-読書感想- テレビは生き残れるのか / 境治

2011-10-25 0-53-52

テレビは生き残れるのか (ディスカヴァー携書)

2011年10月頃の読書。

各媒体の話とプロの仕事 に書いたように自分は結構テレビが好きだ。しかしたまに人の家で見ていた(現在は5月に買った)テレビは当時程面白いとは思えない。そしてテレビに限らず既存マス媒体は売れなくなってきている。

更に全体としてはWEB媒体の売上は伸びているが、既存媒体の売上減少をカバー出来る程は伸びていない・・・。

そもそもメディアの定義がWEBによって変化してきているとも思うが、特に自分はテレビと雑誌の企画力は馬鹿に出来ないと思っている。テレビが衰退すると同時にテレビの人材がWEBに流れて面白いものになれば良いのだが、かなり育ちが違うので上手く融合する事が出来るのか?
そんな視点からの読書だ。


1:そもそも、ぼくたちが現状、目の前にしているメディアの構造像は、ほんの最近完成されたものなのだ。高度成長期の時代に下地ができ、80~90年代に固まった。

テレビと代理店のビジネスについて このエントリーで書いたが、現在のメディア構造は、言ってみれば石炭の時代とも言えると思う。今後何が起きてもおかしくないハズ。

2:今日よりももっと豊かになるはずの明日の生活のデモンストレーション装置、それこそがテレビのもっとも重要な役割だったのだ。~中略~ 日本のマスメディアはこのように、高度成長、つまりは製造業の急激な成長と人口移動によって発展し、また逆に製造業の成長をサポートしてきた。

⇒確かにそうかも。時代的に意識が統一されていたし、WEBによる検索でニッチな趣向を追いかける事も出来なかった訳だし。

しかしWEBは上り回線によって自分の意思を表にする自己発信ツールとしても機能している。そして最近重要だなと思うのが、結局の所 “承認欲” を満たすツール であり実用されていると思う。

更に 承認欲の達成・未達成を明確にするガイド、言ってみればトレンドが必要 なんだろうと思う。

3:消費者があまり見なかったとしても、流通事業者に「テレビCMも展開します」と言えればいい。「テレビCMを打つなら、うちのコンビニにもその商品を置いてあげるよ」というわけだ。

⇒実際、認知のリーチで言えばテレビCMは圧倒的な効果があると思うのだが、「サイトのアクセスに全く影響がなかった」というCMも無くはない。これは流通対策と生活者向けの内容を混同した結果だろう。

正直こおいう目的を見失っている案件には関わりたくないしw 目的が明確であっても流通対策系の仕事はやりたくないな・・・w

4:インターネットの台頭に押されたという外的要因もあるが、そもそもテレビ放送とは、先に述べたとおり、工業化が進み経済成長を遂げる際に役立つ装置である。明日も必ず豊かになる時代の、その豊かさのデモンストレーションシステムなのだ。豊かな明日がまったく見えなくなった今の日本で、それが事業として成長するだろうか?

そしてそれは、テレビ放送そのものに関わる人々にとってだけでなく、すべての映像ビジネスに携わる者にとっての危機なのだ。なぜならば、この国の映像ビジネスの財務的な源泉はテレビ広告なのだ。第1章でざっと解説したように、テレビ番組やテレビCM製作だけでなく、映画もアニメーションも、すべてテレビに頼ってきた。テレビ放送に集まる企業の広告費が源泉だった。

⇒まぁだからといって、テレビに未来がないとは思えない。今のままだとニコ動に全て持っていかれると思うが、番組内容がソーシャルメディア化しつつあるし、やはりWEBの企画と予算では、到底出来ないような番組がまだまだあると思う。WEBはマネタイズが難しいし、上手く言っても長く続かない事が多い。

そしてビジネスについては、局自らがCSやBSやNOTTVやら、地上波以外のチャンネルを持つ事で、自らがマスの存在を無くそうとしている様に見えるな。映像視聴以外に手出せば地上波と共に成長出来た様な気がする。

5:無名の人々がこれほど創造性と自己発信力を持つ、そんな国も他にはないのではないだろうか。その能力は、インターネットでいかんなく発揮されている。ユーチューブやニコニコ動画では、名もない人が作った曲に、名もない人がつくった動画が、マッシュアップと称してあてこまれている。この国のこうした力は、テレビが強大だったからこそもたらせれたのだと思う。

