな。
そして、”追体験” するには、可能な限り事実に近いログがあった方が良いよな。9番に書いた通り、ビッグデータの一つのメリットはその点にもあると思う。
24:「私淑」 とは、「この人が私の師匠だ」 心に定め、その師匠の姿から 「智恵」 を様々な形で学ぶこと。
この 「私淑の技法」 としては、例えば、
「師匠からは、まず、リズム感を学べ」
「師匠からは、次に、バランス感覚を学べ」
「師匠の 『技』 だけでなく、その奥の 『心』 の動きを注視せよ」といった様々な技法があるが、この 「私淑の技法」 を身につけているか否かで、同じプロフェッショナルの下で修行をしても、その成長の速さに圧倒的な差がついてしまう。
- ・単純に “爆音ダンスミュージック” という点でのリズム
・選曲や流れのバランス
・1995年から20年間のWADAの変化
だもんな。DJはここ数年現場では聴いてないが、WEB上にアップされてるのは聴いてるし、曲は全部買ってる。
25:著者は、職業的な立場から、様々な分野の一流のプロフェッショナルの話を聞く機会があるが、その多くのプロフェッショナルが共通に語るのは、若き時代に私淑した 「師匠」 の話である。
いわく、
「自分の今日あるのは、あの師匠のお陰だ・・・」
「師匠の横顔と後姿から学ぶものが、すべてだった・・・」
「あの師匠は、仕事に対して本当に厳しい師匠だったな・・・」といった話である。
しかし、ここで気がつくことは、この一流のプロフェッショナルが懐かしく振り返る、優れた 「師匠」。
しかし、この 「師匠」 の下で働いたのは、彼だけではなかった という、冷厳な事実。
この 「師匠」 と縁を得て、誰もが一流のプロフェッショナルの道を歩んだわけではない。
⇒AZZLOが “一流のプロフェッショナル” かどうかはどうでもいいがw 今だに 「WADAWADA」 言ってるのは確かだなw
そうだ、多くの人に感じる疑問の根本は
- 「今の貴方で貴方の師匠に会えるの?(そもそも師匠居るの?)」
だな。
AZZLOにとってのWADAは “神” だったのが “師匠”(人間) になってきたので、近年会えるようになったな。逆に “会う (参拝する) 事が愛・リスペクト表現ではなくなった” から行かないのだ。5番の
- 真の 「愛情」、すなわち、相手に対する心の 「関係」 を断たぬということは、膨大な精神のエネルギーを、我々に求める。
が、AZZLOにとってのまさにWADAだw
デニーさんとは、一緒に温泉行ける仲間になりたいな♪
松本秀人は死んじゃってるから会えないがw 生きてたらどうAZZLOは思うだろうなぁ・・・。
いずれにしても “自信を持ってご無沙汰の先輩・師匠に会えるか?” という軸はAZZLOは強く持ちたいと思う。
26:我々が、真に 「人間力」 を磨きたいと思うならば、為すべきことはただ一つ。
「心の動き」 を感じ取る修行を、積む。
言葉にすれば、それだけである。
では、「心の動き」 とは、何か?
三つある。
一つは、「自分の心」 の動き。
一つは、「相手の心」 の動き。
一つは、「集団の心」 の動き。
27:「エゴ」 という存在は、しばしば、我々の心の苦しみを生み出す元凶となり、他者に害を与える原因となる厄介な存在 でもある。
それゆえ、ときおり、「エゴを捨てよ!」 といった宗教的なメッセージを語る人もいるが、実は、我々の心の中の 「エゴ」 は、捨てることはできない。消し去ることもできない。
なぜなら、この 「エゴ」 があるからこそ、我々は 「生きている」 のであり、「生活していく」 ことができる からである。
では、我々は、この厄介な 「エゴ」 という存在に、どのように処すればよいか?処し方は、ただ一つである。
ただ、静かに見つめる。
すなわち、「エゴ」 の動きを、ただ、静かに見つめる。それを否定しようとせず、抑圧しようとせず、ただ、静かに見つめる。 これも、言葉にすれば、それだけである。
しかし、それを行うだけで、不思議なほど 「エゴ」 の動き静まっていく。
実は、それが、「内観」 という修行 の、本当の意味である。
⇒エゴ=利己主義という流れで考えると、AZZLOはかなり “個人主義” だろうなぁ。
AZZLOのエゴは何だろうなぁ。物欲はキリがないが、今の収入でも適度に達成してるし、”組織内昇進” は少なくても今在籍している組織では目指す気も起きないしなぁw
“家庭を持つ” みたいなのも、大概は義務になるだけで、金があっても目指さないだろうしなぁw 逆に義務がなければ子供が居てもいいけども。(誰のDNA的子孫でもAZZLOにとっては同じだ)
結局死ぬ時に 「AZZLOクン合格です♪」 と言えるのは、AZZLOさんしか居ないので、他者の存在が無い気がするな・・・w
28:「自分の心」 の動きが感じ取れるようになると、何が起こるか?
