目次
- はじめに
- 何故、堤清二への関心が高いのか?
- ゆる要約+追記(召喚)
- 「木内は本当にしつこくていやだから、…子会社/地方支社に飛ばしてやろう☆」
- 「世代が変わったわけだから、僕たちなりに解釈してやるんで引退して下さい(高い給料のポスト空けて下さい)」
- “ホテルにはいろいろな人が訪れるが故に文化のるつぼ”
- 「自分で考えて判断するコトに従業してくれ☆」
- 「政府から指示されない限りは、株主/役員に利があるままで良いんだよね? 従業員は “従業” させておけば良いんだよね???」
- “相手の次の言動を予測/期待し、こちらの言動を検討する行為”
- “ヒトは他者との比較と集団への所属によって幸を認識する”
- “物資の差に優越/劣等を感じる中、同程度で構成される集団になるコトで安堵感を得る”
- 進化が遅れた警備業界は、かねがね「暗黒大陸」と呼ばれてきたが、そこにある種の希望を見いだしたというのだ。
「(爺さんばかりの警備業は)資本の論理だけで解決する現実を備えている、という意味で『暗黒』と言われたのではなかったか」
曖昧模糊としたヒト(主に爺)の心に関わる労働は、誰も手をつけていない空白地帯でもある。だからこそ面白い仕事ができる——。コチラらしい逆転の発想だ。
-
- マクロ:”(法令順守している体で)金さえあれば良い”
- ミクロ:”人の想い(クリエイティブ)” を重視(ニーズが無かったり、立ち居地の定義が下手で金にならない)
はじめに
堤清二に関しては昔の本から順序良く読んでいくつもりだったんだが
の記事が面白いので、本伝であるこの本を手に取った。…いずれ外伝も本になるんだろうな。
ま、現時点での堤清二解釈を取得しておくのも悪くはないだろう。
と、かなり堤清二への関心が強いので、数冊本を読んだ気がしていたが
-読書感想- 無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉 / 堤 清二、三浦 展
以来、二冊目の堤清二本。
カーネギーを召喚する☆ (【読書感想】 人を動かす 新装版 / デール カーネギー)
でやってみた “召喚” スタイルでの要約は、著者である鈴木哲也氏を召喚してみようと思う☆
※書きにくかったので、鈴木哲也にコチラが憑依する温度感で書き上げた。…8割方コチラの見解になってしまったw
何故、堤清二への関心が高いのか?
本記事において書き起こしたが、読書感想とは軸がズレるので別記事とした。
ゆる要約+追記(召喚)
はじめに
いわゆる企業のマーケティングとか目立つ広告みたいのって、今だに30年以上前に起きたセゾンの広告の二番煎じって感じだと思うのよ。
当時は “三種の神器(カラーテレビ / クーラー / 自動車)” を多くの人が手にし終えた段階でさ、オリンピック症候群みたいな感じだったんじゃないかな? そんな時に
今で言うトコロの “モノじゃなくてコト”
的な、いわゆる “ライフスタイル提案” をヤッた んだよね。最近多くの企業が “ライフスタイル提案” って念仏の様に言ってるけど、そもそもはセゾングループが発端なんだよね。
特に1990年代以降はグローバル資本主義の影響で “数字こそ正義” みたいな風向きだったけど、最近の若者は “いわゆる金” よりも “充足感” を重視してたりするでしょ? “金で釣れない” となった大人たちは混乱している訳だけども、“金やモノじゃない形での人間の幸福” を追求した堤清二っていうセゾングループのボスが居た 訳ですよ☆
だから、現代において参考にするべきは、まさに堤清二じゃないか?ってなコトな訳なんだよねぇ♪
無印良品
酒が未来を生む
無印良品の小池一子が、無印良品が立ち上がる直前のコトを振り返ってるんだけども
「議論といっても、いわゆる会議のようなものではありませんでした。例えば、日本のものを美しいと思う感覚はどういうことかといった文化論、生活論のようなことを、時にお酒を飲みながら、堤さん、田中さんと一緒に話していました。~中略~ 普通に自然から収穫できる野菜や肉、木綿や絹などの布素材は、マークがなくても生活者は価値を感じます。ロゴマークだけがひとり歩きしてしまうのは生活者の感覚から離れているんじゃないか?。そんな疑問が、無印良品の思想的な出発点でした」
だってさ。