テレビの力はこれから、弱くなってしまうだろう。ぼくたちはそこからもう逃れられそうにない。けれども、テレビによって培われたこの国の創造性は、これからまた別の新しい舞台で発揮されていくのではないか。

⇒”テレビが強大だったからこそ” については紐解いていくと面白いかも。おそらく

幼少時に夢中になったものがテレビ番組(映像コンテンツ)だった。

映像コンテンツを作ってみたい。

という影響・作用からだと短絡的には考える事が出来る。日本は他国よりもテレビの影響が強いが、しかし日本以外も同じ事になっていておかしくはない。

ここでもやはり “承認欲” を満たすきっかけ・しくみとしてWEBが機能しているように思うな。他国はWEB以外にも他に手段がありそうだ。

6:ぼくたちは、どのメディアをいつ見れば何が得られるかを知っている。だから、メディアが事業として成立するためには、まず対象となる人々の “生活のなか” に居場所を確保しなければならない。興味を持ってもらって一回試してもらい、その後は、そのメディアの使い方、放送日時、配布頻度などに応じて定期的に見てもらわねばならない。

そのために、それぞれの頻度に応じて内容を整えて、ターゲットとなる人々の生活のなかで一定時間を確保していく。メディアとはそういうものだった。けっこう大変だ。

⇒いわゆるテレビで言う所の編成の重要性だろうか。しかしメディアの編成に合わせて生活や趣向が変化している点もあるので、鶏卵かな。

そして、メディアの中でもWEBは企業においても既存マス・メディアと比較すれば安く作れる自社メディアも含まれる。しかし “言いたい事だけ言う” 自社メディアは “生活のなか” に入る事は相当なインパクトであったり、何かしら言いたい事以外の要素が必用だと思う。そもそも言いたい事に熱心に耳を傾けてくれる生活者は既にロイヤルユーザー であり、彼らとの関係維持として目的を絞るのであればOKだが、“新規層開拓” で言いたい事を言ってるだけのメディアは必要とされない だろう。

この意識の差異が、代理店としては儲けどころであり面倒臭くもあるのだが・・・w

そもそも既存マス・メディアへの関心は、”帰属意識” を満たしていた要素もあるし、その上で “承認欲” を満たしていたとも思う。

その点、現在は帰属や承認は、自らのソーシャルアカウントである程度満たす事も出来るので、必然的に既存マスメディアの必然性が薄れているという解釈も出来る。

成功とされるWEB施策やコンテンツは、その承認欲を満たす事で帰属意識に繋げているように思うな。人と繋がるきっかけ(誘える・自慢出来る等)が組み込まれていると思う。

7:ハードの開発とコンテンツはセットで考えたほうがいいので、もっとお互いに歩み寄るといいと思うのだが。いずれにせよ、今後5年ぐらいの間に、テレビとタブレットの連携はどんどん進んでいくだろう。

キーボードより優れた入力端末が生まれる良い機会になったかもしれないと思うともったないな・・・。任天堂を絡めて開発したらテレビは凄い面白い事になったかもしれない。

と書いたが、やはり高画質だけが売りの地デジはあまり意味が無いという事だろう。

8:番組を製作して最初の放送だけでビジネスにしようとすると、制作費に限界があるだけでなく、放送時の視聴率だけの価値づけになってしまう。15%、いや16%を目指そう、となってしまう。そうすると、その時々の瞬間風速の高いタレントを使ってにぎやかなことをやらせればいい、となるのは当然だ。だがそんな番組は、何度も見たくはならないだろう。放送した翌日にはもう見るに値しないものになりかねない。

⇒確かにそうとも思うが、”テレビは習慣・お約束” という安心感や、何も考えなくても良い点が良いという側面もあると思う。サザエさんが高視聴率を維持しているのは、お約束だからだろう。

そもそもメディアは “人と人を繋ぐきっかけ” であり、ソーシャルメディアの双方向性によって “装置” の意味合いも増えてきたものだと思う。

昔で言うならば、ひょうきん族 OR 8時だよ を月曜に学校で友達と感想を喋る為に組み込まれた習慣であったと言える。もちろん 習慣に達するには魅力と頻度の掛け合わせ だと思うので高い壁があるが・・・。

