ドラマ “伝説の教師” を見た

車案件の弟分営業から、どんな流れか忘れたが、”伝説の教師” を見るように言われる。

最近、年上・下関係なく、「学校の教師になれば?」 とか言われるのだがw まぁその流れだろう。

なんでも松本人志の最初で最後の主演ドラマなんだとか。そして原案は松本人志との事で、彼のロジックが詰まった作品なんだろう。期待して見る。

第1話からして面白い。キャスティングもイイ。松本演じる南波先生は

・貧乏である
・無免許教師である
・屁理屈野郎である

そんな辺りが自分と近しいと感じるw

強制ではなく、能動的に人を動かす事を例えるのに

・「フンコロガシにフンを転がしなさいと強制させたところで、そいつはもうフンコロガシやなく、フンコロガサセラレや」

に始まり、非常に本質的に感じる名言ばかりであった。

自分の

人はより良いSEXしたい為だけに生きてる
人を触れずして犯す悪趣味な遊びです。
「給料上げないで下さい。この会社に真っ当なフィードバックを求めるなんて、”知恵遅れにカツアゲするようなもん” です。僕はそんな悪いヤツじゃないです」

※こないだ子会社の人事に言った。

に近い 「分かるけども言い方が・・・w」 的な置き換えが痛快だw (自分の場合伝わらない場合も多いが・・・w)

・「中途半端な正義が一番の悪ちゃうんか」

これは自分が学校の先生に感じていた事そのものだ。金八先生の様に真正面から生徒とぶつかる気力がないのであれば、「生活費の為にやってます」とはっきり言えよ!と思っていたからだ。
・「人間の唯一の特権は笑うことや。人間は笑うために生きとんのや。」
・「無免許運転しようがセックスしようがお前の勝手やけどな、笑いながらせな何の意味もないんじゃ。」

孤独好きな自分だが、人とコミュニケーションを絶ってみるとどうなるのか? パリに行った初期段階は近しいものがあったが、あえて日本で実験した際に感じたのは、”笑わないとおかしくなるな” というもので、自分が調子悪い時は、笑っていない時期であった事を実感していた。

2008年の年末、会社が終わってから出社するまで、たまたまゲンシさんが遊びに来た のを除くと誰とも会話をしなかった。その時に思ったのが、”顔の筋肉使ってないとこんなにも調子悪くなるものなのかw” という事で、笑うことの重要性を理解していた。

・・・しかし自分は嫉妬心等でイライラしていると、いわゆるハングリー精神が満たされるのか?とてもイケイケな気分になる。孤独を理解して笑える会話があるとベストなのかな?ここは今後整理していきたいポイントかも。

・「イジメなんてこんなおもしろいもん無くなるわけないやないか 虐められるのが嫌だったら虐め返すしかないなぁ それが嫌だったら笑いに変えてまえ 」

資本主義の燃費悪いヒエラルキーに足引っ張られる自分としては、既にやっている事。共感する。※ヒエラルキーそのものは肯定的です。

イジメや不条理な言動というのは、相手の凸によって自分の凹を認識し、コンプレックスを強めるからこそ生まれると思っていて、苛め苛められるというのは、最終的なアウトプットは不器用で問題があるが、ある種真っ当なコミュニケーションと考える事も出来る。

それに苛めという言動ではないにしろ、自己確認の中で他者と比較した上の優越の確認や、”実は馬鹿にしている” などの感情は、今の社会構造ではあって当然だと思う。自分も人と比較して優位性を醸成・納得して、コンプレックスを感じないようにしている場合もある。”自己満足が指標” の自分とは言え、ある程度免罪符の材料は必要なのだ。

大なり小なりではあるが、純粋な自己満足に達せれるように、自分を矯正していきたいと思う。

“いじめられっこ当番制” を実施したのも、現実の社会を分かりやすく体験・説明させている非常に良い取り組みだと思った。負は無くなったと思っても必ず存在する。それ故にあえて表に出してしまったというのは、バカボンのパパ並の発想だと思う。

・「だったらなんで俺は死ねへんねや 人生に意味なんかない さよならだけが人生や、そこまで思てる俺は何で死ねへんねや」
・「人生なんかなぁ楽しいもんやないんや!だから楽しまんなアカンねや!」

超共感。どうせ死ぬ時は1人だ。死を前提として “肉体あるうちにいかに楽しく過ごすか” をベースにしていれば、あまりストレスは無いように思う。
・「生き物にはなぁ死ぬ為に生まれてくんねや…次の肥やしの為にいちいち生まれてくるだけの物なんや 死ぬとか生きるとかそんな事考えてる事自体がおかしいんや」

スペシャリストの集い で書いた

おそらく人が死ぬ時に思う恐怖をごまかす免罪符は「自分の子孫は自分よりも幸せであろう。そのバトンを渡せた自分は有意義な人生であった」のだと思うんです。故に肉体あるうちに、その可能性を高められる行為には夢中になるのはないかと、考えてます。

に近い発想だと思う。”諦めた上でさぁどうするか?” という発想が必要だと思う。

その点で、宮崎駿の都市論 にあるように、”子供が死を目の当たりにしながら生きていく” 環境は必要だと思う。

自分もそうだが、時代の流れと共に、死の現実味が薄くなっているように感じる。前提を忘れたら現在も作れないのではないか?なんて考えてしまうな。

・「何か1つでもええ、学びたいという気持ちがあったらなぁ、原っぱやろうが公園やろうが工場やろうが、そこが学校になるんと違うんかい!逆に、何か1つでもええ、与えられるもんを持ってたら、それが例え、おじいちゃんやろうが幼稚園児やろうが教師になれるんと違うんかい! こいつらが学びたいと思うことを、おまえらが何1つ学ばしてやられへんから、学校がどんどんどんどんおもしろーなくなってるちゃうんかい!俺に言わしたらなぁ、おまえらのやってることは教育やない、学校の押し売りじゃあ!!」

この本質を分かりやすく日本語にしたのは凄いと思う。社会が寺子屋でなければならないという解釈が出来る。

自分の場合は、学校には学びのモチベーションを刺激されるものはなかった。それよりもクラブで、WADAによる “知らないものを知る快楽” に魅了されたし、調子イイ奴が自滅していく様子、謙虚なヤツが着実に地盤を気付いていく様子を観察するのが、自分の学びであったと思う。そして苦境にある人が這い上がる様もである。

リアルの生き様を見なければ、学びにはならないと思う。

・「良い大学出て必ずしも進む道が良いっては限らないですからねー」

・「お前何や名前無かったら飯食われへんのか名前無かったら小便できへんのか肩書き無かったら生きていかれへんのかい! 」

これはつくづく自分の芯だな~と思うw

・・・ってな感じで、めちゃくちゃ共感しつつも、これが人気ドラマであり、DVD化熱望されている作品であるというのは、自分には好都合だ。

ドラマの続編の期待もあるようだが、ドラマではなく、教育バラエティー番組みたいな形でもなんでもいいので、”こぉいう発想もある” というのを、松本という有名・成功者が言い続けて欲しいなと思った。

どんなに良い教師であっても、自分のように「給料出なかったら、それ続けるのかよ?」という屁理屈学生は居なくならないだろう。松本であれば、生活費の為にやる訳ではない事が分かるので、意味がまったく違ってくる。

彼の番組や生き様を見ていればある程度読めるし、このドラマを見た後では更に読めるが、視点を変えて解釈したりしなければならないので、辿り着く人しか辿り着けないだろう。
xy軸軸の判断の人にとってもz軸の存在に気付くような取り組みを期待したいと思う。

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