やっぱ、酒が未来を生むのは明白 ってコトだしw
デザインしかりモノとして感動してないのにロゴマークだけで陶酔出来るってオカシイよなぁw ちゃんと背景を知った上でのファンならば良い けども 大半は “テメェのモノサシが無い” 故なのが現実 だよね。
ま、故にユニクロやニトリみたいな企業が提供するサービスで 言うならば “無駄に散財しない賢い生活” みたいなのが流行ってきた事実はあるよね。…こぉいう感覚って無印良品が起源みたいなんだけどさ。
ポジショニングが明確
「他のスーパーのノーブランド商品(PB)は わけありげ の商品。西友のは わけあり 商品」
って、無印良品のコトを堤清二が言ってたんだけども、業務マーケティング的に捉えると “ポジショニングが明確” であったと言えるよね。
多くの企業は “前例が無い” が故に、あえてレッドオーシャン戦略を取るけど、堤清二のポジショニングは、競合が居ないブルーオーシャン戦略 と言えるよね☆ 競合どころかニーズもない(自覚出来ていない)クリアーオーシャン戦略の場合も少なくなかったみたいだけどもwww
そもそも “ガチなブルーオーシャン戦略” なんて無理ではないにせよ非常に難しい訳だけど…。視点切り替えからの言い換えが卓越していた 感じはするよね☆
クリエイティブな仕事
「問屋に任せてリスクを取らないところからは、クリエイティブな仕事は生まれない」
西武百貨店の担当者に激怒して浴びせた言葉らしいんだけど、”クリエイティブだなんだと言いながら外注だし、そもそも問屋だし” な広告代理店を堤清二が評したらどうなるんだろうなwww
皮肉な言葉 / 本位を汲み取る
1989年には西友から分離して別会社になった無印良品なんだけども、それを提案したのが木内政雄っていう西友のプロパー社員。堤清二は
「木内は本当にしつこくていやだから、そろそろほっぽり出してやろう」
そんな言い方で別会社化を許諾し、結局、1993年に木内政雄は無印良品の社長になったんだって。
多くの企業の社長では
だろうけどw “しつこいのは拘りや気力がある” のは間違いない よね。それを利用する経営者だったってコトだよね。当然中身が重要だけども、共感させるコトが下手な人間の本位を汲み取る能力が強かった とも言えるかもね?
真のグローバル感覚
2017年段階で海外店舗数が457店舗にもなって海外の方が多い状態なんだけど、海外展開において明確なルールがあるんだって。
「日本らしさ」や「クールジャパン」といったイメージを打ち出さない
そんなスタンスの無印良品が順調に成長していて、クールージャパンなんてワード、外国人は知らないという状況がなんとも皮肉 だよなwww
結局 “日本推し” なんていう手法では良くても一時的な隆盛 であってさ。グローバル視点で 本質が存在するならば、わざわざアピールするもんでもない んだよな。
“日本推し” って過去にぶら下がってる し、自信がない証拠 にもなっちゃうよな。
バトンを受け継ぐ者の使命
「堤さんの発言や考え方を調べながら、無印良品はどうあればいいのだろうと考えています。無印良品というものを “探求” するために」
「正しいかどうかは分かりません。けれど世代が変わったわけだから、僕たちなりに解釈して、自己責任でやるしかない」
「常に世の中を見わたして、『これはおかしい』とか『感じが悪いな』ということに対して、MUJIの価値観はこうあるべき、ということを提示していく。それによって、今では当たり前になった商品も、もとは無印良品がパイオニアなんだということを、消費者が感じるきっかけになると思います。製品そのものの競争では違いがなくなってきているけれど、根底にはどんな精神性があるのかということが、改めてこの先は大事なんだと思います」
って、無印良品の現会長である金井政明が言ってるんだけども、多くの会社組織の従業員においては
程度の宣言はあれど、“当時の精神性(言語化出来る社是とか)” で留まらず探求し続ける後輩たちを配する無印ってヤバイ よな☆ 大げさに言うと “コンセプト” って生き続けるものである必要を感じる よね♡
こぉいう 姿勢こそが真のブランド だと思うよな。しかも日本全国に留まらず海外展開も進められてる無印って貨幣軸でも結果出てるってコトな訳で、余計ヤバイ☆
多分、こぉいう姿勢も組み込まれてるんじゃないかな?
