-読書感想- つらい記憶がなくなる日 / 榎本博明

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つらい記憶がなくなる日 / 榎本博明

2011/6/6発売。2011年12月頃の読書。

2011年は転職を検討していた ので、嫌な事象を忘れたかったのか?w ま、2011年から不眠症が明確になり、今となっては1回2時間しか寝れない日が多くなているが・・・w まるで老人であるw

ココの過去記事を検索してみると、”記憶” とういワードを非常に多く使っている事に気付いた。

ネットは無限の記憶力を有している。「はじめて喋ったつもりのギャグは30年前に誰かが言っていた」なんてことが起こるだろう。

(フォールス・メモリについて)記憶は思い出すときにかなり歪み、本人さえもそれに騙される。

今の自分を説明するのに都合のよい記憶が選ばれて自己物語を構成しているのである。

といった、読書からの抜粋や

自分の記憶に不安がある

解釈によって記憶が歪んだという経験をした

“記憶⇒テスト” の繰り返しは本来学びではない。

記憶と感覚を明確に分けているのがポイント。日本だといずれも “知識” で統一されているだろう。

こんな経験、思いがある。

更にAZZLOは

“記憶=事実+解釈”

と考えていて、この “解釈” を多少調整してみんなポジティブになれたら、面白いんじゃないかな~とか思ってたかも?

いずれにしても、人は記憶の為に生きていると思う。

広告においては、一定期間は短期的記憶に残らなければ機能しない側面が強い。逆に短期的記憶に残らず潜在意識に残る方が良いモノもある。・・・よって何かしら記憶のコントロールロジックみたいな事を学びたかったんだと思う。


1:作家や著名人でなくても、人は自叙伝を綴りながら暮らしている。生きるというのは自叙伝を綴ることだ。

だからだれもが 「自分らしく生きる」 ことへのこだわりを捨てられない。そのようにして綴られる記憶のことを自伝的記憶という。私たちの人生は、自伝的記憶として私たち自身の心に刻まれている。

⇒ 周りからの “レッテル” “偏見” みたいな事で、自分らしさを確認したりもするしな。自伝であるという事は、ストーリーもある訳なんで、辻褄が合わない流れは起きないようにしていくもんだしな。

ポジティブな差別(尊重)で、皆、自身を理解し、周りを尊重出来ると良いんだろうな~。

2:過去というのは客観的事実ではない。客観的に自分の外にあるものではない。自分の記憶の中のものである。そこにあるのは、主観的な意味づけだ。

⇒”記憶=事実+解釈” だな。

3:私たちが過去のできごとを思い出すとき、ビデオの再生のように過去に起こったことをそのままに再生しているわけではない。「あのとき」 を現在に呼び戻しつつ、今の自分が生き直しているのである。「あのとき」 のできごとを、今の視点で意味づけしながら、新たに体験しているのだ。懐かしく思うのも、悔しく思うのも、楽しかったなあと思うのも、紛れもなく今の自分である。

過去を振り返ることに伴う新鮮さのルーツはそこにある。

なんか最近、”AZZLOじじい” という別人格が、AZZLOの未来の事すらもじじい視点で懐かしんでいる事があるかもしれない・・・。

「未来に懐かしむ為の覚悟である」 なんてかっこ良く言えそうだが、実際は単純にやり忘れたりする事も誘発しているな・・・w

4:過去にフタをしていては、いつまでたっても豊かな人生は手に入らない。人生が自伝的記憶であるなら、豊かな人生を手に入れるためには、自伝的記憶を豊かにする必要がある。過去にフタをしていると、記憶へのアクセスが悪くなり、自伝的記憶がぼやけてしまう。

⇒AZZLOもどこかでフタしてる部分はあるのだろうが(無自覚)、なるべくココに事実に近い記憶と解釈をログで残す行為は、記憶へのアクセスをエラー無く引き出す為と言える。

5:精神分析学者の岸田秀氏は、隣の家に養子に出されたのだが、実母の家に行って母親のオッパイに吸いついたら兄にどけられた幼児期記憶があるという。そのとき、その母は実母なのだが、戸籍上は母親ではないわけだから、自分には権利がないんだと思ったという。