現在は日を跨ぐ事なく、ほぼリアルタイムに共有出来る点と、ログ化されるという点が大きく違う が、本質は変わらないと思うな。

9:あれもいいけど、これもいいし、今日は選ばなくてもいいんじゃない?だっていつでも選べるんだもん。そう言って、ずっと何も選ばなかったりする。

「いつでも、何でも選べる」ということは、意外と人を熱くさせないのだ。そして、コンテンツを視聴しようとすることは、けっこう “熱さ” が必要だったりする。しかしコンテンツが氾濫すると、その熱が失われてしまうのではないだろうか。

こんな状態が、音楽ではすでに起こり、映像でもこれから起こるのかもしれない。音楽であれ映像であれ、こうなってくると “どう選んでもらうか” が大事になってくる。膨大な数のコンテンツの前で途方に暮れるユーザーに、いかにホットな気持ちになってもらってひとつの作品を選んでもらうか。これからはそこを考えなければならないのだ。

⇒これはかなり同意だな。自分自身の生活行動が既にこうなっているし、”WEBはいつでもいくらでも見てもらえる” という発想は好きじゃない。金かけて作ったけど、誰も見てないWEBサイトはゴロゴロある。

「オレ、あれ見てきたぜ!」と言えるような限定感が、WEBにおいてはメリットである “いつでもOK” がデメリットになっているケースが見え始めていると思う。

かといって、単純に時間限定では面白くないし、更に “もったいないからアーカイブ化しておく” という貧乏臭さも嫌いだ。”どっちみち後で見れるなら今じゃなくて良い” と思われるに決まっている。

そのバランス作りは本当に難しいな。あちら立てればこちら立たないという事になりがちだ。

その点時間軸を壊したニコ動のコメント機能は凄すぎるな。

10:今後は、もっと積極的な意味で短い時間の映像が見られるようになるのではないか。「WEB上では長時間見てもらえない」という言い方には、どこか「本当はテレビや映画みたいに長いものが本物なのだが」という、消極的な気分があったと思う。しかしこれからはそうやって、”映画やテレビがえらい” と考える必要は、もうないのではないだろうか。

むしろ、3分とか5分とか、短い映像だからこそ、ビジネス的な合理性が出てくるかもしれない。短いからこそ、課金しやすい。短いからこそ、広告にしやすい。

今後、ツイッターやフェースブックで人から教わってコンテンツを見に行くことが増えるとしたら、見に行った先に1時間の長尺の映像があっても困るだろう。「これは面白そうだけど、次の機会にじっくり見ようかな」と後回しにされ、結局忘れられかねない。

⇒これもかなり同意だなぁ。先日アニメコンテンツ製作において、”1フレームづつ公開して「分からなさ過ぎる!!」” と話題になるプロモーションを考えたりしたがw 短さをメリットにする事が出来るだろう。1フレームの動画(静止画)を繋ぎ合わせるユーザーが出てくる事によって、生活者の介入する隙作りも達成する事が出来る。

あと、WEB視聴の時間的短さというのは、リビング OR 自室 というテレビとPCの違いが大きいと思う。そして、WEBはすぐに他コンテンツに移動出来るし、タブで開いておく等で、一時停止も簡単なので、長時間はハマらないだろう。

11:たとえ相手が1000人だとしても、その人たちが毎月1万円を直接払ってくれたら、1000万円だ。毎月1000万円でその1000人を満足させられれば、お互いの関係は成立する。

⇒揚げ足を取ると、毎月1000万丸々使ってたら利益がないだろうw

ま、コンテンツビジネスとしてはあり得る。スカトロ動画専門サイトが利益を上げるというような発想だろう。アマゾンの売上比率的に、ニッチな少数販売で7割達成しているという点も裏付けになる。”ほぼ必ず欲しいものが見つかるから最初にアクセスするamazon” であるが故、可能な事ではあるが。

しかしニッチな層とコミュニケーションを深くしつつも、広がる可能性を高めるようなコミュニケーションは非常に好きだが、既存の広告代理店とクライアントでは難しい方向だな。