ある種、堤清二を憑依させてるからこそ、無印が成長してる のかもしれないね。
両義性(矛盾)の魅力
堤清二って高級ブランドブームを作った張本人だし、高級ホテル(インターコンチネンタル)を買収したりもしたんだけども、何故か「わけあって、安い」無印良品を作ったんだよね。
この 矛盾した人格が、”カワイイ”(しょうがねぇヤツだなw) というか、気にかけたくなる存在なのかもしれないね。
西武百貨店
イノベーションは逆境から生まれる
西武池袋本店って、増築に増築を重ねて既存店舗の大きさも違う上に、そもそも駅に沿う長い建物という課題があってさ。増築9期の時に
「この店を長い通りだと思えばいいんだ。途中におまわりさんが立っていても、大八車が通っていてもいい」
と言ったんだってw ある種、無理くりな “ものは言いよう” だけども、言ってみると意外と良かったりする もんなんだよなw
タレント起用広告を避ける
“既存のものをカネで買う” ではなく “自らつくる” という考えで、タレント起用を避けてた っぽいんだよね。
タレント起用広告って、結局 “タレントの広告” になってるのが大半 じゃない? 反響見てもタレントに対する言及ばかりで商品に対してのコメント無いじゃんw ギャラ効率も良いからタレントってCM大好きだしw それじゃぁ企業側の旨味って少ないよね。
そんな当たり前なコトを “知っている上でやる” ならまだしも “自分がタレントを間近で見たい” からタレントキャスティングする広告代理店ってマジでクズ だよね☆ 企業の達成ではなくテメェのエゴを優先してる 訳だから。
“変” で良いから、まずは知名度
今でもそうだろうけど、国内有名人の催事でしか人が来ない上に、池袋という立地を踏まえると、より厳しいコトを踏まえて現代絵画や抽象絵画の文化催事をやったんだって。とりあえず
“変わった文化催事をやる西武百貨店”
という 知名度だけは広まった んだってさ。
ちょっと違うかもだけど、黎明期のYOUTUBERなんかも同様だし、全て発端はそぉいう段階から発展したもの だよね。
ま、今はどんな領域でも情報展開が早いので、権威構造が速攻で構築されてスタンダードになっちゃう ので、”変” が長続きしない傾向が早まってるよね。
精々2.3年で試行錯誤がやり尽くされて(ほぼ)オワコンになっちゃう。この点がインターネット普及の一番の変化だと思う な。
お坊ちゃんコンプレックス
「世情を知らなければならない」
って連呼してたらしんだけども、結局本人のコンプレックスだったという見方が多いんだよね。
“間違いなくマイノリティー”(大実業家の息子)
だった訳で、その上で事業をするというのは当然、“訳分からん庶民を相手にする” というコト だよなw
“庶民が庶民感覚で接する” ダイエー式もアリだけども、“上から目線の自覚から頑張ったら庶民よりも庶民を理解…どころか人を理解しようとまでしてしまったw” とも言える かもね。結局、物販だから “安さ” って揺るがない評価だけども、その先にある 根源的欲求に辿り着いちゃってる。…ほぼ哲学w
お坊ちゃん過ぎて世情を知らないから…考え過ぎて無印に辿り着いた感じだよねwww
“ノブレス・オブリージュ” にも通じるかもしれないね。
カレー味のカレー
「西武筑波店には映画館 も あります」と言った安森健(西武百貨店元幹部)に “映画館 が あります” と咎めたんだってw
映画館は百貨店の付属施設ではないというコトを周知したかったのが意図らしいんだけども、カレー味のウンコ or ウンコ味のカレーにはならない様に、ちゃんと定義した訳 だよね。
細かいかもしれないけど、誤解を産まない土台をしっかり共有する点は重要 だよね☆
できてしまったものには興味がない人
堤清二に対して “できてしまったものには興味がない人” という声は多い んだけども、”発展し続ける(前提の)土台” であれば、後はモチベーション高い人が関与すれば良いコト だよね。舞台を作って差し上げる とも言えるよね。
自分の得意分野に執着する経営者って少なくないけど、それって結局、”大プレイヤー” なだけ でさ。マネージャー意識、当然ながら経営者ではないケースが多々散見されるよね。
特に新規事業は忖度が起こりやすいし、”できてしまう前” に失敗前提の事業プランになりやすい。故にトップが明確にベースだけ作って、後は放置するスタイルは理にかなってるとも言えるよね。