ここで不思議なのは、母親のオッパイに吸いつくような年頃の子が、戸籍上の権利などということをはたして考えるだろうかということである。まずそれはあり得ないだろう。となると、この岸田氏の幼児期記憶の光景はほんとうに当時のできごとに基づいているとしても、そのときの思いはもっと後につくられたものと推測すべきではないだろうか。記憶の素材は当時のものであっても、その意味づけは後に行われたというわけだ。

⇒と、同時に兄が何歳かにもよるが、独占欲みたいなものも幼少から存在するという事が分かるな。

6:記憶というのは、どんな些細なことがらと思われるものであっても、本人にとっては記憶する価値のあるものなのである。自分にまつわるエピソードが語られるとき、重要なのはエピソードそのものではなくて、そのエピソードがとくに記憶され、想起され、語られたということなのだ。そのエピソードが本人の人生の流れの中で重要な位置を占め、人生の意味を暗示するものであるからこそ、わざわざ記憶され、想起され、語られるのである。

⇒ここで良く書く過去は、最近だと特に 虐め の件だろうか。ヒエラルキーは尊重しているAZZLOだけに、上がおかしな言動をしたという象徴的事象なので、濃い記憶となり、更に何度も書いているのだと思う。

あとは、20歳までに接した人達の事かな。やはりそういう時期に接した人達の影響で人格の多くは形成されていると思うので、自分を知るには過去を整理してみるというのは、みんなやってると思う。

7:記憶の再構成を疑わせるのは、幼児期記憶に含まれる他者の視点だ。たとえば、自分自身の姿が見える記憶はいかにも怪しい。なぜなら、自分の目に自分自身の姿が映るわけがないからだ。その記憶は、明らかに自分を見ている他人の視点を取り込んだものと推測される。

⇒AZZLOは幼少期の記憶が自分視点の記憶がほぼ無い。幼稚園の中の記憶だけは多少あるが、幼稚園以前はゼロかな。

子供の頃から自分の写真を見て、「こんな事あったっけか?」 と非常に不思議な感覚だったという記憶はある・・・。

事象は覚えてないが小4ぐらいから 「もう文字も書けるし普通の生活に必要な算数も出来る。先生の正義とは関係ない教育メニューを淡々とこなすだけの公務員から教わる事は無いな・・・」 という感情が芽生えた気はしている・・・w 小6あたりで確か先生に直接言ってえらい困らせた気もする・・・。

8:他人に覗かれる心配のない自分の頭の中の記憶と違って、日記は他人に読まれる恐れがある。たとえ生前に盗み読みされる恐れのない場合でも、自分の死語にだれかの目に触れる可能性がある。そのためどんなに正直に書いたつもりの日記であっても、そこには他人向けのポーズが無意識のうちに入り込んでいるものである。

⇒まぁココも当然多少のバイアスはあるよな。故に誤字チェックとかはしっかりやっているつもりw

9:他人に向けたポーズを割り引く必要はあるものの、ある意味ポーズも含めて当時の自分をあらわしているのであり、日記は過去の自分と出会うことを可能にしてくれる記憶の貯金箱といってよいだろう。

⇒過去の記事を見ると 「なんでココで w なんだ?」と思う箇所が結構あるんだよなw そんな今と過去の自分の差異を確認するのは面白い。

10:独りよがりの話では、相手に納得してもらえない。

そこで、辻褄の合う流れになるように整理しながら話す必要がある。そうしているうちに、頭の中で漠然としていた考えや思いがはっきりとした形をとってくる。偏った考えや感受性に浸ることなく、より広い視野をもって冷静にものごとを見ることができるようになる。

⇒なんでも頭にあるものを文字でも絵でも音でも、アウトプットして、改めて自己をインプットすると洗練されていくと思う。日記も企画書も曲も同様であると思う。

11:記憶も変容している。新たな記憶が蘇るのみならず、同じできごともこれまでと違った視点から眺めることで、違う意味をもつものとなる。それに伴い、思い出すことで引き起こされる感情も、違ったものになってくる。