また、ニッチというのは実際にマイノリティーなものもあるが、単純に顕在化されていなくて、気付けばマスになっている領域もいっぱいあると思う。というか時代で変化すると思う。例えば “恥ずかしくて言えなかった事が言える” とか “当たり前過ぎて意識になかった事” とかを表にしていく手法は非常に大事だなぁと思う。言い換えれば 免罪符作り” だな。

12:ある日、予想外にアプリが売れた。普段の十倍以上という驚くべき売上になった。どのプロモーションに効果があったか調べたがはっきりしない。やがて、その日の朝のテレビ番組で数十秒ほどそのアプリがとりあげられたことが判明した。

⇒自分も深夜の番組で自分が作ったWEBコンテンツが取り上げられた際に、アクセスはあまり変化がなかったが、”アレがテレビで紹介されてるwww” とツイートが多く見られた。やはり地上波は圧倒的にリーチはあるという事を実感させれた出来事だった。

13:たとえば「知育」というのはスマートデバイスらしいジャンルになりうる。iphoneやipadの「触って反応する構造」は幼児の興味を引きやすく、遊びながらアルファベットや算数を学べるアプリには世界的にもニーズがある。

-読書感想- 孫正義のデジタル教育が日本を救う / 中村東吾 ライフログについて

で書いたように、幼児からのログ化は今後大きなビジネスになるハズだと思う。故に転職するなら学研とかタカラトミーとかがいいなぁとぼんやり考えたりはするw

14:英語のcreaterとは「創造主・神」という意味であって、制作活動での特殊な職種の人々に対して使われることはないそうだ。商品などの「考案者・創案者」という意味もあるが、職業についての言葉ではない。

それなのになぜか、日本のぼくたちはこの “クリエーター” という言葉を使ってきた。この時点で大きな勘違いだ。

⇒ “CDショップにて製作者の出身地別にタイトルが並んでたら面倒臭い。故にトランス出来なくてもトランスというジャンル名はあっても良い” というのと同じで、言葉が何を指しているかなんて、暗黙知となればどうでもいいと思いつつも同意。

「AZZLOはクリエーターを目指せ」
「AZZLOはクリエーターだからな」

とかいう指摘は正直腑に落ちないし、

「AZZLOクンはクリエーターじゃなくてアーティスト」

とかいうのも良くわからない。そもそも、AKB48もアーティストと言われるんだから、クリエーターとかアーティストの定義がまったく分からない。どっちの名称も大義名分みたいな感じがする。

いわゆる代理店のCMプランニングとかコピーライターの部署を “クリエイティブ部” というのもしっくり来ない。

なんかクリエイティブっていうと偉い臭いがするが、代理店のクリエイティブ部の人が作った動画よりも、素人の猫動画の方が圧倒的に再生回数が多い点で、”広告” として負けてるし・・・w

大なり小なりクリエーターという役職じゃなくても妄想想像創造はみんなする訳なので、代理店の言うクリエイティブという言葉は本質的には間違っていると思う。

まぁ、クリエイティブという言葉が広告業界で何を指しているかが割と明確なので、共通認識として別に良いんだけど、クリエイトという言葉で考えるともっと身を削るようなとても大変な事な気がする。極論代理店の僕らは、”過去のボツ案を提案” しても労働としては一応成立はしてしまう。そぉいう点で、AZZLO含め代理店のクリエイターを括るのに一番矛盾がないのは “プランナー” だと思うな。

15:”過剰” な努力によってもたらされるクオリティーはもう、必要ではない。”過剰” は多大なる “無駄” を生み出してしまうからだ。でもぼくたちはこの震災で思い知った。もうこの国はムダなんて生み出さない。生み出してはいけないんだと。

100案のアイデアを、ミーティングに30時間かけて、たったひとつのアイデアに決めていた。もうそんなやり方はやめよう。通用しない。少数精鋭で、コンパクトな議論で、パパっと決めよう。そして進めよう。そう変えていかねばならない。

⇒ムダの定義にもよるな。”才能の無駄遣い” はポジティブな意味だし。そして震災で思い知ったかどうかは、微妙だな。

正直、ムダな人材を雇用しなければならないからこその現在の経済だしw まぁだからこそ成り立たなくなっているんだけども、逆に言うと消費してくれるムダな生活者が居るからこそ、今後もギリギリ成り立つであろうとも思う。