その後の発展が続かないのは、人事/採用ミスの場合も多々ある筈だよw
パルコ
マンネリ化するパルコ
「やっぱり、マンネリになったのかなあ」
「重要なのは、単独の名店がどういう価値を持っているかを見つけだす目を持つこと。そしてパルコ自体が消費者に対する発信力を鍛えること」
既に顕在化したニーズに後追い対応するだけではなく、”ノビシロ”(潜在ニーズ) とかも踏まえて取り組んでいたのが過去のパルコだったのかもね。
その “ノビシロ” は “ノビシロ感” というイメージ定着に達してしまう し、“ノビを繰り返し認識する” と “シロ” ではなくなるw よって今までの “パルコ感” がマンネリしちゃうというジレンマを指摘したと解釈出来るね。
結局サブカルってもう市民権得てる訳だし経済市場としても明確な存在感があって、そんなにサブでもないどころか、メイン張ってたりするのが現実 だしねw
…晩年でも感覚は錆びてないよね。
多様性
今騒がれている “多様性” って、
“どんな場所でも、どんな人に対しても尊重しましょう” (ワガママし放題なんだから、相手のコトも許しましょう☆)
という臭いも含まれてる感じするでしょ? それって 狭い範囲(N1同士)でも多様性を達成しようとするから、”個の尊重(ワガママし放題)” という感じになっちゃう んだと思うけど
“一定の傾向を持つ集団”(集団なんだからN1ではない)という単位で、尊重しあう、堤清二であれば西武百貨店集団とパルコ集団(他にもあるが)で高めあった 訳で、範囲が狭すぎる現代の多様性の解釈は再考する必要があるかもね。
結局、N1で尊重されても人は不安 なんだよ。何かしら自分を形容する為の所属欲は消えない んじゃないかな?
突き詰めると “自分の所属はじぶん” という段階に達するのかもだけど、現実は “複数の所属を組み合わせたじぶん” だろう し、”そぉいう思想の集団” と括るコトも出来るw
“物理的な個と精神としての集団である個人は問題を抱え幸福を感じる”
この、当たり前の様な矛盾してる様な…どうでも良い様なw コトに人って支配されてる 訳だけど、この “無様さ” は “無様である者同士” 故、お互いを際立たせる、企業活動的には成長する、というコトなのかもしれないね。
※この一節は完全にコチラの書き上げ。
専門店
誰かさんに似てるw
セゾングループの強みは、新たな事業の企画力だと言えるんだけども、マネタイズにおいては苦労が多いし失敗も多いw
…誰かさんに似てるよなw
ホテル・レジャー
ホテルは文化
という捉え方をしていたから、ホテル事業が好きだったんだって。
蔵前のNuiが、かなり “文化のるつぼ” を体現している けど、…おそらく “庶民の生活を合法的に覗き見出来る” が故に好きだった んじゃないかな?w
ホテルに就寝以外のコトを望む感覚が、そもそもズレてる お坊ちゃんであったコトを立証しているかもしれない?w
チェーンオペレーション
権威意識を壊す
セゾングループに権威意識が生まれてきたコトに対して、壊すコトを意識していたみたいでね。
結果としては、グループそのものが解体として壊れた訳だけどもw それも堤清二にとっては悪いコトではなかったのかも しれないね。
今、セゾングループが財政的に問題なく健在であったら…、ネット企業のしょうもなさを濃縮したような組織になってたシナリオもありえる よね…w
各地に散らばったセゾンな人たちが、今いる場所で奮闘し続ける コトが、いずれ必要になった気がするし、不可抗力での解体ではあるけど良い転機だったかも しれないね。
人間の本質を理解した事業展開が重要
ダイエーのスタイルは端的に言うと “安い” を軸にしたものだけど、セゾンは明確に “(流通業は)マージナル(境界)産業だ” と主張して、“資本の論理と人間の論理の境界のビジネス” だという考えなんだって。
そうでないと “機能的には同じものを高い店で買う” という論理が成り立たない よね。また、ダイエーは “既存商品” においては機能するけども、潜在ニーズを掘り起こすコトは絶対に出来ない んだよね。
そして、現代においては “いわゆる流通業” だけが、この2つの考え方に分類される訳ではなくて、実は殆どのビジネスが、ダイエー的かセゾン的か?の分類が可能な状態にある と思う。