⇒アナログレコードみたいな感じだな。

12:幼児期に親との愛着関係が不安定とみなされた人物が、安定しているとみなされた人物と比べて、自分の幼児期を不幸だったとか不安定だったと回想するかというと、そのようなことはなかった。その代わりに、自分の幼児期を否定的に回想する人物は、肯定的に回想する人物と比べて、現在の生活に適応していないといった傾向が見られたのだった。ここから、自分の幼児期をどのように回想し、評価するかは、実際の幼児期の様相よりも、現在の生活の様相によって決まることがわかる。

⇒AZZLOは幼児期の記憶が 「こんな事あったっけか?」 と戸惑う記憶ぐらいしか無いから回想出来ないな・・・w

13:私たちは、ともすると記憶は過去に属するものと考えがちだが、じつは記憶は想起している自分の視点から再構成されたものであり、現在に属するのだ。このことを忘れないようにしたい。

⇒記憶は常に都合よく更新していってしまうからな。

事実:”AZZLOは既存の代理店が嫌いで、いつまでも居れるような雇用でも無いと言っていた”
解釈:”AZZLOは近いうちに辞めるらしい”

現実に口コミでも起きそうな解釈の滲みっぷりはこんな感じだろう。

という事は非常に起こるからな。

14:それは、私たちの記憶は書き換えることができ、私たちは自分の過去を変えることができるということである。(中略)

ここから言えるのは、今あなたが抱えている自分の過去についての記憶は、いくつもあるバージョンの中のひとつに過ぎないということである。振り返り方によって、同じあなたの過去から、何通りもの物語を生み出すことができる。

虐めを受ける と、”被害者は加害者になる” 的な事もありえるが、”人の痛みが分かる” 的になったりするしな。

15:実際に経験したことの違いよりも、記憶のつくり方の違いの方が大きいのではないかと思うのだ。その証拠ともいえるデータが、多くの心理学実験によって得られている。

その種の心理学実験では、記憶が気分を引きつれてくるという原理を利用して、楽しいできごとを思い出させたり、悲しいできごとを思い出させることで、楽しい気分や悲しい気分に誘導するというやり方がよく用いられる。(中略)

楽しい気分に誘導されて読んだ人たちは楽しいエピソードを多く思い出すのに対して、悲しい気分に誘導されて読んだ人たちは悲しいエピソードを多く思い出したのである。こうした結果からわかるのは、自分の気持ちに馴染むことがらは記憶されやすいということである。これを気分一致効果という。

⇒この記憶を作る前のフィルター(解釈)をどうするか?が教育と言える感じするな。

そして組織運営についても、この動画の様に行えると思う。逆にテロ組織なんかは悲しい気分・怒りを煽りモチベーションを煽ったりするんだろう。

16:生い立ちは客観的な形で記憶を形成するのではない。心の中で意味づけされながら記憶となっていくのである。同じような生い立ちも、その意味づけの仕方しだいで、ポジティブな未来を呼び寄せる記憶にもなれば、ネガティブな未来を呼び寄せる記憶にもなる。

⇒以前生い立ちを追っかけてみた事があったな。

何故自分は上から目線なのか考えてますw -生立ち編1-
何故自分は上から目線なのか考えてますw -生立ち編2-

そして、幼少の頃、ロータリアンであるAZZLOの祖父、祖父の友人である大学教授、政治家等は 「学校には行くな!あそこはバカ養成所だからだ」 と言われていた。 という記憶は事実ではない可能性がある・・・。ずっと引きずっていた記憶のように思うが、書いたのは最近なのだw
少なくても祖父から 「芸大出た所で職なんかない」 は連呼されてた気はするが・・・。

いずれにしても、履歴書的に通常AZZLOは臆病になるスペックだがw “中学中退なんて今の時代そうそう居ない” と思うと、とりあえず自己紹介で目立つんだよな。良くも悪くもw 更に