「相手の心」 の動きが感じ取れるようになる。
逆に言えば、「自分の心」 の動きを感じ取る 「内観」 の修行をしないかぎり、「相手の心」 の動きを感じ取る力は身につかない。 ~中略~
しかし、我々が 「相手の心」 の動きを見誤るのは、ほとんどの場合、自分の心の中の 「エゴ」 が 「自分に都合の良い解釈」 や 「自分に心地良い解釈」 をするからである。
⇒“マーケティングとは相手 (生活者) の心を可視化する事” とも言えるが (少なくても広告業界の労働内容から紐解く上では)
“生活者不在のジャイアン施策” (「オレを褒めろ!!!」 だけで終わってる)
ばかりの現実は 「相手 (生活者)の心」 を感じていたとしてもスルーだよなぁw
おそらくマーケティング対象が生活者ではなく 「企業担当者の上司」 に摩り替わってる、”売上げ(成果・昇給)” というエゴが影響してると考えられるな。
29:役者の世界に、次の言葉がある。
「ある役柄を、情熱を込めて演じている自分がいる。
その自分を醒めて見ている、もう一人の自分がいる」
ここでいうのは、そうした状況であるが、円熟の役者は、さらにこう付け加える。
「その二人の自分を、さらに少し離れたところから見ている自分がいると、最高の状態だ」
この第三の人格、すなわち、複数の人格を、少し離れて見ている自分、醒めて見ている自分が現れてくると、この 「多重人格のマネジメント」 も、ある段階に達したと言える。
⇒自分は “代理店に務めるAZZLOクンを見守るAZZLOさん” の二人格が共存してる感じだもんな。
第三の人格は・・・
どうせこの世に 生まれたからにゃ
- 細く永くネバネバ Never Never
かわいあの娘も SUPER SONIC SLIMMY HOOKER
みたか 同じ地球の ベタベタ星人
僕と君との 被害妄想
無菌室で 分かち合おう
事無きを良しとし胸撫で下ろす
うじゃうじゃ・・・ナゾの生き物
役に立たぬ血統証は腹の足しにもならねぇ
それが君には一番大切 でんでん虫でもかまわねぇ
顔も知らぬヘノヘノモヘジのキサマラノツラにゃ
喰い残しの音符がブラさがってるだろうよ↑ こんな感じがAZZLOが疑問に思う人たちへの見解。
- 何年待ってみても
僕ら宇宙の暇人だろう
そりゃまあ誰だって凡人
言われなくても 誰だって知ってる
すがる物など 何も無い 己に入り込め
首輪外せないけど 誰も撫でないけれど
何処へでも走っていけるさ Bow wow wow
↑ AZZLO自身の状態。そうでありたい思い。
なw 「松本秀人だったらどうかな?」 ってのはやるけど日常的ではないなw
※松本秀人は “参拝者総数ダントツ日本NO.1!” なんじゃないかな。世界的にも10位には入りそうな気がするw
あ!最近出没しないから忘れてたが
なんか最近、”AZZLOじじい” という別人格が、AZZLOの未来の事すらもじじい視点で懐かしんでいる事があるかもしれない・・・。
ってのあったなw
30:哲学者たちは、これまで世界を 「解釈」 してきたにすぎない。
大切なことは、それを 「変革」 することである。(カール・マルクス)
⇒AZZLOもココで考察するだけでなく、具体的に動かないと頭でっかちなだけだからなぁ。まぁ動く際の肥やし作りっちゃぁそうなんだが・・・。
ま、故に 自主的案件 で企画して動こうとしてるんだが・・・ 「オレは前向きだ!」 と力強く言った上で1ヶ月以上、音沙汰無しの営業 ( ̄□ ̄;) によって結果的に “企画内容・動きが良かったか悪かったか?” の検証すらも出来ないんだよなぁw
人生かかってるのにホント失礼な人だと思う。最近上司には “あの認知症” というワードに切り替えたぞ。
・・・お陰で、読書感想文書く時間が出来て大変助かってるけどもw
読書のきっかけである 「”知性” はなんなんだ?」 は7番に書いた通り
“知識を経験で精査し引き出せる能力が智恵で、教養によって奥行きが加味された結果が知性”
こんな整理が出来たな♪
そして内容は、”一定の暗黙知になっていた事を言語化した本” と言えるな。経営者ポジションの人が読んでいておかしくない内容だと思うが、今後 “学歴偏重採用” に変化は起きるかなぁ?
新卒採用課題として “高学歴が必ずしもイケてる訳ではない” というのは明確になっている訳で、新たな採用判断軸のスタンダードが必要とされてるんだろうなぁ。
その解決手段は、2段階先の話だが、”生まれてからのログ” だろうな。その上で赤子に投資する企業が出てくるハズだと改めて思うな。
“高学歴をうまく活用する”(期待出来ない領域の明確化)のもしばらくは同時に必要だろうな。
そして高学歴でもそうでなくても
人であったら当たり前の事を担保する事で
“偉いおっさんは楽をして下々は愉しむ”
良い循環を目指す必要感じるな。
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