単純な “企業(だけ)繁栄” であれば、amazon的な独占方向が正しいけど、人の心の充足を踏まえると “amazonで買った” よりも “銀座の専門店に行って定価で買った” では、どちらが自慢するコトになるだろう?www
本当の国益に寄与する為の人益
「資本の力だけでやれると思うからいけない。エコノミックアニマルをなにも国内でやる必要はないよ、と言っているんです」
少なくても “国内でやる必要はないよ” というのがポイント じゃないかと思う。
“資本が潤沢にない限り海外展開も難しい” という論理も内容によっては今だ間違ってないけど、多くの産業において海外資本によって国内を占領されるのは起きている事実 だからね。国内視点で盲目であれば日本企業同士の共食いでもある し…。
結局、同じ資本勝負ならば、日本基軸では勝ち目ない もんね。
資本軸では、もうamazonには到底太刀打ち出来ないし、そもそも太刀打ち出来ない状態になる条件が元々存在していた 訳だよね。…無印良品が海外展開出来てるのは、資本勝負とは違う軸で成り立ってる 側面からして既存の日本企業は今後も可能性低いのは明らかになっちゃうね…。
…そして、実は 堤清二のコンプレックスの表れでもあるんじゃないかな? なんだかんだいって、”資本の力だけでやってきた” とも言えるのがセゾン な訳なんだよね…w
どのタイミングで言い当てるか? という時間軸によっても “資本の力だけだった” かの見解は変化する とは思うよ。
未就労児への教育をやらなかった(面白がってる大人が居れば子供は自ら学ぶ)
「自分の頭でものを考え、判断することが質販店なのである」(社史『セゾンの歴史』)
ダイエーの “量販店” に対する考えとして定義したのが “質販店” なんだけども、”従業員” に
と言っても、ほぼ矛盾してるしw 中々難しいよねwww 事実、意味がわからず分かっても管理し難い訳だから大混乱したんだってwww
…結局は “判断” を任せられる人間を “育てる” 前に、”採用段階で見抜く” 人事採用力が多くの企業で課題なんだと思うんだよね。…その可能性を高める未就労児に対する教育に手を付けない限りは、数の担保が出来ないんだけども…。
セゾンですら、その点は非常に苦労し続け、やり切れた訳ではないんだよね。“大衆” に興味があった堤清二ならば当然分かっていたコトだと思う けど、…営利組織を運営しながら、このコトバを言っちゃった矛盾が魅力的だと思うんだ。
“聰明な偉いヒト” においては、根本的な人材育成を、いわゆる本業とは別に”未就労児への教育” の領域で行おうとするもんだけども、本業のままで行おうとする姿勢が興味深くて仕方がない んだよね。
松下幸之助による “事情部制” のまま、この指標を実行するのは難しかったとも読み取る と、新たな組織体制を作れる種があった気もするね。ま、堤清二はそぉいうの興味無さそうだけどwww
いわゆる “コンセプト” が決まったら極論中身はどうでも良い “完全なマーケティングプランナー” な基質を感じる よw
…拡大解釈だろうけど、“面白がってる大人が居れば子供は自ら学ぶ” こういった事実を起こしていこうとしていたのかな? なんて深読みしちゃうんだよね☆
ネットによるグローバル資本主義を予言していた
「社会全体としては、管理社会化がいよいよ強くなっている。ことにニューメディアが発達してきて、ホーム・ショッピングというようなことになりますと、ナショナル・ブランドのものだったらホーム・ショッピングで買えるけれども、それ以外のものは行ってみなければ買えないということになります。放っておくと、消費生活の管理化が進むだろうと思うのです」
「これから怖いのは、再編や独占化が進んで産業界の多様性がなくなること。それと統制経済で自由が失われることだと思います」
“ナショナル” に “インターナショナル” を含めても含めなくても、今現在、完全にこうなってるよね。
これは貨幣消費の点だけでなく、amazon以前のgoogle検索段階でも多義に渡って起きているコト(検索1ページ目しか見ない)だし、“多様性を尊重”(個の理解) が “多集物を認知(存在の容認)” するだけのインスタントな定義に置き換わってしまっている しね…。