「スペック無くても普通に生きられる」

という自信があれば、スペック希望者は認証業者の肥やしにしかならんって事に繋がってくる。

AZZLOを育てた先輩達は、いわゆる高スペックではない人達が多いが、彼らの方が、サラリーマンの偉いおっさん達よりも金持ってたりするし、何よりも “ファン” という存在が居るんだよな。

スペックはあっても構わないが、依存し自己防御・他者攻撃する為の意味付け、周りの為に使うわなければならない意味付け (ノブリス・オブリージュ) であるべきだと思う。

そうでない場合、中途半端な大卒者は使い物にならない という事に繋がると思う。

17:うつと記憶の間には密接なつながりがある。過去の辛いできごとの記憶を反芻するクセのある人は、うつに苦しめられることが多い。

⇒AZZLOは半分フランス人なのでw

常にこうなので、疑問を感じる事を非常に考える。ココの記事なんかはその象徴な訳でw 適度な鬱はクリエイティブな感じする。

ストレスチェックでは

“ストレス高いが、解消する手段を持っているので大丈夫”

ってな結果だったな。メンタルケアの先生もそんな事言ってた。

でも、通常ガチな鬱になる要素(環境)は揃っているらしいw

OLランチの愚痴とか聞こえてくると 「それ愚痴になる!?」 とは思うしなw

18:未来に対して希望をもち、明るい未来予想図を描くために、過去についての記憶をポジティブな形に整理しておくことが大切となる。

⇒ココの記事を書く意図の一つはこれだったりもするな。ネガな事を書いているが、単純に “書いてある事の逆をやってみると、良いかもしれないリスト” として機能しているし。
全て未来の取扱説明書が出来ている感じがするw

19:そもそも人が生き方に迷ったとき、なぜ過去を振り返って、あれこれ考えるのだろうか。それは、過去を整理しない限り、前に進むことができないからだ。果たしてこれまでの自分の人生とは関係なく、これから先の人生をどうにでもつくっていけるものだろうか。

私たちは自分の物語を生きている。物語というのは意味の世界だ。できごとの羅列ではない。私たちの過去も、事実の羅列でなく、意味のある物語として記憶の中に保持されているのである。

⇒事象を自己の中でタグ付けして整理する事で、今後起きていく事も整理しやすい的な事だな。

このタグ(整理方法)の違いが人の違いな気がする。

20:悔やまれる過去へのとらわれから解放されて前向きになるためには、とらわれているできごとをしっかり消化する必要がある。考えるのをやめて前をみようなどと言っても、それは無理な話だ。

⇒消化に為にココに書いていると言えるな。誰だって人に話すしな。

たまに 「ブログには書かない方が良い」 的な言葉を貰ったりするが、記憶は変化するので、なるべく事実と記憶が近い状態のフレッシュなログは残した方が良いと思う。

21:100点満点のテストで80点を取って大いに落胆する子もいれば、70点を取って大喜びをする子もいる。70点より80点の方が好成績なのは言うまでもない。それにもかかわらず、80点の子が落胆し、70点の子が喜ぶ。それは、その子たちの生きている自己物語が違うからだ。

⇒故にAZZLOは “歳食った見習いでゴミ” が好きなんだよな。最初からマイナス得点なので、0点になりすれば大喜び出来るぐらいだもんな♪・・・中途半端な得点とかは好みじゃないな。

22:嫌なできごとを思い出すたびにネガティブな気分になる。そんなとき、わざと楽しいことを思い出すことでポジティブな気分を引き出し、気分を中和するというやり方もある。それに対して、視点を変えて語るという方法は、ネガティブな記憶そのものを書き換えてしまおうというものである。

⇒明石家サンタがそんな感じだな。

23:意外に見逃されがちなのが、深刻なことを軽く話しているときにも新たな視点が注入されることがあるということだ。単なる無駄話になっていることも少なくないだろうが、ときに軽いタッチでユーモラスに語るうちに気分が晴れてくることがある。その効果をもっと積極的に利用しない手はない。