そして、”100案出せ” 的なクリエイティブ部の体育会系は確かに疑問が多い。“100案出して選別したこの案だからこそ、絶対に良いものであるハズだ” というインナーの免罪符にしかならないケースもあるだろう。当然バカみたいな切り口から広げられる可能性は否定しないが、ほとんど起きないような気がする・・・w

その選別に時間がかかって、提案ストーリーや資料がしょぼかったりしたら、良い案でも通らない気がする。全てバランスだと思うな。

16:ソーシャルメディア上で企業から依頼を受けてライティングを引き受ける職種が今後伸びていっても、ちっともおかしくないだろう。

⇒既にブロガーサンプリングとかいうビジネスが成り立っている。しかし日本の企業からダイレクトに一般アカウントの人に依頼という導線はきっと難しいだろう。

ちなみに自分はニコ生で非常に面白い放送をしている人に、ハマる案件があれば依頼しようと企んでたりはしている・・・。

17:ソーシャルメディアにはどうやら本質的に “自由” や “反権威” のような要素が思想的に含まれている気がする。だとすれば、”ソーシャルクリエイティブ” とは、本来の自由な表現を獲得する活動なのかもしれない。

⇒まぁ、だからこそFACEBOOKが世界的なSNSとしてこの短期間に広まったんだろう。人の反権威的な思いは、常に知る必要があったりする訳で誘発して監視しなきゃいけない人達が居るw

通信内容のチェックだけでは、その思惑等は吸い上げ切れない。よって吸い上げる為のきっかけ・装置としてFACEBOOKの普及を後押ししたという妄想だは可能だ。

ま、FACEBOOKの存在は置いておいて、人の意思を明確にするには、自由や反権威的なガイド、トンマナ、お手本みたいなモノを提示すると良いだろうな。

18:「○○道」的な大げささは忘れ、軽いフットワークでコミュニケーションに取り組むのが “ソーシャルクリエイティブ” なのだと思う。 だから簡単なのではなく、むしろだからこそ、むき出しのセンスが問われる。場合によっては人間性まで問われてしまう。これまでのこだわりを捨てて、そおいう軽みをよしとできるかが大事だと思う。

⇒例えば某政治の党から “若者にも政治に興味を持ってもらいたい!!” というオリエンがあった場合、”政治家をナウいファッションで人気者にしてあげよう!” みたいな創作系コンテンツを作り、みんな鼻毛書いたり、ほっぺた真っ赤に塗りつぶしたり・・・そぉいう “○○道をライトにしてみた” 的コンテンツは面白いかも。

言い換えれば 合法でいたずら出来るような “赤信号みんなで渡れば怖くない” 的コンテンツはウケる だろうなぁ。

19:プロだからこうじゃなきゃ、ああじゃなきゃ、という自らへの縛りは捨てて、思うがままの表現をかたちにすればいいのだと思う。そして、それをユーザーの人たちと一緒に楽しむ。彼らにも表現してもらう。彼らの表現によって刺激されてまたこちらも表現する。

“アーティスト” と崇められることを放棄し、ただひとりの表現を楽しむ者として、一緒に表現をつくりあげていくとだ。

もし “プロ” と言える要素があるとしたら、そういう場をつくりだし、中心となって運営することかもしれない。 “プロ” とは、自分を中心にして出来たコミュニティーの運営者になっていくことなのかもしれない。

⇒”彼らの表現によって刺激されてまたこちらも表現する” は自分が体験したクラブそのものだなぁ。

“自分を中心にして出来たコミュニティーの運営者” は、ニコ生の生主と視聴者の関係そのものだわ。

生主と視聴者の関係を見ると

“現在既にプロとして認識される様なアウトプットは要らない”
“未来にプロとして認識されるモノが育つコミュニティーに参加したい”

という事だと思う。

カフェでもサロンでもバーでもクラブでもニコ動でもなんでも良いと思う。ここで大造さんの “SPACE LAB” という西麻布YELLOWの定義を思い出すが、どの時代でも実験スペースこそがコミュニティーであったと言えると思うな。