※以下、やはり書き難いので、召喚(憑依)スタイルを辞めて、過去の引用/感想スタイルで書き上げる。
賃金や働き方の問題
「賃金や働き方の問題は、本来ならば経営というものの中で考えるべきでしょう。それを『官製』で動かそうとすることに対して、堤さんは頑として反対したと思います」(ロフト元社長 安森健)
というコトになってるし、渋々対応することで政府に対して借りを作ってやっている と言えてしまう。
“従業員思い” になってないのは、強制しなければ起きない利己的な集団であるが故なのが、そもそも なんである。
…より自立した経営者を産まない “しつけ” になってる んだよな。
※ “働き方改革” の内容そのものが、”従業員思い” でないのも “いずれにせよ利己的” である。
人間・堤清二
息子に理づめで泣くまで質問する
清二の次男・堤たか雄はこんな思い出を打ち明けてくれた。
「唯一、父に怒られた記憶があるのが、小学生くらいの頃、父の運転手がいらして、私が『だって運転手なんだからいいじゃない』と言った時のことです。父は怒鳴るというよりも、理づめで私が泣くまで聞いてきました。『なんで運転手はダメなんですか』『あなたと運転手さんはどう違うんですか』『どういう点であなたが偉くて、運転手は偉くないんですか』と。『それは最もくだらない人間の考え方だ』というようなことを言われました」
完全にコレだよな。コレが出来る金持ちは最高だと思う☆ 小人でも人格があって尊重するが故、スルーしてはいけないコトだ。…弟の堤義明は顔の感じからして、コレを出来る印象は無いな。
『それは最もくだらない人間の考え方だ』
は、多くの “スノッブ(エリート)” が陥る事象であり、コチラが険悪する “偉いおっさん” のコトな訳だが
そもそもエリートというのは“庶民が達成出来る上位レイヤー”である。本質は “慰め” である。(大卒者 (エリート) が組織で使いものにならない理由)
であるし、エリートではない “ガチお坊ちゃま” である堤清二のコトバで、コチラの見解を肯定されている様で、超自尊心の充足を感じるエピソード だなw
マーケティングの定義
「よろこんでもらうには、お客の言うことを聞いていてはダメですよね。アンケートを取ったり、マーケティングをやったりした結果ではなく、もっと考えないと、次の姿は出てこないわけだから」(糸井重里)
とのコトだが
もし顧客に、彼らの望むものを聞いていたら、彼らは「もっと速い馬が欲しい」と答えていただろう。(ヘンリー・フォード)
と同じコトだ。
が、糸井重里ならば “もっと考える” ではなく “故にこうだ!” という提言があっても良さ気だが…。ま、信者を生むというコトは “もっと考える” 人が減る訳だから、こぉいうコトバになったのかな?
ちなみにコチラのマーケティングの定義は
過去に違うコトバとして残しているが、今の言語能力では、このように表される。
要は、マーケティングとは販促、すなわち “カネになるコト” だけが対象ではなく、特にヤル前の2人とかそうだし、コミュニケーションをするヒトであれば、瞬間瞬間でやる行為 だと思っている。
故にかどうかは分からないが、最近 “企業の個人化(親しみやすさ)” なんていう手法が行われるのだと思う。
必要なのは “マーケティングではない新たな魔法” ではなく “ちゃんとマーケティングする” である と思うんだよな。
ちゃんとマーケティングするのであれば、材料としてのアンケートもあっても良い。「ここまでは言語領域で認識し、言語化出来るのか」と捉えるならば、一つの材料 である。
エゴに利用されるヒトの感情
「全消費者が同じ生活様式を持つならば、最も工業化が進むという、第二次世界大戦中の物資統制令、国民総動員法にも似た主張へと展開しかねない」(『変革の透視図』)
数段階すっ飛ばすが
と読み解く。コレを少し具体的にすると
となる。問題は 幸福面を削ぎ落とし不幸面に顔面着地させる悪用も可能であるというコトへの指摘 なんだろうと思う。
“不幸” に “散財” を含めた場合、いわゆるソシャゲやキャバクラと同様であると言える。
…”オウム真理教のロジック” も同じような感じかもな。
逆転の発想
進化が遅れた流通業界は、かねがね「暗黒大陸」と呼ばれてきたが、そこにある種の希望を見いだしたというのだ。