⇒ココがまさしくそうだな。

24:未来に力強く向かっていけるような新たな自己物語の中に、悲惨な体験をうまく位置づけることができれば、気持ちは落ち着き、前向きになれる。

⇒コンプレックスも活用して動ける理由に摩り替えていこう♪ という事だな。大概、カンブリア宮殿、情熱大陸、ソロモン流みたいな番組に出てくる人って “トラウマ” みたいな過去を抱えてるし。

25:似たような境遇にあっても、イキイキと充実した日々を過ごしている人もいれば、愚痴っぽくうつうつとした日々を過ごしている人もいる。境遇そのものが問題なのではなく、自分の境遇をどう意味づけるかが問題なのである。私たちは、現実そのものを生きているのではなく、現実が自分にとってもつ意味の世界を生きているのだ。(中略)

自分の人生に対して、「意味がない」 とか 「虚しい」 といった意味づけをしているのは、紛れもなく本人自身なのである。

⇒その点意味づけという意味では、ヒエラルキーというのが便利だ。そして

“ヒエラルキーに伴って演じる事が楽しみであり組織の義務となる”

だろう。

しかしヒエラルキーを 「偉いのに敬まれない・・・」 といった人の価値として勘違いをするのは、タグの付け方を間違えていると言える。

26:思い出すと心地よい記憶を蓄積しておくと、気持ちの落ち込んでいるときなどに活用することができる。

落ち込んでいるときは、自己コントロールしないでいると、ついついネガティブな記憶を引き出し、反芻してしまう。そんなとき、落ち込みにくいタイプは、ポジティブな記憶を引き出すことで気分を中和しようとする傾向がある。それは、無意識のうちに行っている自己防衛策だが、積極的に取り入れたい手法だ。

そのためにも、ポジティブな記憶を時々思い出すことで、アクセスを良くしておくことが大切だ。できごとの詳細を思い出すだけでなく、そのときの気持ちも思い出してみるとよい。

⇒その点、AZZLOは95.6年の DJ WADA @ マニアックラブ(生録) を持っているので、ポジな記憶の引き出し手段がある。ログ好きなのは生録が基礎だw

と同時に、ネガな記憶もココの記事であったり、ログ化しておく訳だが、時間が経ってみると 「何を長々と考えてんだ自分?」 と思う記事があるw

この時に自分の変化を感じるし、自分で自分が分からない事の大半は “もう必要ない事” と実感して、今後感じる事のない事象に変化していっている気がする。

例えば腹が立つ偉いおっさんに対して

過去:「腹が立つ」
1年後:「それぞれの育ちが起因だと推測する」
2年後:「世の中の偉い人と偉いおっさんが違う事に気付く」
3年後:「腹が立つ偉いおっさんの真逆を実行する事で、自己成長を目指す」

みたいな事を、それぞれ因果関係を確認出来る様に、ログはあった方が良いと思う。

27:どんなに嫌なできごとにも、時間をおいてからじっくり検討してみると、意外にポジティブな面が見つかるものだ。自己物語面接を通してわかったのは、前向きに生きている人はネガティブな記憶をポジティブに読み替えるのが得意だということである。

⇒まさしくココの事だな。


辛い経験や鬱な人ってのは、端的に言うと “気付く人” であるという気がするな。ネガな事まで気付くから鬱ったりするのだろう。

そして事象としての例えだが

風俗業やAV女優の方々は子供の頃に親にレイプされた経験がある人が多かったりする。「親にやられたんだから、もう誰とでもヤれるわwww」 ってな変換が起きている人もいそう。

ある種、こぉいう変換が出来るのが記憶と付き合うテクニックなんだろう。

まず僕の基本はネガティブなんです。まず二次元で四面楚歌になってから、三次元に考えるという癖があるようです。xy軸で答えが出ない状態を一度作り、z軸を含めて再定義していくという考え方を実践しようとしてるんだな~と、自分を分かってきたところです。z軸の存在を知らないとネガティブなままで終わりますよね。

って思ってたし、”三次元の座標を求めると、まず二次元の限界までネガティブになる必要がある” と言えるな。

AZZLOは男子なので分からないが、”生理後の晴れ晴れとした気分♪” の為に、あえて生理中やってる時期があるのがAZZLOな気がする・・・w

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