20:個々の作り手を支える大きなファイナンスの仕組みが必要なのかもしれない。よく聞くことだが、ハリウッドには製作を支える金融的なシステムが整っているそうだ。プロデューサーが自ら資金調達できるのには、そういうバックグラウンドがあるということだ。

各媒体の話とプロの仕事 の最後に

“馴れ合いの上流” というカテゴリーもあるので、全員がそこを目指してしまいがちなのが、やはり気になる・・・。その上流に行った本人に金が入ればまだいいんだけど、ミクシィとサイバーエージェントにしか金が回らないのは危険だと思う。

と書いた。ニコ動はその点金の還元システムを意識していると思うが、FACEBOOKも少なくても現状は、”馴れ合える” で止まってしまっている。金を得るのに近い達成感が いいね! 数だろうから、いいね!を換金出来れば面白いんだけどな。おいおいそうなると思うけど。

いずれにしても、現時点で換金は難しいが、何か感情的に響くインセンティブ(認定)を権限とヒエラルキー構造として用意する事で、やりこみ度・熱中度に繋がっていくんだろう。ゲームも現実もモチベーションの構造は大差ないと言える。

21:フランスではまったく別のアプローチをしている。映画庁という国の組織があるのだ。そして、映画の入場料の5%を税金として徴収している。この税金を、国内の映画製作者のサポートに充てているそうだ。たとえばショートムービーの企画を公募し、採用されたものには制作費の補助が出る。完成した作品は必ずテレビ放送で流される。

⇒フランスという国は自分も住んでて実感したが、非常にヤクザであり、”人に投資し死んだら巨匠扱いにして回収” という長いスパンでのマネタイズを国単位でやっていると思う。

日本では国単位での数十年スパンは、すぐには難しいが、もうちょっと縮小して展開するのは必要だし、企業や1コンテンツの生活者との関係性に、こういったシステムの考え方を導入しているものは、上手くいっていると思う。

22:映像ビジネスは20世紀の産物だ。そしてその20世紀は十年も前に終わっている。21世紀にはそれにふさわしく生まれ変わった映像ビジネスのやり方があるハズだ。

2020年の映像ビジネスの姿を、そのときのメディア構造を、製作の現場を、ぼくたちはイメージしなくてはいけないと思う。そのうえで、何をどうしたらいいのか考えたい。そのために痛みも必要なら受けようではないか。それによって十年後への希望が見いだせるのなら、それはちっとも痛みではないのだから。

⇒そぉいえば予算が約1.5倍になった! 案件はWEBコンテンツであるが、映像をかなり多用している。ウチの会社とクライアントは地上波で放送するコンテンツに育てたいみたいだ。(自分もそうなったら凄いとは思うが)

しかしテレビ放送に辿り着くには、金が結構かかるし、既にウチ、WEB会社、映像会社、音楽会社、出版会社が絡んでいて、更にテレビ局も入ってくると、むちゃくちゃ面倒臭いだろう・・・。

更に 「金出すから番組化しなよ!その分ゲーム化の権利をウチに頂戴ね!」みたいな会社も既に数社居るので、そういうプレイヤーも参加するならば、それぞれの思惑が交差して大変過ぎるのは目に見えている。当然クライアント判断もある。

であるなら「ニコ動で良くね?」とか自分は思うし、ニコ動以外の可能性もいくらでもある。

“あえて各地の街頭ビジョンでしか流さない映像コンテンツ”

とかにすれば、それを撮影して、”鑑賞している人も映っている” 映像作品として昇華したりしそうだな。このように生活者が介入出来る隙を残しておくのが重要だと思う。


テレビに限らず映像ビジネス全般に触れていたし、ソーシャルで映えるコンテンツという点も指摘していて、結構良い読書だったなぁ。

そして読書後約1年経ち、テレビ番組化が課題の案件がある今だからこそ、22番の引用は重要な投げかけとして受け取る事が出来たな♪

まぁテレビ番組化は、消極的に言えば自分の課題ではなく、会社のそぉいう部署の課題なんだけども、真っ当に番組化を目指してポシャるぐらいだったら、新しい取り組みにチャレンジしてみたいなとは思うな。

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