「(流通業は)資本の論理だけでは解明しにくい本質を備えている、という意味で『暗黒』と言われたのではなかったか」(カッコ内は筆者補足)
曖昧模糊とした消費に関わる産業は、誰も手をつけていない空白地帯でもある。だからこそ面白い仕事ができる——。堤らしい逆転の発想だ。
こんな感じで、コチラの現在を表すコトが出来るなw
死について
「いつも綱の上を歩いていた
地上よりもその方が私には安全なのだ」
死について 辻井喬(堤清二)
色々な解釈が出来すぎるので、何から感想を書いてよいか分からない、という感想になるなw
孤独であったと同時に依存でもあった様に読み取れる。いずれにしても父の存在と自己の存在の葛藤が滲み出てる印象を持つな。
感想
召喚がやり辛かった…
本人の著作なら召喚はやりやすいのだろうが、こおいう “あるヒトを題材にした本” では著者が別に居るのと、”登場人物” の発言も混じり、非常にやり難かったw …故に最後は普通の引用/感想スタイルにしてしまった。
疑問
何故、西武百貨店から “西武” を外さなかったのか? まず最初にやっても良さそうなコトだと思うのだが…? 父と弟に対する意地、”本流はオレ☆” という思いがありそうだ。
何故セゾンなのか? フランス語で “季節” を表すコトバだが…調べてみたが言及している記事は出てこない…。
今セゾンが存在していたら、どうなっていただろうか? “残りカス集団” ではなく、良い状態で現代に堤清二が生きていたら…。
貨幣依存な経営者ばかりの現代
松下幸之助(松下電器)、中内功(ダイエー)…そして堤清二といった戦後高度成長期に活躍した経営者には “思想” と言えるコトバが沢山残っているけども、現在のネット企業しかりの経営者のコトバって孫正義、見城徹以外、イマイチ印象がない。ニュース記事になるのは “決算報告” ぐらいだし、対談や本出版で本人の意思の共有機会はあるけども “身をもって出たコトバ” ではない空気感を感じてしまう。
身のコトバであっても、洗練された状態に昇華された感じを受ける機会が少なすぎる印象だ。コチラの言語感覚が古いのもあるんだろうが…w
ノーブランド人間(無印良人)
コチラが不可抗力とは言え、“何者でもない者” を快感と感じる点は
AZZLOも “水谷暢宏の孫” “YUMI YAMAZAKIの息子” “DJのTAKA-AKI” という肩書はレッテルに感じる部分もあったので、会社員を目指したのはあるな。
が、言及した履歴としてある上に、“成功案件” によって 巨匠になっちゃった コトを嫌った経緯がある。
堤清二も “康次郎の息子” というメタタグを生まれながらにして持ち、”らーめん百貨店を一流百貨店にした” etc. 結果も良かったが故に、更にメタタグが増えてしまったジレンマ故に、無印良品に辿り着いたのだと思う。結果、無印良品もメタタグ化されてしまう訳だがw
コチラはそもそも貨幣軸で堤清二とは桁が違うが、“メタタグ無しの自分自身” を追い求める生き様が一致するが故に興味が湧く のだろうと思う。コチラは広告代理店時代 広告賞とか煙たかったのでエントリーすらしなかった しな。
経営者や 権威的な立場に就く男性にハードM男が多い 点も “メタタグ無しの自分自身” を欲する心理なんだと思うしなw
大衆への関心/愛
“大衆” への関心が高く、発信する内容は感覚の鋭さがあるが、お坊ちゃん故の勘違い(オーバースペックetc.)も起きる故、苦労が続く人生だったのだろう。
“大衆” を愛していた(憧れ含む)おっさん であったんだと思う。田中角栄とかも同様な気配を感じるけど、ふたりともカネが足かせとなって終了しているという点が物悲しいと感じるな。
まとめ
意識/文化的に “啓蒙” したのは事実なのだと思うが、セゾンが消滅した途端に、セゾン的な臭いが消滅した点が気になる。進化寄りの時代変化ではなく退化寄りの時代変化である印象を持つ…。
現在は
このどちらかに振り切り過ぎているが故に、どちらも上手くいかないのだろう。
コチラの思考整理として散々言及しているコト だが、堤清二は “マクロとミクロの接点(被るエリア)” を感覚的に見つけ出す能力が高かった のだと感じる。
故に、どちらかにしか触れない / 接点を無視してごちゃ混ぜ(取り急ぎ対応)にする経営者たちに、気付きを与える本 なんじゃないかと思う。
LEAVE A REPLY